第三十話
この世の全てを焼き尽くしてもまだ足りない程の憎悪。それが静馬から染み出していた悪寒の正体であることを、その醜悪な笑みは物語っていた。
あまりにも深く、そして暗い感情をむき出しにされて、あきらはそれだけで身体を支える力を失った。床に座り込むあきらを見下ろして、静馬はなおも語る。
「母は、僕が小学校二年の時、父に殺された。……何度もバットで殴られたのかな、死に顔を拝むこともできなかった。――その日の晩、僕は父に連れられて裏山に母を棄てに行った。埋めやすいようにって、父は母だったそれを細かくしてから穴に棄てた。穴は僕が掘ったんだ。…………もっと深く掘っていれば、あんな風に母さんをバラされずに済んだかもしれないって思うと、今でもやりきれない」
静馬が一言発するたびに、部屋の室温が下がっていくような錯覚に襲われて、佐条あきらは思わず自分を抱きしめた。
「それから一年して、今度は妹が襲われるようになった。そのたびに僕が代わりに殴られたけど、大体いつも守りきれなかったよ。そのうち亜麻音は……妹は、喋れなくなった」
外から聞こえるサイレンが、一層おどろおどろしい雰囲気を醸し出す。あきらは恐怖のあまり、吐き気すら覚えた。思わずしてしまった失禁による不快感も、今の彼女には湧いてこない。
「親父はそれからしばらくして、僕らを納屋に監禁するようになった。それから、僕らのところに沢山の大人が来るようになった。大人たちは僕と亜麻音に色々命令するんだ。服を脱げとか、亜麻音をぶてとか、お」
「やめて! もうやめてよぉ!」
悲痛な叫びが木霊し、リビングがしんと静まり返る。部屋から様子を伺っていた陽介も、とうとう見かねたのか、ドタドタと階段を降りてきた。
「何してんだよアンタ! 姉ちゃんに何をした!」
尋常では無い殺気を漲らせる静馬に臆することなく、陽介は姉を守るべく、棒立ちの静馬の腹部に鉄拳を叩き込んだ。
しかし相手は改造人間。逆に殴った拳に鋭い痛みが走り、一瞬ひるむ。だが静馬はその隙に報復を実行しようとはしなかった。
「……駄目だよ、暴力は」
「黙れよ! 色々おかしいんだよアンタ! 右腕は潰れてるし、目は死んでるし、姉ちゃんは漏らしてるし!」
震えるあきらを背に、陽介は恐怖心を必死に押さえ込んで静馬の眼前に立ちはだかる。その身体は、改造人間である静馬の腕力を以てすれば容易く突破できる程度の阻止力しか持ち合わせていない。しかし、姉を守ろうとする強い意志が、顔を出してきていた静馬の黒い感情を押しとどめることに成功した。
幼く、しかし強い意思を秘めたその瞳が、狂気を鞘に収めた静馬を射抜くように見つめる。必要とあらばもう一発蹴りでもいれてやるとばかりに力む陽介に対して静馬が口にした言葉は
「悪かった。少しムキになってたよ」
あまりに素直で、逆に疑わしい程であった。
穏やかな表情に戻った静馬だが、つい先程まで発していた瘴気の如きオーラの残滓が、未だこびりついているように陽介には感じられた。
姉にシャワーを浴びさせている間、陽介はこの得体の知れない訪問者に尋問じみた質問を試みたが、ことごとく躱されるばかり。何度か手が出たが、相も変わらず仏頂面を崩すことは無く、やがて気まずい沈黙が訪れた。
「……ごめんね、陽介。……静馬も」
湿った髪をタオルで拭きながら、部屋着に着替えたあきらがリビングに足を踏み入れる。風呂上りの姉にもちろん欲情することも無く、陽介は黙って右隣の椅子を引いた。そこは彼女の定位置であると同時に、いつ静馬が襲いかかっても陽介が庇うことができる位置でもあった。
「姉ちゃん、事情を説明してくれよ。こいつ何も言わねえんだ」
口を尖らせて不満を口にする弟に、しかしあきらは困ってしまった。この件に首を突っ込めば、ただでは済まないかもしれないのだ。それなのに、その渦中に弟を巻き込むことなど到底彼女にはできなかった。
「……陽介」
「何だよ」
「詳しいことは説明できないの……。お願い、分かって」
