みすゞかる
※みすゞかる(水篶刈る)……信濃にかかる枕詞
木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女 を具せられたり。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。ありがたき強弓、精兵、馬の上、歩行打物持っては鬼にも神にも逢うという一人当千の兵なり。
主従五騎にぞなりにける。木曾殿、巴を召して、「おのれは、女なれば、これよりとうとう何地へも落ちゆけ。義仲は討死せんと思う也。若し人手に懸からば、自害をせんずれば、木曾殿が最後の軍に、女を具せられたりけりなど言われん事も然るべからず。」と宣ひけれども、猶落ちも行ざりけるが、あまりに言われ奉て、「あはれ好い敵がな。最後の軍して見せ奉らん。」とて、ひかへたる処に武蔵国に聞えたる大力、御田八郎師重、三十駒ばかりで出来り。巴其の中へかけいり、御田八郎に押しならべ、むずと取て引き落とし、我が乗たる鞍の前輪に押しつけて、ちとも働かさず頸ねぢ切て捨てけり。其の後物具脱ぎ棄て、東国の方へ落ぞ行く。
(平家物語 巻九 木曾の最期の事)
治承四(一一八〇)年に木曾で挙兵し、従兄の源頼朝より先に京へ入った「朝日将軍」木曾義仲。彼は巴御前と呼ばれた女武者を連れていた。
「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾にして、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。怖ろしき者にて候」
平家方にも右のように言わしめたこの女性、歳は義仲と同じほど、乳兄弟にして馬と弓に優れていたという。
時は承安、季節は初夏。世は平家隆盛の真只中。
都から遠く、川を越え山を越え、山また山、森また森の木曽の山中で駒王丸〈後の木曽義仲〉は育った。故あって乳母親族に身を寄せていた彼は源平の抗争に巻き込まれずに済み、現在、十八の日々を持てあましている。
乳兄弟は上から二郎、四郎、巴、六郎の四人。父母のない駒王丸は彼らと兄弟同然に育った。ほかに近隣の豪族の子弟が彼のもとに集められ、その数は日に日に増えてゆく。彼らは日々、館で与えられた仕事と、追物射、太刀、長刀、水練などの教練に追われていた。
三日ほどの嵐のせいで存分に退屈していた彼らの教練がやや破天荒になったのは仕方がないと言えば仕方のないことなのかもしれなかった。
昼前から始まった長刀は段々と勝ち残り試合の様相を呈し始め、紅一点の巴は初手から八人を敢え無く倒している。
昔は女も多くいたが、一人減り、二人減り、十八まで残ったのは巴一人。太刀や相撲は日に日に負けが増え、弓もせいぜい四番手という所だが、長刀に関しては一度たりとも勝ちを譲ったことがない。
九人目の誘うような間合いを一気に詰めて一突き。少年の鮮やかな薄水の衣に盛大に泥が跳ね散る。少年は教練に加わって一月、手合わせをしたのは今日が初めてだった。朱を注いだ顔が悔しさに歪むのを一瞥もせず、巴は次、と辺りを見回す。
負けた少年の腕をつかんだのは中でも古株の男である。
「気にするな。所詮は妾の子」
侮辱に、血が逆巻いた。
あっという間もなく転ばされた男の喉元に、柄があてられていた。
「もう一度言え。」
辺りはひどく静かだ。
巴はさらに力を掛ける。押し返す肉の感触がやけに生々しい。
「もう一度言えと言っている。」
「巴」
止める声の主は次兄であった。衆目の一角、次兄の傍ら、駒王丸は口の端をゆがめてひどく愉快そうな眼でこちらを見ていた。
眼があった。
刃を引き、一礼して囲みを抜け出す。
頭を上げた。目を一つ一つにらみ返す。眉間の奥がじんと痛む。
一歩一歩を踏みつける。見られているだろう、その後ろ姿がゆらがぬように。
―――そうか。あぁそうか。なら、もう、いい。
追う者はない。
* * *
川沿いに馬を走らせた。雨の後の風は湿りが強く、日差しが出たせいか幾分ぬるい。川は水を増して濁り、浪頭ばかりが渦巻いて白い。
流れのはやい川に人影を見た気がして巴は馬をとめた。袴の裾をくくりあげた華奢な人影が河原へ上がってくるのが見える。笠を外したその姿に、馬をつないで、河原へ下りた。
「六郎!」
末弟の六郎である。故あって教練からは長く外れている。
「……姉上?」
「一体どうしたんだ。こんな日に」
六郎は応えもせず腰の魚籠を外した。巴はますます首をかしげる。
「山吹が、ようやく物を食えるようになったので、魚を、と思って」
