第十話
次に目が覚めた時、あきらは屋敷の外にいた。目を覚ましてから数秒の間、自身の気絶する直前までの記憶を探る。結果、容認し難い現実が引き起こされたことを思い出し、あきらは再び大粒の涙を流した。
しかし現実は依然、あきらや静馬を攻めたてる。立ち上がったところへ香織にコンクリート片を投げつけられ、静馬は再び丘の上で昏倒していた。
「あがぁッ……、畜生、無茶苦茶しやがる……」
「少しは私を楽しませてよ、おにぃさん?」
窓ガラスの欠片を踏みしだきながら、静馬にゆっくりと接近する香織。その視界には、すでにあきらは入っておらず、静馬だけを捉えていた。
森の方へ逃げた西島のあとを追うように、静馬は走り出す。香織は彼を逃がすまいと、静馬の進行方向に立ちふさがった。
その恐るべき移動速度に戦慄しつつも、なんとか策を練る時間を稼ごうと静馬は口を開く。
「それだけ速く動けるなら、最初から僕を殺せていただろう、どういうつもりなのか教えてくれるか?」
「そんなの楽しむために決まってるじゃない。動く獲物の方が狩りは面白いでしょう?」
「悪いけれど、僕は農耕民族の出身なんだ。狩猟がお好きなら石器時代にでも帰ってくれ」
「よく舌が回るのね。でも狩りは立派なスポーツよ。紳士淑女のためのね」
「快楽殺人鬼の割にはけっこう学があるんだな。意外だよ」
軽口を叩きつつ、現状を打開する策を立てる。
「あら、人殺しが皆野蛮人だというのは間違いよ? かの有名な切り裂きジャックも、被害者の検死から、外科手術の心得があったのではないかと言われているわ」
「どっちにしろまともじゃないよ」
濃密な殺意と、こちらを舐めまわすような視線の中で、静馬は負けじと言い返した。真っ向勝負では勝ち目が薄い。ならば搦め手、奇策、騙し討ちを惜しまずに活用するしか、生き残る道はない。勝負を仕掛けるのは、次に月が雲から顔を出した時、と静馬は決めた。
「あなたこそ、とてもまともな人間には見えないわよ? むしろ近しいものを感じるわ」
「あいにく中二病はとっくに卒業した身なんでね。そんなふうに言われてもこれっぽっちも嬉しくない。もっと気の利いたセリフをくださいな」
おどけつつジリジリと後退する静馬。対する香織は顎に手をやり少しだけ考える素振りを見せたあと、甘く囁いた。
「そうね。あなたの告白だったら受けてもいいわ。あなたみたいなヒト、好きよ」
「残念ながら僕も君もヒトじゃあない。さしずめ人間もどき、かな」
月光が丘とその上に佇む屋敷を照らす。意を決して静馬は香織の左脇に飛び込んだ。すかさず香織の膝蹴りが静馬の脇腹を打ち据えるが、それとは反対側にタイミングよく体をねじって衝撃を受け流した。同時に上半身を思い切りひねり、あらかじめ右手に隠し持っていたコンクリート片を握りしめて香織の顔面を打ち据える。
衝撃で吹き飛ばされた香織の着地地点を予測し、静馬は身構える。空中で態勢を整えた香織が着地すると、すぐさま先程まで相手の右手に握り締められていたコンクリート片が香織の眼前まで迫っていた。すぐさまコンクリート片を弾き飛ばし、追撃を加えようと姿勢を低くしようとしたその瞬間、香織は愕然とした。
顔をめがけてコンクリート片を投げつけ、その隙にポケットに忍ばせたもうひとつのコンクリート片を膝を狙って投げつける。結果として大幅に機動力を奪うことに成功した静馬は、ダメ押しに香織の顎を蹴り上げた。仰向けに倒れる香織を最後まで見届けることなく、静馬は即座に走り出した。森の中へ逃げ込めば、恐らくやり過ごすことが出来るはずだ。そんな根拠のない、しかし唯一の希望に縋って、静馬は一心不乱に脇目もふらずに逃げ出した。
その僅か三メートル程の場所から、あきらは変わり果てた親友を蹴り飛ばした少年にならい、森へと走り出していた。現状を把握することができず、パニックに陥ったあきらの思考は、「死にたくない」という一点にのみ集中されていた。




