第45話:叫びのコレクション
出迎えに現れたのは、堅物そうな燕尾服の老人だった。
まるで古い舞台から抜け出てきたかのような、静かな所作で深く一礼をする。
「……お通しします。ヒース様は奥でお待ちです」
邸宅内に案内されると、重厚な家具と古そうな美術品が所狭しと並び、どこか美術館のような雰囲気があった。
壁には著名な画家の模写と思われる作品が、惜しげもなくかけられている。
やがて、応接間のソファに腰掛けた主──ヒースが現れた。
落ちくぼんだ眼窩にねじ込まれたモノクルと口髭。
でっぷりとした腹をはち切れそうなボタンが抑えている。
足は床に放り出され、屋敷の内装から想像できるに容易い"成金"を体現したような人物だった。
「なんのようかね…こちらも忙しいんだよ。もうすぐ来客もあるんだ。そうだろう? バーナード」
「おっしゃる通りにございます。戌の刻を過ぎているというのに、非常識ではございませんか」
──戌の刻。
聞きなれない言い回しだ。
東区に住む人達が口にするような、堅苦しい言葉遣い。
「通報があったので、その確認をさせてもらうだけですよ。叫び声が聞こえたと通報がありまして」
「叫び声ですか? 私とヒース様はずっとこの屋敷におりましたが、そんな声は聞いておりませんよ。きっと、また悪戯でしょう」
首を横に振るバーナードに対し、僕は一歩踏み込んだ声で返す。
「周囲の住民からの通報は複数件に及んでいます。念のため、屋内を確認させていただけると助かります」
にっこりと微笑みかける。
ヒースは少しの間沈黙したあと、のそりと立ち上がり、巻かれた櫛髭をつまむ。
「……ちょうどいい。最近完成した彫刻がありましてね。誰かに見せたいと思っていたんだ」
立ち上がったヒースに連れられ、壺や石像、絵画の数々が並ぶ部屋を通り抜ける。
やがて階段へ差しかかったところで、僕はさりげなく手でジェスチャーを送った。
それを察したオーティスが、自然な動きで執事に尋ねる。
「すまん、手洗いを借りてもいいか? ここに来る前、バイクのメンテをしてたもんだから、手が汚れててな。美術品を汚すわけにいかないだろ?」
「……仕方ありませんね。ご案内いたします」
オーティスが執事に案内され、一階の奥へ向かっていくのを見届けてから、ヒースの背中に視線を戻す。
一階ロビーから回り込むような階段。
ワインレッドの絨毯は靴底を沈み込ませ音を消す。
「この邸宅、別荘と聞いていますが、よくいらっしゃるんですか?」
「ええ、最近は特にここにいる時間が増えました。創作には静かな環境が必要でしてね」
そして到着したのは二階の大広間──
開放的な空間に、不自然なまでに巨大な何かが立っていた。
白い布に覆われていて、全貌は見えない。
「D.R.Aの連中の方がこういうのは喜ぶと思うんですがね……まあいい、見せましょう」
ヒースが布をするすると剥がす。
そこに聳えたもの。
それは、まるで生きているかのような躍動感を持ったギュネオスの彫像だった。
淡いオレンジ色の照明に当てられているものの、光は黒に消えて、光沢を許さない。
「……ッ!」
僕は反射的に手をかざし、水の刃を生み出す構えを取った。
鋭い爪は長く伸びて、今にも跳びかかってきそうな姿勢で時が止まっているかのようだった。
空洞の頭部に表情なんてないはずだが、怒りのようなものが刻まれている。
「やめたまえ! ただの芸術品だよ。俺の趣味で作らせているものだ!!」
ヒースが慌てて制止する。
そのとき──
通信機から、オーティスの声が届いた。
『……先輩。厄介なことになりました。執事がいなくなった隙に迷っ…探索をしてたんですが──』
「どうした?」
『一階、一番奥の扉です。今すぐに来てください』
視界の端で、ヒースの肩がわずかに跳ねた。
だが、次の瞬間には踵を返し、逃げるように階段へ向かおうとする。
確信に変わる。
「どこへ行くつもりだい」
静かに声を落としながら、指先を滑らせた。
床に落ちる音すらなく、水が彼の体を絡め取る。
「な、なな、なんだこれは!!」
もがくほどに締まる水の拘束。
肉の奥で脈打つ鼓動が、こちらにまで伝わってくる。
「君の“コレクション”、まだ全部見てないんだ。案内は途中じゃなかったかな?」