やまぶき、というその語の響きにみぞおちの辺りが縮んだ気がした。
忘れていたわけではない。いや、忘れていたのかもしれない。忘れていたかったのかもしれない。
山吹とは駒王丸の妻で、齢は十五。男児が一人ある。
「駒王丸は?」
巴の問いに六郎の口はますます重くなった。
「いっかな」
顔を見せていないらしい。
中原家に預けられて共に育った山吹は、巴にはただ一人の歳の近い女であり、妹も同然であった。末弟の六郎と大層仲が良く、二人の幼い夫婦遊びを、皆微笑ましく見ていたものだった。
丁度一年前、雨音が煩わしい暗い日暮であった。
『山吹が子を孕んだ。』
長兄がそう言った。
父親は、六郎ではなかった。
巴は怒った。大層怒った。山吹はわらい、六郎は口をつぐんだ。
以来、六郎は教練から離れ、体調を崩しがちな山吹の側用事をこなしている。
「姉上、また」
「ん、山吹にまた顔を出すと伝えておいてくれないか。」
静かな目をするこの弟の瞳の底が、ほんの少し濁っているように見えたのは果たして気のせいか。
六郎が去ると、河原には水音が満ちた。あれほど騒いでいた血はとうに静まってしまって、さうざうしい、とさえ思う。
何のためにあれほど怒ったのか、その答えを知っている。顔を知らぬ実母のためではない。あれは、母の名さえ知らぬ、駒王丸のために怒ったのだ。幼いころ、心ない噂に心を痛めて荒れ狂っていた少年のために。
―――馬鹿みたいだ。あんな、あの程度の、男のために。
* * *
土手を上がり、馬の手綱を解こうとしたときだった。馬が駆ける音が聞こえて、拙い、と思ったがもう隠れる暇もなかった。川沿いをこちらに進んでくる一団に、せめて背を向ける。
先頭の馬が後ろを通り過ぎてゆくのがわかった。駒王丸だ。緩みもしなかった足音にずくりと何かがうずく。
通り過ぎて去ったと思ったところで止まった。思わず巴はそちらに向く。いぶかしむ顔で駒王丸が引き返している。
「なぜ、お連れになるのです。戦場に、想いものなど」
先ほどねじ伏せた男が追いすがって糾弾するのを、意外なほど冷ややかな気持ちで巴は聞いた。それは後ろに控えた若武者達全員の気持でもあるのだろう。
父は巴を駒王丸に嫁がせたがっている。薄々感づきだしたのはいくつの頃だったか。
『その細腕で、何をしようというのだ。』
そう、一体どれほどの意味があるというのだろう。男は山吹の、六郎の、巴の上に立っている、源氏の遺児というただそれだけの理由で。
やめる、といったらどんな顔をするだろう、ついてくると信じて疑わないこの男は。もう降りた、たくさんだ、と言ったら。
「証が、いるか?」
引き戻したのは太い声だった。微塵の揺らぎもない豪胆さと、あくまで遊びを楽しむ無邪気を備えた、木曾義仲の声だった。糾弾した男を置いて彼は馬を駆り、巴の真横を駆け下りてゆく。
川は常より広く、荒い。
一瞬の停止と跳躍。迷うそぶりは見えない。
水に足を濡らすことなく飛び越えた馬が、得意げに鼻を震わせるのが聞こえた。
『たがうか』
駆け抜けるその瞬間に、ささやかれた。
考える前に体が動いた。
駆け下りる。風が生まれる。ぬるい淀みを突破する。
川の淵、並みの馬では越えられないその幅。
馬が跳ねる。
水は早い。猛り、逆巻き、そして流れ去る。
「来い!」
言われるまでもない。
一筋の清涼が体を突き抜けた。
岸は、近い。
* * *
『てんちしんめいに誓って、巴は駒王丸の家来になる。駒王丸がだれでも関係ない。ずっと、ずっと一緒に居る。この命がはてるまで』
あれは幾つの時だったろう。冷たい冬の朝。上ずった声と紅い頬。
あの頃から一体何が変わったと言うのか。あいも変わらず、横暴な餓鬼大将のまま、そのくせ人を惹きつけてやまない。
* * *
―――たがえたのは、結局お前の方ではないか。
巴は低く、自嘲する。血の匂いと汗と振動。大したことは考えられない。
どこまでも、勝手な奴だ。来いと言っておいて最後には置いてゆく。本当に幾つになっても変わらない。
行く手が曇る。
―――大嫌いだ。だいきらいだ、駒王丸なんか。
寿永三(一一八四)年の晩春、朝日将軍木曾義仲とその一党は都にて、壊滅する。独り逃がされたという巴の行方は、杳として知れない。
〈終〉
※みすゞかる(水篶刈る)……信濃にかかる枕詞
ひとりの女が、まるででたらめで不誠実な男にそれでもついてゆく様に惹かれて書き上げた作品です。今見ると読みにくいところもありますが、当時の自分の全力に敬意を払ってほぼそのままとしています。
お読みくださり、ありがとうございました。