第3話
カチ、カチ、と無機質なキーボードの打鍵音だけが、俺の思考を現実につなぎとめていた。
モニターに並ぶ無数の文字と数字。
いつもなら数分で処理できるはずのデータが、今日に限っては、まったく頭に入ってこない。
原因は、分かっている。
隣のデスクに座る、彼女の存在だ。
昨日、鈴木課長に「新しく配属になった黒崎さんだ」と紹介された時、俺は自分の耳を疑った。
「くろさき」という、ありふれた苗字。
だが、俺の心臓は、まるでその名を思い出すなと警告するかのように、大きく脈打った。
まさか。そんなはずはない。
そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと顔を上げた先にいたのは、十四年間、忘れたくても忘れられなかった、彼女そのものだった。
◆◇◆
黒崎美鈴。
高校時代よりも少しだけ大人びて、纏う空気はどこか儚げに変わっていたけれど、あの真っ直ぐな瞳も、不意に見せる困ったような眉の形も、記憶の中の彼女と寸分違わず重なった。
その瞬間、俺の思考は完全に停止した。
そして、脳裏にフラッシュバックする。
十四年前の、あの日の光景。
『ごめん、俊。他に好きな人ができたの』
泣きそうな顔で、でも決して涙は見せずに、そう告げた彼女。
理由を問いただすことも、引き留めることもできず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった、無力な俺。
―――ガシャン。
心の奥深くで、固く閉ざしたはずのシャッターが、大きな音を立てて下りるのが分かった。
そうだ、こいつは俺を捨てた女だ。
今さら、どんな顔をして俺の前に現れたんだ。
「……よろしく」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく、低かった。
隣で、彼女が息をのむ気配がした。
知ったことか。
それから、地獄のような時間が始まった。
仕事に集中しようとすればするほど、隣に座る彼女の気配が、全身の神経を逆撫でる。
微かに香る、懐かしい石鹸の匂い。
緊張で強張っている背中。
時折、小さく漏れるため息。
その全てが、俺の平静を乱した。
業務の質問をされた時もそうだ。
「長谷川さん」などという他人行儀な呼び方に、腹の底で何かが燃え上がるのを感じた。
だから、わざと突き放すような言い方をした。
『業務に関係ない私語は、なるべく控えてもらえますか』
本当は、そんなことを言いたいわけじゃない。
もっと、気の利いた、大人の対応ができたはずだ。
だが、感情のブレーキがまったく効かなかった。
これ以上彼女と会話をすれば、十四年間溜め込んできた、行き場のない感情が、堰を切ったように溢れ出してしまう。
何を口走るか、自分でも分からなかった。
だから、拒絶するしかなかった。
自己防衛。
そう、これはただの自己防衛だ。
横目で、彼女の顔を盗み見る。
記憶の中の美鈴は、いつも太陽のように笑っていた。
彼女がいるだけで、その場がパッと明るくなった。
だが、今の彼女はどうだ。
顔色は青白く、少し痩せたように見える。
目の下には、隠しきれない隈がうっすらと浮かんでいた。
東京で、何かあったのか。
その疑問が頭をよぎった瞬間、俺は自分自身に舌打ちした。
今さら、俺には関係のないことだ。
彼女がどこで何をしていようと、知ったことではない。
そんな俺の葛藤を、もちろん周囲の人間が知るはずもない。
鈴木課長は、昨日から「青春だねぇ!」と無邪気に騒ぎ立てる。
その度に、フロア中の生温かい視線が俺たちに突き刺さる。
俺は、完璧な無表情を顔に貼り付け、その嵐をやり過ごした。
内心で「頼むから、もうやめてくれ」と叫びながら。
◆◇◆
昼休み、広報課の早乙女京華がやってきた。
彼女は、市議会議員の娘で、親同士が勝手に進めている縁談の相手だ。
俺自身にその気はまったくないが、彼女と親しげに振る舞うことが、今の俺にとっては好都合だった。
京華が俺の隣にいれば、美鈴も余計な期待を抱かないだろう。
俺たちの間には、もう何もないのだと、理解してくれるはずだ。
だが、京華が美鈴にかけた言葉には、思わず眉をひそめてしまった。
『あんまり俊くんに無理させないでね』
あの言い方は、明らかに牽制だ。
美鈴は、もう俺とは関係ない。
だが、彼女が他人に棘のある言葉を向けられているのを見ると、なぜか無性に腹が立った。
俺は、京華が置いていったコーヒーには目もくれず、再びモニターに視線を戻した。
カチ、カチ、カチ……。
キーボードを叩きながら、俺は高校時代の、意味のない時間を思い出していた。
テスト前に、二人で残った放課後の図書室。
部活帰りに、半分こにして食べたアイス。
くだらないことで笑い合った、帰り道。
俺の青春は、そのすべてに、黒崎美鈴がいた。
彼女に振られた後も、俺はずっと、心のどこかで彼女を引きずっていた。
大学で新しい恋をしようとしたこともあった。
だが、誰といても、心の片隅にいる美鈴の笑顔がちらついて、長続きはしなかった。
この再会は、偶然なのか。
それとも、何か意味があるのか。
◆◇◆
終業時刻を過ぎ、美鈴が「お先に失礼します」と小さな声で挨拶をして帰っていく。
その背中を見送ることもせず、俺はただ、空になった隣の席を見つめていた。
彼女が残していった、微かな石鹸の香りだけが、そこに彼女がいたという事実を、嫌というほど突きつけてくる。
なぜ今、帰ってきたんだ。
お前がいなくなってから、俺がどれだけ……。
喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
今はまだ、その答えを知るのが怖かった。
十四年という歳月が、俺を臆病な男に変えてしまったらしい。
*****
「なぜ今、帰ってきたんだ」。
聞きたい言葉を飲み込み、俊はただ、隣の席の彼女から目を逸らすことしかできなかった。
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