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灰色男と恋わずらい  作者: 榊原啓悠
逃走と追走
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第十三話

 久々の全力疾走で、西島は早々に体力が尽きていた。派手に咳き込み、その場に尻餅をつくように座り込む。泥の不快感に顔をしかめつつも、立ち上がって尻を拭う気力も残ってはいなかった。

「ハァ、ハァ、ハッ……ええいくそっ、これならジムにでも、通っておけばよかった」

 滝のように汗を流しながら、鞄の中からタブレット型の情報端末を取り出す。暗証番号を入力し、西島は操作を開始した。

「こいつも、こいつも……違う、どこにもデータが存在しない……。やはり奴ら、独断でアレを開発していたのか……」

 正式に商標登録された義体の一覧のどこにも先程遭遇した改造人間と合致するものが存在しないことに、西島は、やはりな、と半ば諦めたような感情を覚えた。

「しかしいくら高性能でも、我々財団が動けば消すことなど造作もない。今はなんとしても逃げきって本部に帰らねば……。幸い、最新式の改造人間が一人残っているしな。仕留めるとまではいかなくとも、うまくやれば相打ちには持っていけるだろう。私のためにも、命を張ってもらうぞ佐藤……!」

 正式採用モデルの改造人間の材料となる脳には全て、あるプログラムが施されている。言い換えるならば『洗脳』とも呼べるそれの内容は、『財団関係者、及び自身の所有者を危機から守れ』というものだった。逆に言えば、反乱を起こさせないための安全装置でもある。それが正常に作用している限り、佐藤と名乗ったあの改造人間は、決して逃げ出したりはしない。西島は安心を得て気を落ち着かせようとしていた。

「ククク……さて、そろそろ行かねばな。いつ奴が来るかもわからん」

 汗を袖で拭いながら、タブレットを鞄にしまう。立ち上がって周囲をうかがい、西島は暗闇の中、こっそりと歩き出した。

 

 もちろん、静馬にそんな洗脳などかかってはいない。


 

  ※※※※

 


自分の足音とは別に泥を踏みしめる音がすることに気づいて、あきらは近くの茂みに隠れた。茂みの中から名前も分からないような虫が這い出てくる。虫が苦手なあきらではあったが、顔を青くするだけで声は上げない。現在彼女を襲っている現状がこの虫よりもはるかに恐ろしいものであることを認識していたからだ。

 茂みの向こう側にその姿を現した足音の主は、泥に汚れた悪趣味なスーツを着た中年の男だった。テレビドラマ等に登場する『汚い大人』そのものだな、と率直な感想を抱いた後、あきらはすぐに男が自分とともに屋敷から脱出した三人のうちの一人であることに気がついた。

 汗を何度も拭ったであろうドロドロのハンカチで首筋に浮いた汗を拭きながら、男は大げさに息をついている。生理的な不快感を覚え、あきらは思わず足の裏の枝を強く踏みしだいてしまった。

小気味良い音を立てて、枝は折れる。男はあきらのいる茂みに思わず視線を向けた。

「だ、誰だ!私を殺すつもりかッ!」

 男はヒステリックな金切り声で脅しとも命乞いともとれるセリフを吐き散らす。恐怖に駆られて攻撃されるのはごめんだ、とあきらは頭を掻きむしりながら茂みから顔を出した。

「……おっさん、誰」

 敵意の無いことをアピールするあきらを確認してもなお、男の表情からは強張りは消えない。

「さっきの小娘か……。さっき貴様と同じ部屋にいたあの女、奴は貴様と知り合いか?」

 探られている、とあきらは瞬時に理解した。快活な容姿とは裏腹に、賢く頭の回転が速いことが彼女の最大の武器である。しかし

「うっさい! どういうことだ! 説明しろよクソオヤジィッ! 彩乃は! 香織は! どうなったんだあぁぁああ!」

 あきらの抑圧された感情は限界に達していた。

 絶叫とともに掴みかかり、男を引き倒す。小さく悲鳴を上げながら、男は湿った地面に投げ出された。

「ま、待て、落ち着け、私にも分からんことばかりなのだ、だから待ってくれ」

 無様に許しを乞い、頭を下げる。男のその動作でさえ、今のあきらにはカンに触る。

「は? 分からないぃ?ざっけんじゃないわよ! こちとら親友の命が懸かってるんだぞ!」

 怒りの形相でまくしたてるあきらだが、彼女の頬につたう涙に、本人は気づかない。それに気がつくやいなや、男は残り少ない頭頂部の髪を鷲掴みにされた。

「言う! 言う言う言う! 知ってることは全て言うから、私の髪をむしらないで! お願い!」

 

 西島の頭部が荒野と化したのはそれから間も無くのことである。

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