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灰色男と恋わずらい  作者: 榊原啓悠
逃走と追走
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第十四話

 木々の中を、巧みに跳び回る静馬とは対照的に、香織は追いすがることができずにいた。

「やっぱりな。そんなデタラメなパワーの身体をいきなり使いこなせるわけがない」

 義経の八艘飛びのごとき跳躍で中空を駆け抜けつつ、静馬は徐々に距離を引き離していく。香織は強引に捕らえようと直線的な跳躍を繰り返すが、その度に隙を突いた攻撃を加えられ、さらに距離をとられるばかり。

「じれったい……降りてきなさいよぉ!」

「やぁなこった」

 気の抜けた声で呟くように言い、静馬は笑った。楽しそうだと人から言われても、ひねくれ者の彼は決して肯定せずに、その笑顔を消してしまうが。容貌が幼くなったことで、むしろ生身の頃よりもそのひねくれた言動にふさわしいものとなっていた。

「ところで、麻倉」

「何よ、お話するならその足を止めてよね」

「このままで結構だよ。それで麻倉、ちょっと気になってることがあるんだけど」

「答えてあげることもやぶさかではないわ。スリーサイズは教えないけどね」

 したり顔で頭上を跳び回る少年に冗談を言う香織は、しかし静馬を捕える算段を立てている。それを悟られぬように、香織は敢えて少年の申し出を受けたのだ。

「機械の身体に欲情するほど飢えちゃいないよ」

「私の外見は生身の頃のものを完全に再現してあるって、言わなかったっけ?」

「ああ、言ってたっけ。」

「あなたは違うの?」

「君と違って生身の体とは似ても似つかない姿になってるって言ったろ。今の僕に似た顔をした奴らも、あの地下室には大勢いはずだ」

「暗くてよく分からなかったわ」

 取り敢えず暗視装置の類が自身を追撃してくる少女に備えられていないことに、静馬は内心ほっとした。

「まぁそういうわけだから、僕の義体は量産型なんだよ。詳しいことはあのオヤジに聞かなきゃ分からないけどね……って何で僕が君の質問に答えてるんだよ」

 香織の数度目のジャンプを躱して、静馬はさらに高く跳んだ。だが、疲労や痛覚を感じにくい身体になったとはいえ、既に静馬は十数分もの間、休まず跳びまわっている。香織が諦めるより早く、徐々に、しかし確実に彼の活動限界は迫ってきていた。

「じゃあ改めて質問しよう。……麻倉、僕らはこれが初対面なんだよな?」

「ナンパ? いいわよ、あなただったら」

「そうじゃなくって。……まぁ僕の思いすごしだろうけど。君の雰囲気にどことなく懐かしいものを感じたんだ」

 どこか、うまく言い表せない様子の少年を見やりながら、香織は自身の過去を振り返る。それから結論に達するのに、そう時間はかからなかった。

「私はあなたに会うのは、初めてだと思うけど」

 なんだ、残念――そんな面持ちで次の木に跳び移った静馬は、直後、愕然とした。


 跳び回る獲物を捉えられずとも、次に足場にするために飛びつくであろう樹木を予想するのは容易い。そんなことにも気がつかなかったのかと先刻までの自信を恥じながら、しかし余裕の表情を浮かべて、香織は右斜め前方にそそり立つ木の幹を渾身の力で蹴りつけた。

 大きな音を立てて木が軋むのを知覚した時、静馬は既に態勢を整えるタイミングを逸していた。そのままメキメキと音を立てて木が傾き、完全に倒れきるまでの数秒間、無防備に中空に投げ出された静馬を打ち据えるのに、香織は何の躊躇も持たなかった。

「捕まえ、たぁッ!」

 短いうめき声を食いしばる歯の奥から漏らしながら、静馬は地面に叩きつけられる。既にその身に少なくないダメージを蓄積していた静馬にとって、この一撃は決定的だった。


 視界が暗転し、反転し、その他の感覚が全て悲鳴をあげる。

 立ち上がろうと体を左手で支えるも、泥で滑って顔面を打ち付けるばかりだった。

 

