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灰色男と恋わずらい  作者: 榊原啓悠
逃走と追走
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第九話

 静馬達が入ってくる数分前、大広間と思しき部屋で、あきらは後ろからついてくる彩乃に呼び止められた。積み上げられた死体は未だに見つからないが、辺りに漂う屍臭は本物であることに恐怖よりも高揚を覚えていたあきらは、上機嫌に返事を返した。

「ん、どうしたの彩乃? もしかしてトイレ行きたくなっちゃった?」

 怖がりな彼女を元気づけ、同時に自身を鼓舞するためについた冗談は、しかしそのまま壁に吸い込まれて消えていった。

「…? ねぇ、彩乃?」

「あきら、覚えてる? 初めて私の家に来たときのこと」

「え、覚えてるけど……?」

 突然切り出した彩乃とその話題に戸惑いつつも、あきらは応えた。

「あの時、私たちいくつだったでしょう?」

「えーっとぉ…小学、三年生だった、かな」

「ぶっぶー! 二年生の冬!」

 急に表情をほころばせた彩乃に、しかし言葉にできない違和感をあきらは覚えた。

「私の家の玄関に着くなり、広いねーってはしゃいじゃって……あきらちゃん、すっごく嬉しそうだった」

「まぁね〜……。彩乃の家って町内でもお金持ちってことでそれなりに有名だったじゃん。だから、いくら友達の家だからって、礼儀作法が身につくまでは誘われても遊びに行っちゃダメってお父さんが言ってたこともあって、やっと来れたーっていう嬉しさがあったから」

 純粋に広い家に感動したのは言うまでもないが、なんとなく悔しい気がしたので、敢えてそのことは口に出さなかった。ホコリが月明かりに照らされて、どことなく神秘的な雰囲気を見るものに感じさせる情景の中微笑む彩乃を見て、つくづく絵になるなぁとあきらは感心した。やはり良家のお嬢様は格が違う、と先程広い家を素直に褒められなかった自分を恥じる。そんな心情を察してか、彩乃はさらにあきらに一歩近づいた。

「あきらちゃん、そういえばそのヘアピン、私が選んだやつだよね? つけててくれたんだ。嬉しいな」

「あ、これ? 可愛いし、気に入ってるんだ」

 はにかみながらあきらは僅かに目を伏せながら、囁くように言った。

「それに、これを選んでくれたのは彩乃と、香織だから、さ」

 大事そうにヘアピンを撫でながら、あきらは続ける。

「香織はさ、その、人殺しとかしちゃって、その後もすごい大変だったけど、でも、でもさ? 私にとって、彩乃と同じくらい大切な親友だったから。だから、忘れたくないんだ。誰がなんて言っても、香織は私の大切な人だったから」

 大切な思い出を頭の中に浮かべながら、あきらは恥ずかしそうに、しかし満面の笑みで言った。

「彩乃は、どうなの?」

「えっ」

 月が雲の影に隠れ、光が消える。屋敷は再び、闇に呑まれた。

「彩乃は、双子のおねえちゃんの香織のこと、どう思ってるの? 家族でもやっぱり、許せない?」

 彩乃から微笑みが消えたことに、あきらは気がつかなかった。

「私にとっては、彩乃も香織も、かけがえの無い大切な人だよ。でも、彩乃にとっては違うのかなって思ってさ。」

 詰めた距離を、彩乃は自ら広げた。

「私は彩乃に大切に想ってもらってるって自惚れてるけど、本当は彩乃がどう思ってるのか知りたいの。一年前に香織のことがあって、それで、彩乃が香織のこと、どう思ってるのか」

 これまで封じ込めてきた不安を、特殊条件下における勢いに任せ、あきらは彩乃に訪ねた。人を殺め、自ら命を絶った双子の姉を、どう思っているのか。その問いかけは、多少場違いではあるものの、あきらと同じように特殊状況下における勢いに任せて彩乃に答えを口にさせるはずだった。

「分かんないよ。どう思ってるか、聞く前に殺しちゃったもの」

 尋ねる相手を、間違えさえしなければ。

「え…?どういうこと、彩乃」

「彩乃はいい子だったよ、最期まで。あ、そうでもないかな、散々逃げ回ってたし。優しく殺してあげるって言ってるのに、逃げるなんて酷いよねぇ。おかげでちょっと苦しい思いをさせちゃった……まぁ楽に殺すつもりなんて微塵も無かったけど」

 再び笑顔を浮かべたその少女は、うわ言のように言った。

「あきらは、逃げたりしないよね? 私のこと、大切に想ってくれてくれてるんなら、」

 氷のように冷たい指先であきらの首筋を、少女は愛でるように、心から愛おしそうに撫でる。

「あ、彩乃? 何を――」

「このまま私に殺されて、あきら」

 これまでの人生の中で味わったことの無い濃密な殺意を感じ、あきらは反射的に後ろに飛び退いた。いつの間にか額には玉のような汗が浮かんでいる。それを拭うこともできず、あきらは目前で妖艶に微笑む少女の名を口にした。

「か……香織……?」

 嘘。

 嘘、嘘嘘、嘘だ。

 ありえない。あっていいはずがない。

 一年ぶりの邂逅があきらにもたらしたのは、この上ない恐怖だった。


 気がつくと、あきらは溢れる涙を止められずにいた。その涙が喜びから来ているものではないのは明らかであるが、それでも再会を喜ぶべきではないか、とあきらは混乱しながら思った。それでも目前の少女―香織がほんの数秒前に自身に向けた殺気への恐怖を拭えず、あきらはじりじりと後退する。

「いや……いやだよ香織……彩乃は、彩乃はどうしちゃったの……?」

 人形を連想させる無機質な笑みを浮かべながら、暗闇の中、香織はあきらへ歩み寄る。音も立てずに近づくその姿は、幽鬼の類を彷彿とさせた。実際、世間的に死んだことになっている今の麻倉香織は幽鬼そのものであるといえる。唇を舐めながら、徐々に距離を詰める香織は、信じられない程の甘い声で囁いた。

「言ったじゃない。彩乃は私が殺したの。この屋敷に呼びつけて、ここよりもっと奥の部屋で」

 殺す、などという今まで冗談でしか聞いたことの無いその単語は、しかし、明確な現実感を孕んであきらを震え上がらせた。

「嫌、いやぁ……。香織は、香織はそんなことしない……!」

 子供のように泣きじゃくるあきらを、先程までとはうってかわって冷徹な目で見つめ、やがて興味を失ったように香織はため息をついた。

「あきらのたまに見せるそういうところ、好きだったけれど、もう今は鬱陶しいだけね」

 あきらの細い首を掴んで持ち上げる香織。その冷酷な表情も次第に霞んでいき、あきらの視界は闇に埋め尽くされていった。



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