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灰色男と恋わずらい  作者: 榊原啓悠
アイデンティティー・クライシス
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第三十七話

 過去の映像が脳を駆け巡り、血濡れの少女は炎と瓦礫の海で崩れ落ちた。

 残った片腕を差し出した静馬によって、すんでのところで少女―橘花音は抱きとめられる。

 静馬はそっと平らな地面に花音を寝かせて、その額に優しく口づけをする。愛の無い、習慣としてのキス。かつて共に暮らしていた頃、『お休みのキス』とやらを花音に迫られたことを思い出して、取り敢えずやってみただけのこと。 

ただ、ただそれだけの行為であるはずなのに、静馬の心には湧き上がる何かがあった。乾いて砕け散った静馬の心に染み出すその暖かい何かが、彼の無機質な義体を包み込んだ。


 燃え盛る火炎と、もうもうと立ち上る煙が、どれだけ情景を殺風景にしても、それは寄り添う二人には関係のないこと。

 誰もいない、二人だけの世界。


「ひどい、ひどいことばかりが続くけれど、もうきみを離したりしない。きみから逃げたりしないよ。あれからのいろんなことが、僕にそれを気付かせてくれたから。――目が覚めたら、どうか僕に言い訳をする時間を与えて欲しい。きみの説教は、花屋で働いていた頃から苦手だったから」

 囁くような声で、眠る少女にだけ聞こえる声で静馬は想いを口にした。


「実に感動的な幕引きだが、これでこの実験も完了というわけだな」

 穏やかな空気を引き裂いて、白衣の男が十数人の部下を引き連れて瓦礫を掻き分けやって来る。

 もちろん瓦礫を退かしているのは白衣の男では無く、傍にいる十数人の男達である。その虚ろな表情と人間離れした怪力は、まさしく改造人間のそれであることは明らかであった。

 瞬間、静馬は突然の闖入者達に対して殺気を迸らせた。

「西島の言っていた……財団の刺客、か?」

 花音をかばうようにして、静馬が構えをとる。既に満身創痍であるが、やっと見えてきた希望を奪われるわけにもいかなかった。だが、最新型とはいえ、片腕が動かず、先程までの戦闘で活動限界時間が差し迫っている静馬には、眼前に立ちはだかる十数人の改造人間を相手に大立ち回りを演じるなどという芸当は不可能である。故に、仕留めるならば、少ない手数で確実に、一人ずつ。圧倒的性能差を覆してみせた森での戦闘を思い出しながら、静馬は全身に緊張を漲らせた。

「私達は財団の命で来たのではないよ。……かといって、きみ達を逃がすつもりもないが」

 燃え盛る炎に熱されてか、汗を拭きつつ白衣の男は問いに答える。静馬の放つ、それがすでに暴力でさえある悪意を全身に受け止めてなお、男は不敵に笑っていた。

 やがて控えていた改造人間達が、この状況を既に想定していたかのように静馬と花音の周囲を囲んだ。事実、ここまでの流れを全て白衣の男は掌握していた。

「僕達を逃がさないで、どうするんだ? ここで殺すか?」

「まさか、そんなもったいないことはしないさ。そこで寝ている麻倉の改造人間はどうでもいいが」

 麻倉の、という男の発言に引っかかるものを感じた静馬は警戒を緩めないまま、男に問うてみることにした。

「麻倉幹久のことを知ってるのか?」

「ああ、奴とは昔同じ研究をしていてね。愚図の割には姑息な手段を使う男だった。おかげで若き日の私は奴に一杯食わされて学会を追放された」

「それで行き着いた先が『財団』か」

「ご明察。程なくして奴も財団に入ってきたが、既に新たな人員と設備を与えられていた私に敵うはずもなく、そのままズルズルと信用と地位を失っていった」

 なるほどな、と静馬は口には出さずとも納得した。財団内部での己の地位と名誉を復活させるためにも、強力な改造人間とそれに最適な素体が必要だったのだ。

 焦燥に駆られて我を忘れ、暴走した果てに生んだ怪物の素に橘花音が選ばれたのだと思うと、静馬は思わず目つきが鋭くなった。

「――話を戻そう。あんた達は、財団に命令されたわけでも無いのに、僕達に何の用があるっていうんだ」

「ああ……簡潔に述べるなら、我々はきみを迎えにきたんだ。桐谷静馬」

 ぐにゃり、と男の顔が歪む。静馬の発するそれとはまた異質な狂気が、男を中心にとぐろを巻いたように静馬は感じた。

「ここでは何だし、場所を移さないか? ここもいつ燃えてしまうか分からんしな」

 言うと、痩身の男は付いてこい、と無言で促して百八十度回頭した。即座に控えている改造人間達が砕けて散乱したコンクリート片や横倒しの電柱を退かして主の進路を確保する。

 勿論、この誘いに取り合う必要は静馬には全く無い。去って行く男達にあかんべえをして花音を連れてどこかへ行くこともできた。

だが、静馬にその選択肢が浮かぶことは無かった。

 行かなければならない。そう直感した静馬は、理性では反対しつつも、花音をおぶって男のあとを追う。

 炎に囲まれているというのに、静馬の肩で花音は無垢な子供のように安らかな寝顔をしていた。


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