「べっふぇ、あぁ……やべ、一瞬気絶しちゃったぜ」


 意識が途切れ途切れになりながらも、なんとか静馬は立ち上がる。ゆっくりと歩み寄る香織に焦点のあわない双眼を向けながら、構えをとった。しかし静馬に武道の心得は無い。その構えは静馬が本能的にとった防御の姿勢であった。

「勝負はついたわ。名前を教えて?」

「やれやれ、無駄口を叩いたのがいけなかったかなぁ。いやはや失敗失敗」

 おどけた様子で笑う静馬。改造人間であることを差し引いても、その身に叩き込まれたダメージはあまりにも大きく、並の精神力ならば笑うどころか、立つことすらままならない。

「…まだ、勝負はこれからだよ、麻倉香織」

 不敵な笑みを浮かべる静馬の顔面に香織の鉄拳が殺到する。静馬は全身を捻ってかわし、そこから足払いをかけた。予告なしの不意打ちを完璧にいなされた香織が驚愕の表情を浮かべたその瞬間、静馬はそこからさらに跳躍を見せた。

「ッ、まだ跳ぶか!」

 態勢を整えた香織が顔を上げると、静馬のボロボロになったパーカーが視界いっぱいに広がっていた。

「こしゃくな真似をッ……!」

 被せられたパーカーを振り払おうとした刹那、香織の腹部に鈍い痛みが走った。

「このまま、吹っ飛んじま、えぇッ!」

 渾身の蹴りを叩き込み、少女を吹き飛ばす。正真正銘、全力の一撃である。絶叫をあげながら香織が茂みの奥に叩き込まれたのを視界の隅に捉えて、静馬は逃走を再開した。  

ふらつく体を抱きながら、木々を避け、時折つまづいてバランスを崩しながらも、よたよたと逃げる。無様、と万人が嘲笑うであろうその様子は、しかし今の静馬にとっての精一杯であった。

「ハァ、ハァ、も、ギブ」

 必殺の気合で放った先程の一撃で、既に静馬の疲労はピークに達していた。義体の活動限界を遥かに超える無茶な駆動に、全身が悲鳴を上げる。

「んだよ、もうちっと我慢できんかね。……はぁ、ここらが潮時、ってやつかな」

 麻倉香織との勝負には勝った。もう思い残すことなど何もない。

泥で汚れた体を木に寄りかからせ、まぶたを閉じる。もし次に目を覚ますようなことがあれば、その時は記憶喪失にでもなっててくれているとありがたい。

思い出したくない過去が、あまりにも多すぎるから。声にならない声で呟いて、静馬は深い眠りについた。


「いったぁい……まんまとしてやられたわ」

 義体の機能として、過負荷が一定以上かかると、素体である脳に痛みを伝える安全装置が作動する。正式な改造人間では無い香織にもそれは存在し、現在まさにその安全装置が作動していた。生身の頃に味わったことのない強烈な激痛に涙を流しながら、しかし香織は自分を蹴り飛ばしたヘッドフォンの少年のことを考えていた。

「どう考えても、私よりあいつの方がダメージ大きいはずなのに…。笑ってた、わね。アレは、間違いなく」

 マゾヒストなどとはとは明らかに違う、嘲るような、それでいて感情の無い、乾いた笑顔。勝負はこれから、と不敵に笑った少年の表情を思い出し、香織は思わず舌なめずりをした。

「これが、恋、なのかなぁ。あは、あははは」

 屈託の無い笑顔で泣き笑う少女は、何も知らない人間が見れば天使のようであるが、真実、悪魔のそれに相違無かった。

 

とめどなく流れる涙を拭くこともなく、仰向けに寝転がったまま、少女はしばらく壊れた玩具ように笑い続けた。


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