第2話
地獄のような初日を終え、どうやって家にたどり着いたのか、記憶は曖昧だった。
食卓に並んだ母の温かい手料理も、ほとんど喉を通らない。
自室のベッドに倒れ込むと、鉛のように重い疲労感とは裏腹に、頭は妙に冴え渡っていた。
『業務に関係ない私語は、なるべく控えてもらえますか』
瞼を閉じれば、俊の冷たい声が、耳の奥で何度も再生される。
分かっている。
私が彼を傷つけたのだ。
十四年前、彼の優しさにつけこみ、身勝手な嘘で別れを告げた。
彼が私を拒絶するのは、当然の報いだ。
それなのに。
どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。
天井の木目を眺めながら、私は自問自答を繰り返す。
これは、過去を懐かしむ感傷?
それとも、プライドを傷つけられたことへの反発?
違う。どちらも、違う気がする。
結局、その答えを見つけられないまま、私はほとんど眠れずに、重い体を引きずって出勤二日目の朝を迎えた。
市役所へ向かう足取りは、昨日よりもずっと重い。
企画課のフロアのドアが、まるで断頭台への入り口のように見えた。
◆◇◆
息を殺すようにして中へ入ると、彼はすでに自分の席に着き、驚異的な集中力でパソコンの画面に向かっていた。
その横顔は、まるで彫刻のように整っていて、感情の起伏を一切感じさせない。
「……おはようございます」
私がか細い声で呟いた挨拶は、静かなフロアに虚しく響いただけだった。
彼がわずかに眉を動かしたのを、私は見逃さなかったけれど、返事が返ってくることはなかった。
気まずい沈黙の中、私も自分のデスクに向かい、パソコンの電源を入れる。
隣に座る彼の存在を意識しないようにすればするほど、全身の神経が彼の挙動を捉えてしまう。
彼がコーヒーを飲む音、書類をめくる指先の動き、時折、小さく息をつく気配。
その全てが、私の心をかき乱した。
◆◇◆
午前中、その状況を打ち破るように、フロアの電話が鳴った。
受けたのは、私の向かいの席の女性職員だったが、すぐに困ったような顔で俊に助けを求めた。
「長谷川さん、すみません。建設課の方から、例の補助金申請の件で至急確認したいと……」
「代わってください」
俊は短く言うと、受話器を受け取った。
そこからの彼は、まさに「エース」という名にふさわしい働きぶりだった。
「ええ、企画課の長谷川です。……はい、その件ですが、先日の会議でお渡しした資料の7ページをご確認ください。……ええ、そうです。根拠法は〇〇条例の第5条第2項。申請の締め切りは来週月曜の17時厳守でお願いします。……はい、失礼します」
淀みない口調、的確な指示。
難しい専門用語を並べながら、相手を納得させていく。
電話を切ると、今度は別の部署の職員が、「長谷川くん、ちょっといい?」と、分厚いファイルを持って相談にやってくる。
その一つ一つに、彼は冷静に、そして迅速に対応していく。
その姿は、私が知っている高校時代の彼とは、まるで別人だった。
いつも仲間とふざけ合って笑っていた、少しだけやんちゃなバスケ少年。
放課後の教室で、難しい数学の問題に頭を抱えていた彼。
私の記憶の中にいる俊は、そんな、どこにでもいる普通の高校生だったはずだ。
いつの間に、こんなにも頼もしい、大人の男になったのだろう。
同僚の女性職員たちが、ひそひそと噂しているのが聞こえてくる。
「やっぱり長谷川さん、すごいよね。何を聞いてもすぐに答えが返ってくるし」
「ほんと、頼りになるよねぇ。彼がいなかったら、企画課は回らないよ」
その賞賛の声を聞きながら、私の胸には、誇らしいような、それでいて取り残されたような、複雑な感情が渦巻いていた。
◆◇◆
そんな時だった。フロアに、やけに明るい声が響き渡ったのは。
「やあ、二人とも! 仲良くやってるかい?」
