第13話
俊が、私の知らないところで、私のために戦ってくれていた。
その事実を知ってから、私の彼に対する見方は百八十度変わってしまった。
彼のぶっきらぼうな言葉。
素っ気ない態度。
その一つ一つがただの不器用な優しさの裏返しなのだと、ようやく理解できた。
氷の壁だと思っていたものは、本当は傷つくことを恐れる彼の脆くて繊細な心を守るための、ガラスの壁だったのかもしれない。
「あの、すみませんでした! 勝手なことして……」
翌日、私は企画課の有志による「ゲリラ作戦」のことを正直に俊に打ち明けた。
彼に「非効率だ」と否定された手前、気まずさでいっぱいだった。
「……いや」
しかし、彼から返ってきたのは意外な言葉だった。
「見事だ。俺にはその発想はなかった」
初めて彼から、素直な賞賛の言葉を貰った。
その一言で、私の心はふわりと軽くなるのを感じた。
◆◇◆
その日を境に私たちの間の空気は明らかに変わった。
企画課の「非公式広報チーム」の活動も正式に認められ、私たちのゲリラ作戦はさらに勢いを増していく。
SNS上では「#みなと再発見」のハッシュタグが飛び交い、ローカル情報サイトに掲載された記事は驚くほどのアクセス数を記録した。
商店街の店主たちも、「最近、若いお客さんが増えたよ」と、嬉しそうに報告してくれるようになった。
プロジェクトの準備は佳境に入り、私と俊は連日夜遅くまで二人で残業する日々が続いた。
けれど、以前のような息の詰まる気まずさはもうどこにもなかった。
同じ目標に向かう「同志」としての、心地よい緊張感と確かな連帯感が私たちを包んでいた。
「……終わった!」
イベント開催を二日後に控えた夜。
最後の準備を終え私が大きく伸びをすると、隣で俊も「ふう」と深い息を吐いた。
「……少し、飲んでいくか」
彼からそう誘われたのは、本当に自然な流れだった。
◆◇◆
連れて行かれたのは、商店街の路地裏にひっそりと佇む小さな居酒屋だった。
カウンター席だけのこぢんまりとした店。
私たちは、その隅の席に並んで腰を下ろした。
最初はやはり、少しだけぎこちなかった。
お互い、何を話していいのか分からないまま、ただ目の前のビールグラスを傾ける。
「……大学、東京だったんだな」
沈黙を破ったのは俊だった。
「ああ。……結局、お前を追いかけるみたいになったけどな」
自嘲するように、彼は笑った。
「え……」
「別に深い意味はない。ただ、東京に行けば何か変わるかと思っただけだ」
彼は、ぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。
大学時代のこと。
俺たちの街が、他の都市に比べてどんどん寂れていくのが悔しくて市役所に入ったこと。
私が全く知らなかった彼の十四年間。
その一つ一つが、私の心にゆっくりと染み込んでいく。
私もお酒の力を少しだけ借りて、東京での仕事の話をした。
華やかに見えた広告業界の裏側。
厳しいノルマとプレッシャー。
そして、いつしか自分がすり減っていくのを感じていたこと。
挫折したみじめな過去。
けれど、不思議と彼の前では素直に話すことができた。
「……そうだったんだ」
私の話を、彼はただ静かに最後まで聞いてくれた。
そして、ぽつりとそう相槌を打った。
その声があまりに優しくて、温かくて。
私は、不意に涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
会話が途切れる。
店のテレビから流れる野球中継の音だけが、やけに大きく聞こえた。
その時だった。
「なあ、黒崎」
彼がじっと私の目を見ていた。
いつもの「おい」でも「黒崎さん」でもない。
ただ「黒崎」と、私の苗字を呼ぶその声。
それは、逃げ道を塞ぐような真剣な響きを持っていた。
「お前はなんで、この街に帰ってきたんだ?」
ずっと聞かれるのが怖かった質問。
ずっと彼にだけは、聞かれたくなかった質問。
私は一瞬言葉に詰まる。
東京から逃げてきた、なんて情けないこと言えるはずがない。
けれど、彼の全てを見透かすような真っ直ぐな瞳を見ているうちに、もう嘘や建前で自分を偽るのはやめよう、と思った。
「……東京で、全部、うまくいかなくなって」
ぽつりと言葉が漏れた。
一度口にしてしまえば、後は堰を切ったように感情が溢れ出してきた。
「仕事も人間関係も何もかも……。毎日、何のために生きてるのか分からなくなって……。気がついたら、心が、壊れちゃってたみたいで……」
みっともない。
そう思うのに、涙が後から後から頬を伝って落ちていく。
彼の前でだけは、絶対に泣きたくなんかなかったのに。
俊は何も言わなかった。
ただ黙って、私が泣きじゃくるのを静かに待っていてくれた。
やがて、涙が少しだけ収まった頃。
彼がそっと清潔なハンカチを差し出した。
そして、本当に本当に優しい声でこう言ったのだ。
「……そうか。大変だったな。でも、」
彼はそこで一度言葉を切ると、私の目をもう一度真っ直ぐに見て続けた。
「おかえり、美鈴」
その、十四年ぶりに呼ばれた、私の名前。
その、あまりに優しい、「おかえり」という一言に、ようやく止まったはずの私の涙腺は、再び、完全に、決壊した。
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「おかえり」。
その一言が、十四年という歳月をいとも簡単に溶かしていく。
しかし、動き出した二人の時間はやがて逃れることのできない運命の渦へと、二人を巻き込んでいくことになる。
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