第14話
あの夜、居酒屋のカウンターで、俺は十四年間ずっと心の奥底でくすぶり続けていた問いを彼女にぶつけた。
「お前はなんでこの街に帰ってきたんだ?」
それは、嫉妬や怒りからではなかった。
ただ、純粋に知りたかった。
俺の前であまりにも儚げに、そして辛そうに息をする彼女のその理由を。
彼女の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた時、俺はひどく狼狽した。
泣かせるつもりなんて微塵もなかった。
ただ、彼女の口から語られた東京での日々の過酷さ、プレッシャー、そして心が壊れてしまったという告白は、俺が想像していたよりもずっとずっと重いものだった。
華やかな世界でたった一人、心をすり減らしていた彼女の姿。
それを思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
気の利いた言葉一つかけてやれず、ただハンカチを差し出すことしかできない自分が、ひどく無力に感じられた。
「大変だったな、美鈴」
無意識に、口からこぼれ落ちた言葉。
それは十四年間、ずっと彼女に言いたかった言葉だったのかもしれない。
俺の腕の中で、子供のように泣きじゃくる彼女の背中を、たださすることもできずに俺は固まっていた。
あの日を境に、俺の中で何かが確実に変わった。
これまで、彼女は俺にとって「過去に自分を捨てた女」だった。
そのフィルターを通してしか彼女のことを見ることができなかった。
だが今は違う。
傷つき疲れ果て、それでももう一度自分の足で立ち上がろうとしている。
弱くて、脆くて、だけど本当はとても強い一人の女性。
それが俺の目の前にいる、黒崎美鈴だった。
守りたい。
その感情が、疑いようのない確信となって俺の胸に宿った。
商店街のプロジェクトで、生き生きと働く彼女の姿を見ることが、いつしか俺にとっての何よりの喜びになっていた。
店主たちと笑い合う顔。
子供たちに優しく声をかける横顔。
その一つ一つが、俺の心を温かく照らした。
しかし、俺の心にはまだ解けないままの大きな謎が残っていた。
「なぜ、十四年前に俺を振ったのか」
彼女は、東京での挫折は話してくれた。
けれど、あの日の別れの理由についてはまだ一言も語ってはいない。
『他に好きな人ができたの』
あの言葉は本当だったのか。
それとも何か、別の理由があったのか。
もし、あの言葉が本当だったとしたら。
今、こうして彼女に再び惹かれている俺はただの滑稽な道化ではないのか。
その問いが、彼女への想いに最後のそして最も強力なブレーキをかけていた。
そして運命のイベント当日がやってきた。
俺たちのゲリラ的な広報活動が功を奏し、駅前商店街は近年見たこともないほどの人で溢れかえっていた。
若者、カップル、家族連れ。
誰もがスタンプラリーのマップを片手に、楽しそうに店から店へと巡っている。
シャッターが下りていたはずの通りに活気と笑顔が戻ってきていた。
本部テントで忙しく立ち働く美鈴の姿が見える。
押し寄せる参加者に笑顔で対応し、商店街の店主たちと冗談を言い合い、走り回る子供たちに優しく声をかける。
その姿は、まるで太陽そのものだった。
俺は少し離れた場所から、その光景を眩しいものを見るようにただ見つめていた。
そうだ。
これだ。
俺が見たかったのはこの笑顔だ。
東京で失われていた、彼女の本当の輝き。
イベントの成功とあの太陽のような笑顔を見て、俺はついに決意を固めた。
もう過去に縛られるのはやめよう。
十四年前の理由がどうであれ、もう関係ない。
今のありのままの黒崎美鈴を、俺はもう一度この手で幸せにしたい。
今度こそ絶対に、この手を離さない。
そう心に誓ったその時だった。
ポケットに入れていたスマートフォンが、ぶ、ぶ、と震えた。
ディスプレイに表示されているのは「母」の二文字。
こんな忙しい時に一体なんだ。
嫌な予感が胸をよぎる。
「……もしもし」
喧騒を離れ電話に出る。
聞こえてきたのは、やけに弾んだ母親の声だった。
「俊ちゃん大変! やっとよ、やっと! 早乙女さんとの顔合わせの日取りが決まったのよ! 来週の土曜日、料亭の『まつがえ』でね! 今度こそ、ちゃんと来てちょうだいね!」
その言葉は、まるで頭を鈍器で殴られたかのような強烈な衝撃を俺に与えた。
血の気が引いていくのが分かる。
あれほど断り続けてきたはずの、京華との縁談。
「今度こそ、お前を離さない」。
そう心に誓った、まさにその瞬間に。
逃れることのできない運命がすぐそこまで迫っていることを、俺は知った。
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今度こそ、お前を離さない。
そう誓った俊の元に母から一本の電話が入る。
それは、逃れられない運命の始まりを告げる電話だった。
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