声の主は、鈴木課長だった。
ニコニコと人の良い笑みを浮かべながら、私たちのデスクの間に立つ。
「いやー、しかし、黒崎さんと長谷川くんが同級生とはね! まさに青春だねぇ!」
デジャヴ。
昨日も聞いたそのセリフを、課長は昨日以上のボリュームで言い放った。
フロア中の視線が、一斉にこちらに突き刺さるのが分かる。
数人の職員が、堪えきれずにクスクスと笑っている。
顔から火が出るほど恥ずかしく、私は俯いて、ただ嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
ちらり、と隣を盗み見る。
俊は、眉一つ動かさず、彫像のように無表情でモニターを見つめていた。
その完璧なポーカーフェイスが、私の惨めさを一層際立たせる。
「長谷川、黒崎さんにしっかり指導してやれよ! 昔のよしみでな、ガハハ!」
課長は豪快に笑いながら去っていったが、残されたフロアの空気は、なんとも言えない生温かいものに変わっていた。
もう、穴があったら入りたい。
今すぐにでも、ここから逃げ出したかった。
◆◇◆
昼休み。
気まずさに耐えきれず、私は誰にも誘いをかけず、一人デスクでコンビニのおにぎりを頬張っていた。
すると、ふわり、と甘い香りが鼻先をかすめた。
「あなたが、新しく入った黒崎美鈴さん?」
顔を上げると、そこに立っていたのは、息をのむほどの美人だった。
手入れの行き届いた華やかな巻き髪に、完璧なメイク。
流行のブラウスを上品に着こなした彼女は、まるでファッション誌から抜け出してきたかのようだった。
「私、広報課の早乙女京華です。よろしくね」
彼女こそ、昨日噂に聞いた、俊の婚約者候補。
「あ、はい。企画課の黒崎です。よろしくお願いします」
慌てて立ち上がろうとする私を、京華さんは「座ったままでいいのよ」と優しく制した。
「俊くんとは、高校が同じなんですって? 驚いちゃった」
彼女は、ごく自然に、彼のことを「俊くん」と呼んだ。
その親密さが、チクリと私の胸を刺す。
「ええ、まあ……」
「大変でしょう、いきなり地元に戻ってきて。何か困ったことがあったら、私にも声をかけてね」
人懐っこい笑顔。
完璧な気遣い。
同性の私から見ても、彼女がどれほど魅力的か、すぐに分かった。
京華さんは、そのまま俊のデスクへ向かうと、「俊くん、最近忙しそうだから」と言いながら、有名カフェのロゴが入ったコーヒーカップをそっと置いた。
「黒崎さんも、あんまり俊くんに無理させないでね。彼、根を詰めちゃうタイプだから」
振り返り際に私に向けられたその言葉と笑顔は、どこまでも優しく、そして、その裏に隠された鋭い棘を、私に見せつけていた。
『彼は私のものだから、手を出さないで』
言葉にはしない、明確な牽制。
私は、曖昧に笑って頷くことしかできなかった。
遠くのデスクで、女性職員たちがまた噂話に花を咲かせている。
「京華さんと長谷川さん、やっぱりお似合いだよねぇ」
「うんうん。ご両親も公認の仲だって言うし、もうすぐなんじゃない?」
そうだ。
彼には、こんなにも素敵な人がいる。
仕事ができて、誰からも信頼されて、そして、美しい恋人がいる。
完璧な、彼の人生。
そこに、十四年前に彼を裏切った私が入り込む隙など、一ミリもないのだ。
分かっている。
頭では、痛いほどに。
それなのに、どうしてだろう。
胸の奥で、小さな波紋が、静かに、だけど確実に広がっていくのを感じていた。
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完璧な彼と、完璧な彼女。
入り込む隙などない。
そう思っていたはずの美鈴の心に、小さな波紋が広がっていく。
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