軽く笑ってみせると、彼の顔色が一気に変わった。
背を向け、階段を下りる。
絨毯が音を吸っているのに、やけに“何か”が耳に残る。
――金属音だ。
かすかに、擦れるような。
引きずるような。
さっきからずっと、この屋敷の奥で鳴っていた音。
気のせいじゃない。
階段を下りる足が、自然と速くなった。
合流地点。
廊下の奥へ進むほどに地上の夜気とは違う、地下室のような湿った冷たさ。
オーティスが立っている。
その足元に、バーナードが倒れていた。
「抵抗されたので、意識は飛ばしてもらいました。問題はこっちです」
彼の肩越しに親指が示すのは、重厚な装飾の扉。
隙間から滲む冷たい空気と金属のこすれあう音。
「……開けるよ」
扉を開いた先、そこには──
壁際には鉄格子が並び、その中で蠢く影。
硬質な外殻と頭部に空いた穴。
その身には足枷と頭部の拘束具、太い鎖が打ち込まれている。
叫び声は、今まで聞いてきたものとは違い、どこか悲痛が混じっている。
ギュネオス。
「先輩……どうします?」
「どうするも何も──」
僕は水を掌に収束させ、ゆっくりと構えた。
「倒すしかないかな」
空間の奥に並ぶ鉄格子──そのひとつひとつがまるで異形を封じ込めるための祭壇のようだ。
ギュネオスの呻き声が、深く反響し、暴れ狂うかぎ爪が高価そうな壁紙を深く傷つけている。
ひとつ、ふたつ──鉄格子の奥で蠢く黒い巨体。
どれも同じように頭部に空洞を持ち、埋め込まれたコアの赤黒い光がひび割れた外殻の隙間から滲む。
脈打つように淡く光るそれは、この不気味な静寂の中でやけに生々しかった。
「…2体…3体いるね」
思わず声を潜める。
隣でオーティスが小さく頷く気配がした。
「……この量ならすぐ終わりそうだな」
「うん。でも油断しちゃだめだよ。犯罪Novactorと違ってこの異形達は想定と違う動きをするからね」
右手に意識を集中させる。
「僕は左のをやる。オーティス、君は右の1体をよろしくね」
「すぐ終わらせましょう」
空気中に雨粒のような一滴が生み出されると、次第に掌の上で形を持ちはじめる。
流動していたそれは、瞬く間に収束し、鋭利な槍へと変わった。
淡い水面の光が刃の輪郭を縁取る。
躊躇はせず。
腕を振り抜く。
空気を裂く音と同時に、水槍が一直線に飛んだ。
最初の一体、そのコアを正確に貫いた瞬間、巨体がびくりと痙攣し、次の瞬間には黒い粒子へと崩壊した。
塵のようにほどけ、それはゆっくりと宙へ溶けていく。
続けざまに、もう一本。
同じ軌道、同じ精度。二体目も同様に消失する。
「よし……オーティスの方も上手くやったみたいだね──」
言い切るより先に、空気が揺れた。
「…お待ちください」
かすれた声が、地下の空間に滲むように広がる。
執事──バーナード。
足元は覚束なく、壁に手をつきながら、それでもこちらを睨みつけている。
血の気の引いた顔に、異様な執念だけが残っていた。
「……気絶させたのに。手加減しすぎたか」
オーティスの低い声。
その直後だった。
「……ッ!!? オーティス!! 避けろ!!!」
空気が、裂けた。
視認するより早く、鋭い何かが僕たちの間を走り抜ける。
遅れて、金属が断たれる音が耳に届いた。
振り返ると、鉄格子が真っ二つに裂け、鈍い音を立てて床へ崩れ落ちていた。
風。
ただの風じゃない。刃として研ぎ澄まされた風。
あの執事は風属性のNovactorらしい──それも、相当な精度だ。
息も絶え絶えのはずの身体で、再び腕を振り上げる。
その動作を見た瞬間、僕は反射的にオーティスを押しのけるように前へ出た。
「危ない!!」
次の一撃が、すぐ横を掠める。
石壁が抉れ、火花と破片が弾けた。
頬にかすかな痛みが走る。
「大丈夫ですか!? 怪我は──…! 先輩、髪が……ッ!!」
「……ん?」
遅れて気づく。足元に、見慣れた色が落ちている。
膝近くまで長く伸ばしていた髪。
ルイスが「朝焼けの海のようだ」と褒めてくれて、毎晩梳かしてくれていた髪。
僕のチャームポイント。
その一房が、切断されて毛先が床に散っていた。
わずかに震える指先が、妙に現実感を伴って視界に焼き付く。
「貴様……! 僕の大事な髪を……ッ!!!!」
