第9話
あの残業の夜から、俺の頭は、完全にどうかしてしまったらしい。
偶然触れてしまった、彼女の指先。
ピリッとした静電気のせいか、それとも別の何かなのか。
あの時、確かに感じた熱が、まだ俺の指先に、幻のように残っている。
慌てて指を引いた後、自分の耳が熱くなっていくのが分かった。
それを悟られまいと、ことさらぶっきらぼうに振る舞ってしまった自分を、後から何度心の中で殴りつけたことか。
あの夜以来、俺は黒崎美鈴という存在を、以前よりもさらにどうしようもなく意識してしまっていた。
仕事中、ふとした瞬間に視線が勝手に隣のデスクへ向かう。
電話応対で、相手が見えないというのに、何度も丁寧に頭を下げている姿。
向かいの席の先輩に仕事を頼まれ、少し困ったように、でも結局は優しく微笑んで引き受けている顔。
その、高校時代と何も変わらない、くしゃっとした笑顔を見るたびに、胸の奥が鈍くそして甘く痛んだ。
ああ、そうだ。
俺は、この笑顔が好きだったんだ。
十四年という歳月をかけて、忘れたつもりになっていた感情。
心の奥底に、分厚いコンクリートで塗り固めて、鍵をかけたはずの想い。
それが、彼女の笑顔ひとつで、いとも簡単にひび割れて溢れ出してくる。
だがその笑顔は、俺を救うと同時に地獄へも突き落とす。
笑顔を見るたびに、鮮明に蘇るのだ。
十四年前のあの日の記憶が。
『ごめん、俊。他に好きな人ができたの』
あの言葉が、呪いのように俺の心を縛り付ける。
今、俺の前で笑うこの顔もまた別の男に向けられるものなのだろうか。
そう思うと、腹の底が黒く醜い嫉妬で渦巻くのが分かる。
彼女に近づきたい。
もっと話したい。
あの頃のように、笑い合いたい。
そう思う一方で、心のどこかで声がするのだ。
「もう、やめておけ」と。
「もう二度と、傷つきたくはないだろう?」と。
臆病な俺は、その声に抗うことができない。
だから、また彼女に対して壁を作る。
冷たい態度で自分を守る。
その繰り返しだった。
◆◇◆
昼休み、広報課の早乙女京華が、いつものように差し入れを持ってやってきた。
「俊くん、お疲れ様。これ、よかったら」
完璧な笑顔。
計算され尽くした上目遣い。
彼女はいつも完璧で、美しくそして揺るぎない好意を俺に向けてくれる。
親も、彼女との縁談を望んでいる。
彼女を選べば、きっともうこんな風に悩むことも傷つくこともないのだろう。
それが、世間一般で言うところの「正しい」選択肢なのかもしれない。
けれど。
「……ああ」
俺は、彼女の完璧な笑顔を見ても、礼儀として相槌を打つだけで、心が一ミリも動かないことに気づいていた。
むしろ、彼女の計算された言動が今は息苦しくさえ感じる。
俺の心は、完全に麻痺してしまったのだろうか。
公園の遊具修繕計画は、無事に部長承認も下り、ようやく一段落した。
それはつまり、美鈴との共同作業もこれで一旦終わりになる、ということだ。
その事実に、心のどこかで安堵している自分がいた。
これでまた、必要最低限の関わりだけで済む、と。
だが、同時に。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような、寂しさを感じている自分もいることに、俺は気づいてしまい愕然とした。
このまま、また元の気まずい同僚の関係に戻るのか?
それで本当にいいのか?
彼女がなぜこの街に帰ってきたのか。
東京で一体何があったのか。
そして、何よりも。
十四年前、なぜ俺を振ったのか。
聞きたいことは、喉の奥に棘のように突き刺さったまま、山ほどある。
デスクで、隣の席の美鈴の横顔をそっと盗み見る。
彼女は、何か考え事をしているのか、窓の外を眺めながら少しだけ寂しそうな顔をしていた。
その儚げな表情に、俺の心は、また、締め付けられる。
守りたい、と思った。
柄にもなくそう思ってしまった。
しかし、その資格が今の俺にあるというのか?
一度、彼女に無様に捨てられたこの俺に。
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もう傷つきたくない。
そう思う一方で、彼女を求める心が叫ぶ。
俊は、十四年間抱え続けた問いを、今こそ彼女にぶつけるべきか葛藤していた。
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