第四十話
橘花音との甘い記憶も
故郷の町から続いた流浪の日々も
実家の納屋で受けた残虐な仕打ちの数々も
母を埋める穴を掘らされた屈辱も
遠い過去、確かに受けた誰かの愛も
全ての記憶が、自分とは何ら関係のない他人のもので
それ以前にその『自分』が、与えられただけのものに過ぎない
舞う埃ですら静止したと錯覚させるような静寂が流れる中、静馬は瞬きもせず立ち尽くした。
背中に感じる少女の感触すら現実感を喪失し、もはや自分が立っているのか、座っているのかも静馬は知覚できなかった。自分が何処にいるのか分からない、そんな感覚から逃れようと、乾いた唇を蠢かしてみる。
「……嘘を言うな」
「嘘ではないよ。証拠……では無いが、まぁ説明するとだ。改造人間の義体……いわゆる『ガワ』だけがどれだけ強力だとしても、そいつを扱う脳味噌がポンコツじゃ意味が無い。戦闘技術だけならまだ用意できるが、それだけではまだ足りない。つまりハートだよ。『技』、『体』、これらが揃ったのなら後は『心』だけだ」
そんなことを聞きたいんじゃない
「改造人間に求められる心に、道徳とか良心は当然いらない。兵器として、道具として運用するにあたって支障が無ければそれでいいのだよ。ところがどうだ、きみのオリジナルである桐谷静馬は、他人どころか自分にも執着というものを持たない。実に理想的じゃないか」
そんなことを聞きたいんじゃない
「そういうワケで桐谷静馬の模造品としてきみを創ったワケだが、そのまま改造人間にして『最強の改造人間です』と財団に提出しても説得力が薄い。私の持論を立証するためには、実績が必要だったのだ。するとどうだ、麻倉のヤツが『殺人衝動』なんて代物を刷り込んだ改造人間でクーデターじみた計画をしているなんて話が転がり込んできた」
そんなことが聞きたいんじゃない
「私はきみを素体としてあの屋敷に送り、ヤツに改造させた。そして現地に潜伏していた私の手の者によって、そこの女はまんまと暴走した。そうそう、その女の素体にきみ、いや、静馬の恋人を麻倉に選ばせたのも私だよ。麻倉のヤツは自分で無作為に選定したつもりだろうがね」
そんなことが聞きたいんじゃない
「相手側の改造人間に橘花音を選んだのも、全ては計画が成功した時の説得力を強めるためだよ。『相手が恋人でも躊躇なく殺せます』っていう、な。かくして私の計画した演習は始まり、結果きみは私が望んだ結果を出してくれた。改造人間という兵器の欠けたパーツ…『心』を埋める、桐谷静馬という新たなパーツが組み込まれ、改造人間は完成し、私は財団内での更なる権威を約束されるというわけだ」
「僕は、そんなことが聞きたいんじゃ、ない」
都筑は手にした計器のようなもの見て、ぽんと手を打ってみせた。
「確かに精神が混乱気味だな。ああ、言い忘れていたがね、きみの視覚、嗅覚をはじめとしたあらゆる情報は私の方でモニターさせてもらっているよ。監視の結果、多少のブレこそあれど、きみは使命をよく全うしてくれたよ。…では、この演習もそろそろフィナーレを迎える時だ」
待ちきれない、堪らないといった心の声が聞こえてくるような形相で都筑は右手をゆらりと持ち上げる。
虚空を見つめ、喪失した現実感を掴めずにいる静馬に、都筑は更なる追い討ちをかける。
「その背中の女を殺せ。どうせ『きみ』の女じゃない」