「……まずいな。先輩、髪はまた伸びますよ! 毛先だけじゃないですか!」
「毛先だけだと!!? 二年も一緒にいた君なら僕がこの髪をどんなに大事にしていたかわかるはずだ! そもそも大事なルイとのひと時を邪魔されたことにも、腹が立っているんだよ僕は!!」
「それは関係ないでしょ…」
その直後だった。
ズシン、と。
奥から、重低音が響く。
もう一度。ズシン、と。
「…ッ…! 先輩!!」
呼吸が遅れた。
闇の奥、鎖を引きずる音と共に、もう一体が姿を現す。
3mを優に超える巨体が、背を丸めながらも圧倒的な存在感でこちらを見据えている。
頭部の空洞、その中心でコアが不気味に脈打っていた。
さっきまでの3体とは違う。
明らかに“重い”。
「……それはコレクションのひとつです…! 傷つけさせるわけには──」
背後で執事がもう一度構えをとった気配に、片腕だけを反応させる。
「今は君の相手をする暇はないんだよ」
光の屈折。
そこに“いるように見せたまま”、一歩だけ位置をずらす。
風の刃が、残像を切り裂き、そのままギュネオスの外殻を傷つけた。
「……ッ!? どこへ!!」
その死角に滑り込む。
息を吸う音すら立てない距離まで詰めて──
手首を取った。
「はい、おしまい。大人しくしててね」
カチン、と乾いた音。
反応するより先に、金属音が鳴る。
拘束具が、バーナードの両手首を強制的に閉じた。
内部の抑制機構が起動し、Novaの流れが鈍る。
そのまま、軽く押すと、膝から崩れ落ちる身体を、壁際へと転がした。
集中はすでに背後に戻っている。
「……準備はいいかい?」
「了解です」
迷いのない声。
彼の掌が、僕の掌に重なった。
その瞬間、流れが繋がる。僕の中を巡るNovaが、彼の中へと引き込まれていく感覚。
委ねるような──信頼の証。
オーティスの拳に、金色の光が帯のように巻きついた。
空気が震え、微かに熱を帯びる。
ギュネオスが咆哮を上げ、空間が揺れた。
──来る。
オーティスが先陣を切った。
地面を蹴り、一直線に突っ込む。
全身に纏った光が、軌跡を残す。
僕は一歩引き、後方へ回った。
同時に水を生成し、刃として放つ。
軌道を読むように複数の軌跡を描くが、ギュネオスはそれを捻るように躱した。
外れた刃が壁に叩きつけられ、石壁が崩れ落ちる。
今度はギュネオスの反撃。
振りかぶった爪が大理石を割り、扉のその先まで衝撃の刃が走った。
破片が弾け、衝撃が足元から重く伝わる。
耳障りな咆哮と共に跳躍し、こちらへ向かってくる。
僕は即座に水壁を展開した。
だが──
ギュオオオオオ!!!!
破られた。
水が弾け飛び、その向こうから巨体が突き抜けてくる。
「ッ……オーティス!!」
「了解ッ!」
声と同時に、彼の姿が視界の端から消える。
気付けば、回り込んだ位置からあの硬質な腹に拳が叩き込まれた。
金色の閃光が、ギュネオスの胴体に炸裂する。
床が揺れ、破壊された壁が雪崩のように崩れ落ちた。
崩れた瓦礫が舞う。
煙と粉塵。
床が砕け、天井が軋む。
轟音。
大地が揺れ、壁が崩れ、瓦礫が雪崩のように落ちてくる。
視界が粉塵に覆われる。
「このままじゃ──住宅地まで行くぞ……ッ!」
崩壊の振動が、外へ繋がっているのが分かる。
このまま暴れさせれば、被害は広がる。
「囲い込むしかない!」
短く言葉を交わす。
僕たちは互いの動きを読むように位置を変え、攻撃の角度を調整しながら、少しずつギュネオスの進行方向をずらしていく。
逃がさない。
外へは出さない。
この中で、終わらせる。
夜の底で、僕たちは戦い続けた。
✧✧✧
──どれほど時間が経っただろうか。
ギュネオスの頭部に、水の槍が突き刺さった。
「……ふぅ…やっと終わったね……」
振り抜いた勢いで肩が上下する。
水槍の刃先がコアを貫いた瞬間、巨体は内側から崩れるようにほどけ、砂のような黒い粒子となって宙へ散った。
光を失ったそれは夜気に溶け、跡形もなく消えていく。
気が付けば屋敷の壁は抉り取られたように口を開け、冷たい外気が流れ込んでいた。
「……これは不可抗力ってことで何とかなるだろう。ギュネオスをコレクションにしてる方が悪いんだからさ」
崩壊した空間を見渡しながら呟き、振り返る。