言い終わるやいなや、顔を真っ赤にして陽介は大きな音を立てて席から立ち上がった。倒れた椅子が床に接触して音を立てるのと、静馬が顔を上げたのはほぼ同時であった。
「っざっけんなよ! 去年の事件の時だってそうだ! 俺がそんなに信用できないのかよ! 俺だってもう子供じゃないんだ……!」
初めは険しい表情だったものの、徐々に表情が崩れていき、今にも泣き出してしまいそうな弟をそっと抱きしめて、あきらは子供をあやすようにして背中を撫でた。
寄り添い合う姉と弟にかつての自分を幻視して、静馬はこみ上げる吐き気に襲われた。あの頃、自分に寄り添っていた妹――亜麻音はもう、いないというのに。
無言で部屋に戻っていった陽介を見送ると、あきらは一層沈んだ面持ちで静馬の隣に腰掛けた。一連のやり取りを眺めていた静馬は、こみ上げる不快感を飲み込んで柔らかな表情を浮かべてみせた。少しでも居心地を良くしてやろうという静馬のなけなしの良心は
「いいよ、楽にして。逆に怖いよそんな引きつった笑顔」
むしろ逆効果だった。
「それは失礼」
瞼の裏にちらつく亜麻音の幻を振り払うように静馬は頭を振った。そんな挙動にさえ疲労が色濃く滲んでいるのに気付き、あきらは思わず自分とそう変わらない大きさである静馬の肩に手を置いていた。
「……なんだよ、あきら」
同情しているのか、と言いかけて静馬は出かけた言の葉を飲み込んだ。
雨に濡れた捨て猫を抱くようにあきらは静馬を抱きしめる。風呂上がりの暖かな少女の体温を感じながら、静馬はなんで、と掠れた声で尋ねた。
「そんな泣きそうな顔されたら、心配するでしょ」
言われて初めて、静馬は自分の顔が涙をこらえる子供のように歪んでいることに気が付いた。
普段付けている嗤い顔の仮面の裏で、静馬はいつも泣いていたのだ。
「ごめんなさい。あなたを傷つけるようなことを言ってしまって…」
「……僕も悪かったよ、あきら。つい、溜まってたものが出てきちまった。……それに、ありがとう」
まだ動く左腕を使ってあきらの頭を撫でる。まるで恋人同士のようなその所作に一瞬びくりとしたあきらに、静馬はどこか哀しげな笑顔を見せた。
「なんで、ありがとう?」
「なんでだろうね、言いたくなったんだ」
「……最初は、凄く怖かったの。静馬って、いつも仏頂面だし、目は死んでるし、精気無いし」
「……いきなりどうした?」
「言いたくなったの」
いたずらっぽく笑うあきらの顔に、もう先程までの陰りは無くなっていた。
「でもさ、今の静馬の顔見て分かったよ、あたし」
「………なにを」
座った静馬を抱きしめる形のまま、あきらは優しく囁く。
「静馬って、ちょっと他人より自分の感情を出すのが下手なだけの、泣き虫さんだってこと」
優しい抱擁の中で少しの間安らぎを得て、あきらの腕をそっとほどいて立ち上がった。
その顔に、先程までの素直な顔は無い。そこにはいつもの無表情だけがあった。
「さっきまでの顔の方がわたしは好きだけどな」
「いつまでもあんな顔してられないからね。少なくとも、今は、まだ」
ヘッドフォンの位置を、まだ動く左腕で直して、静馬はあきらの横をすり抜けて歩き出した。
「待って、……どこへ行くの」
「決まってる。あいつ――花音をあのままにしておけない」
少しだけ振り返って、静馬はあきらを見る。心配そうなその少女に、静馬は消え入りそうな笑顔を残して、玄関へ向かった。
玄関のドアを開けようとすると、後ろから視線を向けられていることに気付いて、静馬は振り返った。
廊下に仁王立ちしていたのは、ついさっきまで泣いていたのか、充血した目でこちらを睨む佐条陽介少年だった。もじもじと居心地の悪そうな仕草をしながら、陽介は口を開いた。
「さっきは悪かったよ……その、手とか出したりして、さ」
姉弟揃って優しいんだな。そんな心の声を口に出すことなく、何かしらを含んだ表情を陽介に少しだけ向けた。
最後に軽く手を振って、静馬はドアノブを捻って暗い夜の闇にその姿を消していった。
この時点で既に、麻倉香織こと橘花音が殺害した人数は、屋敷の科学者達も含めて、実に五十人以上に達している。




