第4話
Uターン転職してから、一週間が過ぎた。
俊との、凍りついたような関係は、何も変わらないまま。
私たちは、業務上必要最低限の言葉しか交わさなかった。
彼から話しかけてくることは決してなく、私から何かを尋ねても、返ってくるのは「はい」「いいえ」「分かりません」という、単語に近い返事だけ。
その壁のような態度は、私の心をじわじわと、確実にすり減らしていった。
夜、ベッドに入ると、「もう辞めたい」という弱い気持ちが、黒い染みのように心を覆う。
けれど、その度に私は自分に言い聞かせた。
「ここで逃げたら、東京から逃げたのと同じだ。今度こそ、投げ出しちゃだめだ」と。
◆◇◆
週明けの月曜日。
重い足取りで出勤すると、フロアは朝から少しだけ騒がしかった。
市民課から、かなり厄介なクレームが入電しているらしい。
「また、あの公園の件か……」
向かいの席の先輩職員が、やれやれといった表情でため息をついた。
話によると、市の管理する『みなと中央公園』の遊具が古くて危険だ、というクレームが、数ヶ月前から何度も寄せられているらしい。
特に、一人の市民がかなり激怒しており、対応がこじれているとのことだった。
本来は公園の維持管理を担当する部署の管轄だが、話が大きくなるにつれ、予算を管理する財政課や、市の広報的な役割を担う企画課にも飛び火し始めている、典型的な「たらい回し案件」だった。
「うーん、これは厄介だな……」
報告を受けた鈴木課長が、腕を組んで唸っていたが、やがて「よし!」と何かを閃いたように、ポンと手を打った。
その明るい声に、私は嫌な予感しかしない。
「長谷川! それから黒崎さん!」
課長の声が、フロアに響き渡る。
私の名前が呼ばれたことに、心臓が跳ねた。
「この件、二人で担当してくれ!」
その無茶振りとも言える命令に、フロアがわずかにざわついた。
「よりによって、あの二人を組ませるなんて……」という、同情的な囁き声が聞こえてくる。
「えっ……」
私は、思わず声を漏らして固まった。
俊と二人きりで仕事なんて、絶対に無理だ。
気まずいとか、そういうレベルの話ではない。
隣の俊も、一瞬だけ眉根を寄せ、何か反論したそうな顔をした。
けれど、彼はすぐにいつもの無表情に戻ると、「……分かりました」と、短く、そして静かに承諾した。
その声には、諦めのような響きさえ感じられた。
エースである彼が引き受けた以上、新人の私が断れるはずもない。
「は、はい……」と、蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯だった。
こうして、最悪の形で、私たちにとって初めての共同作業が始まった。
◆◇◆
早速、二人でクレーム主である市民の方へアポイントを取り、話を聞くことになった。
市役所の小さな会議室に現れたのは、田中さんと名乗る、人の良さそうな初老の男性だった。
しかし、席に着くなり、その温和な表情は一変した。
「一体どうなってるんだ、この市役所は! 孫が遊ぶ公園の遊具が錆びて、釘まで飛び出してるんだぞ! 何度電話しても『検討します』ばっかりで、部署から部署へたらい回しにしやがって!」
テーブルを叩かんばかりの剣幕で、田中さんはこれまでの経緯と怒りをぶちまけた。
その気迫に圧倒され、私はただ「申し訳ありません」と、オウムのように繰り返すことしかできない。
どうしよう。
これでは、話がまったく進まない。
冷や汗が、背中を伝う。
私が内心でパニックに陥っていると、それまで黙って田中さんの話を聞いていた俊が、すっ、と身を乗り出した。
「田中さん」
静かだが、凛と響く声だった。
「お気持ちは、痛いほどよく分かります。これまで私どもの対応が遅れ、ご不快な思いをさせてしまいましたこと、心からお詫び申し上げます」
そう言うと、俊は椅子から立ち上がり、田中さんに向かって、深く、深く頭を下げた。
そのあまりに真摯な態度に、あれだけ激昂していた田中さんも、少しだけたじろいでいる。
「頭を下げればいいってもんじゃない!」
そう言いながらも、田中さんの声のトーンは、先ほどより明らかに和らいでいた。
俊は顔を上げると、持参したファイルをテーブルの上に広げた。
「田中さんから頂いたお電話の、これまでの記録です。確かに、複数の部署が対応しており、田中さんが『たらい回しにされた』と感じられるのも、無理はございません。ですが、これは各部署がそれぞれの専門分野から、どうすれば問題を解決できるか、連携して検討していた結果なのです。ご説明が不足しており、大変申し訳ありませんでした」
そこには、いつ、どの部署の誰が、田中さんからの電話にどう対応したか、そして、その後の部署間のやり取りまでが、時系列で克明に記録されていた。
いつの間に、こんなものを。
「ただ、話を聞くだけでは意味がないと思いますので」
俊は続けた。
「今後の具体的な対応スケジュールを、本日この場でご提示させていただきます。まず、明日の午前中に、私と黒崎で現地調査に伺います。その上で、修繕計画の立案と、緊急予算の確保に動きます。少なくとも、一ヶ月以内には、お子さんたちが安全に遊べる環境を必ずお約束します」
淀みない説明。
具体的な解決策の提示。
そして何より、住民の安全を第一に考えるという、彼の強い意志。
「……本当だろうな」
田中さんは、まだ疑うような目をしながらも、腕組みを解いていた。
「はい。この件は、私が責任を持って最後まで担当させていただきます」
俊は、田中さんの目を真っ直ぐに見つめて、はっきりとそう言い切った。
私は、隣で繰り広げられるその光景を、ただただ、呆然と見つめていた。
高校時代の、少し頼りなくて、いつも笑っていた彼とは違う。
住民のために真剣に頭を下げ、問題を解決するために自分の知識と能力をフル活用する。
それは、紛れもなく、私が知らない「大人の男」の顔だった。
◆◇◆
帰り道、二人きりの車内は、やはり重い沈黙に包まれていた。
気まずくて、窓の外を流れる景色ばかりを目で追う。
でも、これだけは言わなければ。
「あの……」
意を決して、私が口を開く。
「さっきは、ありがとうございました。私が何もできなかったのに……助かりました」
「……別に」
俊は、ハンドルを握ったまま、前を向いたまま、素っ気なく答えた。
「仕事ですから」
その声も、その横顔も、いつもと同じように冷たい。
けれど、私の脳裏には、さっき会議室で見せた彼の真摯な眼差しが、焼き付いて離れなかった。
自分のデスクに戻り、隣でまた無表情にパソコンへ向かう俊の横顔を、そっと盗み見る。
胸の奥で、トクン、と長い間忘れていたはずの音が、確かに鳴った。
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高校時代とは違う、大人の男の顔。
その横顔に、忘れていたはずの鼓動が鳴ったことに、美鈴は気づかないふりをした。
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