オーティスは瓦礫に囲まれた一角に腰を下ろしていた。
かつての整然とした内装は見る影もなく、折れた柱と砕けた石材、剥がれた壁面が乱雑に散らばっている。
かつて美術館のようだったあの屋敷は、いまや見る影もない。
戦闘の中で濡れた地面が夜の闇の中で淡く光を反射させていた。
「ヒースと執事のバーナードは逮捕だろうし。問題ないさ」
そう言いながら、ふらつきそうな足を前にだし歩み寄ろうとした、そのときだった。
「オーティス?」
呼びかけると同時に、視界の奥に目を引かれる。
彼の額に滲む汗と、濡れた襟元。
そして、地面に染みた血液。
それを見た瞬間、胸に冷たいものが走った。
「……攻撃を受けたのかい? なんで言わないんだ」
「これは違うんです、先輩……拳の血で……ただ……っ」
彼の言葉が途切れる。
右手を押さえたまま、肩が不規則に震えている。
「俺、ギュネオスのエネルギーも吸収できる……らしくて」
「ギュネオスに……Novaエネルギーが?」
その言葉を理解した瞬間、背筋が冷えた。
あり得ないはずの回路が、今この場で繋がっている。
「俺も驚いてます。ただ……身体中が、痺れてて……」
即座に状況を理解した。
「こちらオーダー識別番号189S07 ニコラス。天穹街高級住宅地の通報にてヒースと執事のバーナードを拘束。邸宅内にギュネオス4体を目視、全て討伐済。負傷者は1名」
『屋内にギュネオスですか……? 了解しました! 現場に医療班とキーパーを送ります。到着まで6分です』
「まだ痺れるかい? ギュネオスが原因なら、D.R.Aに聞いたほうがいいかもしれないね」
「今度……っ…訪ねてみます」
瓦礫を支えにして立ち上がるオーティス。
その背を軽く叩いて、僕も息を整える。
「とりあえずは、任務完了だよ。叫び声の正体はギュネオス。投資家はあれを“飼って”趣味に耽ってたわけだ。広間にあった彫像は最後に倒したギュネオスがモデルだろうね」
「……彫像まであったんですか…? 悪趣味にもほどがある…ゴルフでも絵でも、もっと他にいくらでもあるだろ…」
「芸術に目がなかったんだろうね。ギュネオスは未知の存在だ。興味を持つ気持ちは、少しだけなら分からなくもない」
オーティスは訝しげに眉を寄せたが、言い返さずに右腕を支えたままだ。
「ほら、任務完了時のあれ、忘れてないだろう?」
僕はいつものように手を掲げる。
オーティスも頷き、分厚い手を掲げた。
──パンッ。
いつもどおりの合図。
そのはずだった。
だが、ぐ、と心臓を握り潰されたような痛みが走った。
「ッ……!!」
息が詰まる。血が、逆流する。
膝に力が入らなくなり、視界が歪んで地面が遠くなる。
「先輩……っ!!?」
僕の中を巡っていたはずのNovaが、勝手に向きを変え、引きずり出されていく。
「せ、先輩……? ニコラスさんっ!! なんだこれ……!!」
皮膚の下で血管が膨張する。
腕から首、こめかみにかけて、青い線が不自然に脈打ち、まるで外へ逃げようとするかのように隆起する。
ぷつりと何かが弾けた。
細い血の筋が皮膚の表面に滲み、汗と混ざって頬を伝う。
オーティスの声が、蓋をしたように籠る。
視界の端で揺れる彼の顔も、音も、全てが闇に溶けていく。
「……ッ……は……」
呼吸がうまくできない。
吸っているはずなのに、肺に何も入ってこない。
代わりに、内側の何かが体の中を削り取られていく感覚だけが鮮明だった。
「すぐ離しますから……っ! ……くそ…!!」
それでも──手だけは、離せなかった。
磁石のように繋がれた感触が残り続ける。
「せ、先輩……!? ニコラスさんっ!! 待って、違う、止めてる、止めてるんだ……ッ!!」
掌同士が張り付いたように、力を込めても引き剥がせない。
「離れろ!! 離れろ!! なんでだよ……ッ!!?」
彼の腕にも異変が出ていた。
血管が異様に膨れ上がり、皮膚の下で暴れるように蠢いている。
吸い上げたエネルギーに身体が追いついていない。
制御が崩壊している。
足元に黒い点が増えていく──自分の血だと理解するのに、数秒かかった。
皮膚のあちこちから滲み出たそれが、ぽたぽたと地面を打つ。
「くそ……離れろって言ってるだろ……!! 俺のせいで……ッ!!」
彼の滲んだ叫びが響いた。
