第二十九話
やがて見えてきた橋を渡ってすぐに左折すると、何件かの家が立ち並ぶ住宅街に到着した。その中の青い屋根の二階建ての一般的なつつましい一軒家の玄関に、あきらは突撃するように突っ込む。否、突撃したのだ。
ただいまの一言も言わずに靴を脱ぎ散らかし、静馬を玄関に放り投げるように座らせた。
「お帰りー姉ちゃん……って、男連れ?」
「バカ! それどころじゃないの! アンタは部屋に帰って寂しくラノベでも読んでろ!」
怒鳴られてムッとした様子の少年はそのまま二階へと続く階段を上って行こうとして、座り込む静馬の顔を遠目に覗き込んだ。姉の連れ込んだ男の顔を見てみたいという好奇心が働いたからである。だが少年は、覗き込んだその瞬間、自身の軽率な行動に後悔した。
まるで、人形。精気が感じられないどころでは無い。男が生き物であることにすら、その目玉がこちらに向くまで気付けなかった。
こちらを覗き返してくるその眼球は、その実何も映していなさそうにも感じられる。まるで黒い洋服のボタンのような無機質さをうかがわせていた。目をあわせることがこんなにも恐ろしい人間がいるのだろうか、と少年が半ば恐怖に吞まれかけたその時、彼の姉が声をかけた。
「陽介、説明は後でするから、部屋に戻っててくれる?」
「あ、ああ。分かった」
陽介と呼ばれた少年ははっと我に返った様子で、そそくさと階段を登っていった。
「静馬も、取り敢えず奥に上がって」
上の空で、しかし話は聞こえていたのか、ヨロヨロと静馬は立ち上がって廊下を歩き出した。ひんやりとしたフローリングの床の感触を足の裏に感じることもできない程に、静馬は精神的に衰弱していた。しかし脇からそんな彼を支えるあきらもまた、精神的にかなり追い詰められている。生きている親友と、蘇ったかに見えた親友の両方をほぼ同時に失ってしまったのだ。まっすぐに歩けない静馬を支えても、その実寄りかかってもいる。高校に入学して間も無い無垢な少女にとって、この数日感の修羅場はあまりにも酷であった。
両親から今夜は職場の飲み会で遅くなることを事前に伝えられていたあきらは、あらかじめ用意しておいた夕食の準備に取り掛かった。食欲など微塵も起きないが。
「改造人間でもご飯食べられるの?」
「多分いけると思う」
椅子に座って幾分リラックスしたのか、静馬は再び口を開くようになった。それでも、ただでさえ虚ろなその目をさらに暗くしてはいるが。
「……どうして、香織のお父さんは自分の娘を蘇らせようとしたんだろう。それも、あんな体にして。関係ない橘さんまで巻き込んで……」
大皿にかけてあったラップを剥がしながら、呟くようにあきらは問いかけた。
「――それも、全部手帳に書いてあったよ」
少女の問いかけに応えて、静馬はポケットの中の手帳を取り出した。
「まず、麻倉香織の父親である麻倉幹久。……彼は財団の人体改造機関の構成員で、僕のような改造人間の製造に直接携わっていた人物だったんだ。ここまではいいよね?」
黙って頷くあきらを一瞥し、静馬は手帳のページ端を弄りながら続きを語りだした。
「でも彼の専門分野は、機械いじりじゃない。むしろ脳科学が彼の本道だったんだ」
一瞬だけまぶたを細めて、静馬は嗤った。
「もちろん世間一般の脳科学じゃない。財団の秘匿する、裏の脳科学……。この手帳の記述が正しければ、彼の行っていた研究は『ヒトの心を創りだすこと』、らしい」
「そんなこと……できるはずが無い……ッ!」
「だが彼はそれをあと一歩ってところまで完成させていたようだね。この手帳の記述を見る限り、不完全ながらも被検体の精神に大きな変革を生み出す程のこともできていたみたいだよ」
瞬間、全てを悟ったあきらの顔がさっと青くなった。ふるえる唇の中からぼそぼそと静馬に何とか問おうと試みる。
「ひ、被検体って……まさか……」
「そう。お察しの通り、彼は自分の娘を実験の被検体に選んだんだ。結果、彼女は望まない殺人に手を染めた。麻倉香織は父によって植えつけられた狂気に呑み込まれたんだ。その後彼女がどうなったかは、……キミがよく知っているはずだよね」
「そんな言い方やめてよ!」
既にとめどなく流れている涙に潤んだ瞳で、あきらは静馬を睨みつける。
泣き顔は花音にそっくりだな、と静馬は一瞬だけ少女の表情に見とれていた。
「……ああ、無神経な言い方をして悪かった。でもまぁそういうわけで麻倉幹久は実験を成功させた代償に自分の娘を一人失ってしまったんだ」
