第8話
あの賑やかな市民祭りの日から、数日が過ぎた。
祭りの日の出来事は、まるで真夏の夜の夢だったかのように、私と俊との関係は、また元の気まずい状態へと逆戻りしていた。
カモメくんの着ぐるみの中で見せた、彼の不器用な優しさ。
くぐもった声で私を気遣ってくれた、あの瞬間。
それらは全て、祭りの喧騒の中に溶けて消えてしまったかのようだった。
けれど、私の心の中には、あの日の出来事が、消えない小さな灯りのように、確かな温もりをもって残っていた。
そのせいだろうか。
以前よりも、彼のことを目で追ってしまう自分に、私は気づいていた。
仕事に集中する真剣な横顔。
時折、考え込むように指でこめかみを押さえる仕草。
その一つ一つが、私の心を小さく揺さぶる。
そんな自分に戸惑いながらも、私はただ、目の前の仕事に没頭することで、余計な感情から逃げようとしていた。
◆◇◆
公園の遊具修繕計画は、いよいよ大詰めを迎えていた。
明日の朝、鈴木課長と、さらにその上の部長へ提出する、最終報告書と予算案の作成。
それが、今日の私たちに課せられた、最後の仕事だった。
窓の外が、夕焼けから深い藍色へと変わっていく。
「お先に失礼しまーす」
「お疲れ様でしたー」
一人、また一人と、同僚たちが帰宅していく。
やがて、静まり返った企画課のフロアには、私と俊の二人だけが残された。
響くのは、それぞれのキーボードを叩く、リズミカルな音だけ。
重く、そして気まずい空気が、私たちの間に澱のように溜まっていく。
報告書の最終チェックのため、過去の資料が保管されているキャビネットへ向かう。
いくつかファイルをめくっていると、その中から、一枚の色褪せた写真が、はらりと床に落ちた。
拾い上げて、思わず、笑ってしまった。
それは、十数年前の市役所のイベントで撮られた集合写真だった。
そこに写っているのは、今よりもずっと若く、そしてスリムな、学生服姿の鈴木課長。
「ふふっ……」
静かなオフィスに、私の笑い声が小さく響く。
しまった、と慌てて口元を押さえた。
「……何か?」
静寂を破ったのは、意外にも、俊からの声だった。
いつもなら、私がどんな物音を立てようと、彼は一切の関心を示さないのに。
驚いて振り返ると、彼がパソコンの画面から顔を上げ、訝しげにこちらを見ていた。
「あ、いえ、すみません。これ、見てください。課長の若い頃の写真みたいで……」
私が恐る恐る写真を見せると、俊は席を立ち、私の隣にやってきた。
そして、私の手の中の写真を覗き込むと、フッ、と本当にわずかに、その口元を緩めたのが分かった。
「……この頃から、あまり変わってないんですね、課長は」
その声には、いつものような冷たさはなかった。
ほんの少しの変化。
けれど、その変化が、私の強張っていた心を、ふわりと解きほぐしていく。
「そういえば」
私は、その場の空気に背中を押されるように、口を開いた。
「高校の時も、文化祭の準備で、こうやって二人で残ったこと、ありましたよね」
「……ああ。あったな」
彼が、短く相槌を打つ。
その反応が嬉しくて、私は続けた。
「あの時、俊くんがペンキをひっくり返して、壁を真っ青にしちゃって。先生に、ものすごく怒られてましたよね」
「……お前が、後ろから急に脅かすからだろ」
「え、私のせいだったんですか?」
「それ以外に何がある」
憎まれ口のような、ぶっきらぼうなやり取り。
でも、それは歓迎会の時のような、互いを傷つけ合う棘のあるものではない。
まるで、十四年の歳月がなかったかのように、自然で、そして、懐かしい会話。
そのことが、たまらなく嬉しくて。
私は、忘れていたはずの高校時代の思い出を、次から次へと口にしていた。
くだらないことで笑い合ったこと。
テストの点数を競ったこと。
彼が、いつも私の少し前を歩いていたこと。
俊は、相変わらず口数は少なかったけれど、きちんと私の話に耳を傾け、時折、短い相槌を打ってくれた。
ただ、それだけのことが、乾いた心に水が染み渡るように、満たされていくのを感じた。
◆◇◆
「……よし、これで完成だな」
最後の修正を終え、報告書を印刷する。
その最終チェックのため、私たちは、デスクの間で、一枚の資料を二人で覗き込む形になった。
自然と、肩と肩が触れ合うくらい、距離が近づく。
彼のすぐそばにある横顔。
すっと通った鼻筋と、伏せられた長いまつ毛。
普段は意識しないようにしていた彼の存在が、今は、すぐそこにある。
心臓が、大きく音を立て始めた。
その時、彼が、ふとこちらに視線を向けた。
至近距離で、視線が、絡み合う。
彼の、黒く、吸い込まれそうな瞳。
そこに映る、驚いた顔の私。
時間が、また、止まる。
「あっ……」
私は、心臓が飛び出しそうになるのを必死で堪え、慌てて視線を資料に戻した。
「……ここの数字、間違ってる」
沈黙を破ったのは、彼の静かな声だった。
彼が、資料の一点を、指でさす。
その時。
彼の指先が、私の指先に、ほんの少しだけ、触れた。
ピリッ、とした、微かな痛みにも似た、静電気のような感覚。
触れた部分から、じわり、と熱が広がっていくのが分かった。
驚いて顔を上げると、俊も、少しだけ目を見開いて、自分の指先を見ていた。
そして、すぐに、バツが悪そうに、ふいっと視線を逸らした。
その耳が、心なしか赤く染まっているように見えたのは、きっと、気のせいだ。
残業が終わり、私たちは、二人並んで、静かな夜道を歩いていた。
会話はない。
でも、さっきまでの、あの息が詰まるような重苦しい沈黙とは、明らかに違う空気が、私たちの間に流れていた。
さっき触れた、指先の熱が、まだ、私の指に、生々しく残っている。
あれは、ただの偶然?
それとも……。
*****
ほんの少し触れた指先が、熱い。
この熱が、ただの勘違いではないと、信じてしまってもいいのだろうか。
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