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元カレは隣の席のエース  作者: naomikoryo


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第1話

午前二時。

無機質な蛍光灯が照らすオフィスで、私は静かに息を吐いた。

パソコンのモニターに映し出されるのは、何度修正を重ねても「何かが違う」と突き返される企画書の骸。

胃のあたりが、もう何ヶ月もずっと、鈍く痛み続けている。


黒崎美鈴、三十二歳。

東京の大手広告代理店で、がむしゃらに働いてきた十年。

いつしか、自分が何をしたいのか、何のために働いているのかさえ分からなくなっていた。

上昇していく売上目標、減っていく睡眠時間、そして希薄になっていく人間関係。

気がつけば、私の心はすっかり摩耗し、潤いを失ったスポンジのようになっていた。


「私、辞めます」


その一言を口にした時、上司は驚いた顔をしていたけれど、私自身は不思議なくらい冷静だった。

ああ、やっと終わる。

ガラス張りの会議室から見えるきらびやかな東京の夜景が、まるで自分とは関係のない、遠い世界の景色のように感じられた。


そうして私は、十四年ぶりに、地元である海沿いの街・みなと市に帰ってきた。


◆◇◆


新幹線のホームに降り立った瞬間、潮の香りを微かに含んだ空気が、私の肺を満たした。

東京の乾いた空気とは違う、少しだけ湿った、懐かしい匂い。

十四年前、この街を出ていくときは、二度と帰らないとさえ思っていたのに。

人生とは、ままならないものだ。


両親は、娘のUターンを驚きながらも温かく迎えてくれた。

実家で過ごす数週間は、まるで止まっていた時間を取り戻すかのように穏やかで、私のささくれた心を少しずつ癒やしてくれた。


そして今日。

再就職先である湊市役所への、初出勤の日。

クローゼットの奥から引っ張り出した、まだ真新しいリクルートスーツに身を包み、私は少しだけ緊張しながら玄関のドアを開けた。


「湊市役所 企画課」。

それが、私の新しい職場だった。

「今日から企画課に配属になった、黒崎美鈴さんです。皆さん、よろしく」

人の良さそうなお腹の出た課長に紹介され、私は深々と頭を下げた。

「黒崎美鈴です。一日も早く戦力になれるよう、精一杯頑張ります。よろしくお願いいたします」

パラパラと起こる拍手と、「よろしくー」という歓迎の声。

十数名の職員が働くフロアは、東京のオフィスとは比べ物にならないほど、のんびりとした空気が流れている。


「黒崎さんの席は、あそこね。隣の長谷川くんに、仕事のことはいろいろ聞きながら進めてください。長谷川くんはうちのエースだから、何でも知ってるよ」

課長が指さした席は、窓際から二番目の、日当たりの良さそうな場所だった。

そして、その隣。


――長谷川くん。


その、ありふれた苗字に、私の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

まさか。

日本中に、長谷川なんて苗字の人はごまんといる。

ましてや、ここは地元だ。

同級生がいても、おかしくはない。

でも、まさか。


◆◇◆


恐る恐る、課長の後についてその席へ向かう。

隣の席の主は、パソコンのモニターに集中しているのか、こちらに気づく様子はない。

黒い、清潔感のある短髪。

広い肩幅。

スーツの上からでも、鍛えられているのが分かる。


「長谷川くん、ちょっといいかな」

課長の声に、その男性が、ゆっくりと顔を上げた。


その瞬間、私の世界の時間が、完全に止まった。


すっと通った鼻筋。

少しだけ切れ長の、涼しげな目元。

記憶の中にある少年時代の面影を残しながらも、精悍な大人の男へと成長したその顔は、間違いなく。


「……長谷川、俊くん」


私の口から、かろうじて絞り出された声は、自分でも驚くほど震えていた。


彼だった。

十四年前、私がこの街を去る直前に、「ごめん、他に好きな人ができたから」と、嘘をついて一方的に別れを告げた。

私の、元カレ。

一番会いたくなかった、過去そのもの。


俊は、私を見ると、ほんのわずかに目を見開いた。

その瞳に宿ったのは、驚き、そして、すぐに氷のような無感情へと変わっていく、冷たい色の変化。


「ああ、長谷川くんと黒崎さんは、高校の同級生だったんだっけ?そりゃ奇遇だねぇ」

課長は、私たちの間に流れる凍てついた空気など知る由もなく、のんきに笑っている。


「……よろしく」


俊の唇から紡がれたのは、たったその一言。

低く、感情の乗らない声。

それは、記憶の中にある、少し高くて、いつも楽しそうに私の名前を呼んでくれた彼の声とは、似ても似つかないものだった。


「は、はい……。よろしくお願いします」

私も、そう返すのが精一杯だった。

頭が真っ白で、手足の感覚がない。

血の気が引いて、立っているのがやっとだった。


◆◇◆


自分のデスクにどうやってたどり着いたのか、よく覚えていない。

ただ、隣に座る彼の存在が、痛いほどに突き刺さる。

キーボードを叩く、乾いた音。

時折、マウスをクリックする音。

その一つ一つが、私の鼓膜を不必要に刺激した。


仕事なんて、まったく手につかない。

パソコンのセットアップをするふりをしながら、私は必死で平静を装っていた。

どうして、彼がここに。

市役所に就職したなんて、聞いてない。

いや、聞くはずもない。

あの日以来、私たちは一度も連絡を取っていないのだから。


気まずい沈黙が、息を詰まらせる。

何か、何か話さなければ。

でも、何を?「元気だった?」なんて、どの口が言えるだろう。


どうしても業務で必要なことを確認しなければならず、私は意を決して、隣の彼に声をかけた。

「あの、長谷川さん……。この共有フォルダのアクセス権限って……」

「さん」付けで呼んだことに、自分で少しだけ驚いた。


俊は、こちらに顔を向けることなく、パソコンの画面を見たまま、早口で説明を始めた。

「申請書は、そこのキャビネットの上から三番目。必要事項を書いて、課長に判子をもらってから総務課に提出してください」

「あ、はい……」

「それから」

彼は、まるで私の言葉を遮るように、続けた。

「業務に関係ない私語は、なるべく控えてもらえますか。見ての通り、手が離せないので」


その言葉は、鋭いナイフのように、私の胸を深く抉った。

拒絶。

明確な、拒絶だった。

当然だ。

十四年前に、あんな形で彼を裏切ったのだ。

許されるはずがない。

分かっているのに、涙が滲みそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に堪えた。


◆◇◆


人生の再スタート。

そう意気込んで帰ってきたはずなのに、初日から、これ以上ないほどの大きな壁にぶち当たってしまった。

これから毎日、この気まずさの中で、彼と顔を合わせなければならないのか。そう思うと、目の前が真っ暗になった。


窓の外では、湊市特有の、穏やかな時間が流れている。

カモメの鳴き声が、遠くに聞こえた。

その平和な情景だけが、まるで今の私の心を置き去りににしていくようだった。



*****

こうして始まった、元カレが隣の席という気まずすぎる社会人生活。

だがこの再会が、止まっていたはずの私の時間を大きく動かすことになるのを、まだ知らなかった。

*****

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