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灰色男と恋わずらい  作者: 榊原啓悠
逃走と追走
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第十一話

 死にたくない、生き延びたい、殺されたくない、と、それぞれが似たようで根本的に異なる思いを胸に森の中へ飛び込んでいく中、狩人の役を仰せつかったその少女は、そのまますべてを飲み込んでしまう底なし沼にも似た瞳をらんらんと輝かせながら、三匹の獲物をどれから狩ろうかと思案していた。

人間だった頃、彼女は好物を最後まで取っておく方だった。現在の彼女にとっての『好物』とは、即ち先程反撃してきた彼のことである。

「ん〜……いきなりはもったいないから、あのおじさんから殺そうかしら」

 まるで明日の予定を決めるように、香織は標的を定めた。

 さながら四足獣のごとく重心を低く落とし、香織は先程静馬に襲いかかった時の数倍の力を込めて地を蹴った。高速で木々の間を縫いつつ、香織はみるみる西島との距離を縮めていく。数十秒前に静馬の放った投石のダメージをまるで意に介さずに、香織は森の中を縦横無尽に駆け抜けた。やがて西島の後ろ姿を捉え、香織はさらに加速した。

「獲物を捕える瞬間が狙い目ってのは本当だったんだな」

「え?」

 コンマ数秒の刹那の中、香織は確かにその声を聞き、その直後に脇から飛び出してきた何者かに殴り飛ばされた。その何者かと声の主が先程の少年のものであると理解した瞬間、香織の中で何かが弾けた。

「うふ、うふふふふあははあはははっはははははああはははあぁっ!」

 聞く者すべてに例外なく恐怖を刻み込むような高笑いと共に吹き飛ばされ、湿った地面に叩きつけられた香織は、そこからすぐさま跳躍した。木々を足場に立体的な軌道を描きつつ、静馬に突進する。ヒットアンドアウェイ戦法を早くも切り崩され、心理的に遅れを取った静馬はろくな防御をすることもできずに直撃をもらった。

「あっがァハ…ッ、き、強烈ぅ」

 ぬかるむ泥に足をすくわれ、運良く衝撃を受け流した静馬だったが、受けたダメージはとても我慢して反撃ができる範疇を超えていた。無様に沼の上を転がり、木の根元に激突してその動きを止める。荒い呼吸を整える暇もないままに、飛びかかって来た香織の踵落としをサイドステップで回避する。その態勢から静馬は足元の泥を渾身の力を込めて蹴り飛ばした。改造人間特有のパワーで蹴りつけられた泥は、そのまま一直線に香織の顔面に炸裂し、視界を奪う。一瞬の隙を見逃さずに、静馬は泥を蹴ったその足で回し蹴りをきめた、はずだった――

 


 ※※※※



流れる汗と涙を袖でぬぐい、深呼吸をする。現在自分が置かれている危機的状況を冷静に思考、判断すべく、あきらはヒートアップした自身の感情を必死に冷却していた。

 半ばパニックに陥りながら森の中を逃げ惑い、見覚えのない場所まで来たことに気がついたことは、今のあきらにはプラスに働いた。現状を把握しようというきっかけを与えただけでは無く、その場に留まって気を落ち着ける余裕を生んだのだ。

「あの香織……いや、香織に似たナニか。考えたくないけど、あれは多分、噂にあった改造人間……! 仮にそうでなかったとしても、あの運動能力は異常だもの。どちらにしろ、普通の人間じゃない」

 佐条あきらは決して世間一般に言われる、『強い人間』では無い。しかし物事を的確に判断する分析力と、その根拠となる正しいものの考え方を持ち合わせていた。自分に何ができて、何ができないのか、そして何をしなければならないのか。ぬかるむ足場から無作為に生い茂る木々の中に身を潜め、あきらは冷静に思考を展開していった。

「そうだ……私を抱えて走ってたヘッドフォンのあいつ、思い出してみたらメタボのオヤジも抱えてたじゃん! 人を二人抱えてあれだけ動けるだなんて、あいつだってただものじゃない……!」

 もしかしてあいつも改造人間なのか、と結論を急ぎかけたあきらだが、すぐさまその思考を中断させた。

「もし、あの偽香織(仮)が本当に改造人間だったとしても、同じ改造人間ならどうして一目散にあのヘッドフォン(仮)は逃げ出した?あたしを逃がすため…じゃないわね。あんな奴はあたしの知り合いにいないし、そもそもあいつはあたしを置いて自分だけ逃げ出したじゃん」

 生き抜くため、事態の究明のため、あきらはかつて無いほどに頭を回転させていた。時間にしてほんの数分だったが、あきらはその集中ゆえに、体感的には一時間程考え込んでいたように感じられた。そこから来る焦燥感と戦いつつ、思考を続けた彼女の導き出した結論は

「わからない」

 あまりにあっさりとしたものだった。しかしそれは判断材料が不足しており、これ以上の考察に意味は無いと判断したためである。手がかりになりそうなのは共に屋敷から脱出した二人しかいない。そう結論づけて、あきらは夜の闇の中、恐怖を振り払って走り出した。

泣くのを止めたあきらとは対照的に、足場は先日の雨が乾かず濡れている。一歩ごとに飛び散ってくる泥の飛沫から顔をかばいつつ、あきらは自身の栗色に染まった髪を留める、桜の花びらをあしらったヘアピンをそっと撫でた。かつて親友だった少女と、その少女の妹であるもう一人の親友を、想いながら。


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