使い物にならなくなった右腕をさすりながら、静馬は大きな溜息をついた。あきらもまた、流れ出る涙を拭うことにした。
「そこで麻倉幹久は、改造人間開発チームのチーフとしての立場を利用して、ある計画を企てた。……それが、今回の一連の騒動の原因だったんだ」
「どういうこと……?」
「麻倉幹久は、自分の娘である麻倉香織を復活させようと試みたんだ。それも、生前のままではなく、自分の意のままに働く奴隷人形として、ね」
「どうしてそんな酷いことを……。実の娘でしょうに!」
憤るあまり、思わず声を荒げるあきらだが、しかしそんなことでは彼女の怒りは収まらない。思わず机に握り拳を振り下ろし、わなわなと震えるあきらの肩をそっと撫でながら、静馬は言葉を続ける。
「手帳の記述から察するに、どうやら人間の精神に関する研究におけるライバルが財団内にいたらしくてね。お互い命を狙い合うような間柄だったから、自分を守る護衛が欲しかったそうだよ。……まぁ、それで自分の娘をチョイスする辺り、人間性が終わってるとしか言えないけど。だけど花音……赤の他人にまで麻倉香織の人格を植え付けて改造人間にした理由はもう一つある」
ひと呼吸置いて、首を鳴らす。どこかに消えてしまいそうになる錯覚を覚えて幾度か瞬きをしてみると、生理的な涙が少しだけ滲んだ。
「麻倉香織の新しい体……義体をあんなオーバースペックにした理由は、自分の護衛をさせるため。そしてさっき言った、わざわざ赤の他人に上書きしてまで麻倉香織を蘇らせようとした理由は実にシンプル、……彼の歪んだ愛だったんだよ」
朗々と語る静馬に、あきらは再度噛み付く。
「……ふざけてるの?」
「僕はいたって真面目だよ。……ほら、よくあるだろ? ガンコ親父の『娘はやらん!』みたいな。麻倉幹久のは、それを酷くしたようなものでね。自分の思い通りに動く娘を愛してやまなかったんだ。でも年頃になってくるとそうも言っていられない。麻倉香織は自意識の確立と共に父から離れて行ったんだ。……幹久はそれに激しく絶望して憤った。それから彼は、自分に従順だった娘を取り戻そう、それだけを思って生きていたんだよ。……その手始めが、去年の事件だったってわけ」
「…そんな、そんな身勝手なエゴのせいで香織も彩乃も死ななきゃいけなかったっていうの! 何で! どうしてそんな酷いことができるの!」
怒りのあまり静馬に掴みかかり、思いつく限りの言葉をぶつける。静馬には、激昂のあまりこぼれ落ちるあきらの涙が自分のワイシャツに染み込んでいくのを見ることしかできない。
「大体、アンタは何でそんな何でもないような顔してられるの? 橘さんは、大切な人なんでしょう?」
「…そうだよ。だから僕は今とても悲しいんだ」
抑揚の無い、落ち着いた声でさらりと返した静馬に対する怒りを抑えきれず、あきらはそのまま静馬を椅子ごと床に押し倒した。
右腕が使えない静馬はそのまま受身も取れないまま床に叩きつけられる。フローリングの床の冷たさに目を細めて、小さく嗤った。
「何ニヤついてんのよ!」
「確かに花音は僕の大切な人だ。だけど彼女との交流も、僕を癒すことは無かった。僕は結局、彼女を愛することもできなかったし、過去も振り切れなかったんだよ」
頭の打ちどころが悪かったのか、とあきらが身をかがめようとすると、静馬は上体を起こして、残った左手であきらを制した。
死んだ目と人形めいた顔を歪めて、静馬は嗤った。
「僕が怖いか? あきら」
「……怖いよ。何考えてるか全然分からないし。何より、全然同じ人間だって感じがしない」
「そりゃ、人間じゃなくて改造人間だからね。……でも、同じセリフを昔、花音に言われたんだ」
ゆっくりと立ち上がり、あきらより少し高い目線から虚空を見つめながら、静馬は嗤った顔のまま語り続ける。
「僕の父も身勝手な人だった。自分が満足することしか考えられない、哀れな人だったよ。……ねぇあきら、キミはお父さんから殴られたことは?」
一瞬どもったものの、あきらは正直に答えた。突然の問いに不吉なものを、感じながら。
「……それくらい、あるよ。誰だってそれくらいあるでしょ」
「じゃあ、顔の形が変わるまで殴られたことはある?自分だけじゃなくて、兄弟や、自分の母親が嬲られるのを見たことは?」
そんなことない、と言いかけて、あきらは言葉を飲み込んだ。