だが、残酷にも引き抜かれる感覚が一段と強くなり、身体の芯が空洞に変わっていく。
骨の内側で喪失感が広がった。
──力が、熱が、僕のNovaが。
「オー……ティス、君……僕に何をした」
言葉は最後まで形にならなかった。
意識が、底へと沈む。
最後に見えたのは、取り乱した彼の顔と、涙で歪んだ視界の向こうで脈打つ光。
そして、鈍い衝撃とともに、世界が途切れた。
✧✧✧
目を覚ますと、見慣れない天井があった。
窓から差し込む光が、無機質な白い天井に反射している。
感覚が、空っぽだった。
あんなに満ちていた力の感覚が、最初から存在しなかったかのように──消えていた。
暖かさも、体の中を流れる感覚も、何もかもない。
──ガシャン。
点滴に繋がれた手を伸ばそうとしたが、力が入らず、ベッドから転げ落ちた。
鈍い耳鳴りの中、視界だけははっきりとしていた。
すぐに看護師が駆け寄ってきて、数人が僕の身体を支え起こす。
憐れむ視線。
オーダーになってから、こんな目で見られることなどなかった。
医師が目の前で口を動かしている。
だが、声は籠って聞こえない。
代わりにタブレットを渡された。
そこには、僕の身体の数値を記したグラフが並び、ひとつの項目を示す数値──「0」。
元々平均以上あったNovaのエネルギー保有数値が、完全に失われていた。
「……僕…は……もう、Novaを使えないんですか」
そう問う自分の声が、やけに遠く感じた。
医者は頷き、憐れむ視線を向けるばかり。
重みが、のしかかってくる。
看護師が近づいてきた。
病室の奥が騒がしい。
「……オーティ…んが……面会……に……」
ルイス?
彼の怒鳴り声が聞こえる。
何かを話している。
耳鳴りと重なって内容はわからない。
だが、確かに“オーティス”という名だけは聞き取れた。
首を振る僕に、看護師は申し訳なさそうに頭を下げ、部屋を出て行く。
僕は、窓の外を見つめたまま、Novaのない自分を静かに噛み締めていた。
✧✧✧
夜風が吹き抜ける。
舞い上がった土埃と、乾いた葉が3人の間を通り過ぎていく。
誰も動かない。
ニコラスのナイフは下ろされ、ロビンの首元に残っていた薄紅の傷だけが、その緊張の余韻を物語っていた。
ロビンの視線は彷徨い言葉を探している。
〈大きな間違いも犯した〉
「……大きな間違いって……このこと?」
オーティスは口を閉ざしたまま、目の前の男――かつての先輩を、ただ見上げていた。
過去が焼けつくように蘇った直後のせいか、頭の奥がじんじんと痺れて指先には微かな震えが残っていた。
「どうだい。もう分かっただろう。彼が僕に何をしたか。君にも関係のある話だって言うのはこういうことさ」
どこか他人行儀なその声音には、皮肉でも怒りでもない。
ただ、過ぎ去った時間への皮肉めいた薄笑いが混じっていた。
オーティスは、喉が鳴るだけで何も返せなかった。
反論なんてできる立場じゃなかった。
ニコラスが懐から取り出したのは、割れて傷つけられた赤のオーダー識別タグ。
彼はそれを、懐かしそうに眺めた。
「あの人を父親のように慕ってた。見舞いには毎日来てくれて、長話も聞かされたよ。それでもあの同情する目に耐えられなくてね、病院から抜け出したんだ」
その一言に、オーティスの胸が締めつけられる。
風が、また吹いた。
「ロビンさん、君を巻き込んでしまってごめんね。本当は"こうなる予定じゃなかった"んだ」
血の匂い、埃、鉄と錆の臭いに交じって、乾いた花のような甘さが廊下を撫でていく。
「これは“終わらせるための物語”。僕と君の、最後のページさ」
2階の崩れかけた大広間から、しなやかに身を翻し、風を切ってオーティスの視線の先へと着地した。
重みのある着地音。
足元から伝わるその圧に、周囲の空気が一瞬にして凍りつく。
拳を握り直す。
過去を、痛みを、信頼をすべて飲み込んで。
「俺は、あなたからすべてを奪った」
空気が揺れる。
かつて交わした“あの合図”はない。
「──だから、償うために、ここに来ました」
手を合わせることもない。
だが、確かにこの場で、何かが再び繋がった。
この夜の終わりに待つのは、救いか、さらなる痛みか――
「あなたにすべてを返すために」




