第42話:幕開け
「こうやって君と話すのは、いつぶりだろう」
ニコラスはロビンの背後に立ったまま、首筋に当てたナイフをほんのわずかに動かした。
「……っ」
刃先が皮膚を撫でるたび、冷たい金属の感触が月明かりの下で鈍く光る。
割れた壁の向こうから夜風が吹き込み、崩れた天井の梁に引っかかって低く唸った。
砕けたガラス片が床でかすかに擦れ合い、乾いた音を立てる。
ニコラスはその音を聞きながら、ゆっくりと顔を上げた。
視線はオーティスへ落とされる。
月光が差し込む瓦礫の隙間で、彼の瞳が静かに揺れていた。
その奥にあるのは、押し殺しきれない怒りだった。
「どうして消えたんですか。どうして何も言わずに──」
「誰のせいでこうなったと思ってる」
低く押し殺す声。
空気が重く沈み、時間が張り詰める。
オーティスは瓦礫の向こうに立ったまま動かなかった。
いや、動けなかった。
肩幅の広い体が、まるで石像のように固まっている。
握り締めた拳だけがわずかに震えていた。
手の甲の露出したグローブの下で血管が浮き上がり、力の入りすぎた指先が白くなっている。
群青色と金色のオッドアイが、まっすぐニコラスを見据えていた。
唇の端が引き攣り、何かを飲み込むように喉が動く。
しばらく沈黙が続き、低く息を吐いた。
「──俺のせいです」
ニコラスは一瞬だけ瞬きをして、唇が薄く弧を描きながらゆっくりと笑った。
だがその笑みは、かつて作戦部で見せていた穏やかなものとはまるで違った。
どこか壊れている。
どこか痛んでいる。
それでも、悔いているようには見えない。
しばらくして、首の傷に顔を歪めながらロビンが口を開いた。
「アタシは…関係ない」
「……ロビンを離してください。これは俺とあなたの問題です」
喉元に残った浅い傷がじくりと痛む
血の匂いと生暖かさが冷たさに変わる温度で、襟が赤く染まっていくのが感覚で分かる。
ニコラスはその声を聞いて、ふっと息を吐いた。
ナイフの刃が首筋から離れる。
冷たい感触が消えるとロビンの肩を掴んでいた手も緩み、そのまま腕から離れた。
彼女はゆっくりとうつ伏せの状態から身を起こし、息を整えるように瓦礫を背に座り直す。
「関係あるさ」
彼はナイフがくるりと指の中で回すと、刃先を下に向けて言った。
「彼のバディならね」
その言葉が落ちた瞬間、夜風がまた吹き抜けた。
崩れた壁の穴から土埃が舞い込み、乾いた葉が三人の間を横切っていく。
ニコラスはその舞い上がる埃の向こうで、口角を上げる。
「さて」
ナイフの切っ先が床を軽く叩く。
かつん、と乾いた音が廃墟と化した屋敷に響いた。
「君にも説明してあげようか」
「少しの間、茶番劇を楽しんでくれ」
✧✧✧
「──新人は原則、最低半年間は赤タグのオーダーとバディを組んでもらう。研修期間のようなものだ。青タグになれば一人での活動も許可する」
新人たちは整列したまま、緊張した面持ちで前を見ていた。
歓迎ムードな軽いざわめきがまだ残る中、新人から滲み出る緊張でオーダーたちもうつったように張り詰め始める。
床に反射する照明が、磨かれた装甲ブーツに細く伸びて、靴先の汚れの有無がさらに初々しさを強調させた。
「現場で生き残る術は、現場でしか覚えられない」
腕を組んだままゆっくり視線を巡らせる。
「そのための制度だ」
カルロス長官の声が作戦部の空気を引き締める。
視線が新人の列を横切り、やがて止まった。
あの柔らい口角はもう消えて、今は凛とした本来の顔に戻っていた。
「ただし、Novaの性質上、一人での活動が難しい者に関しては、半年ごとのカウンセリングを行った上で、バディとしての活動を継続する場合がある。……覚えておけ」
新人たちが小さく頷き、あちこちで視線を交わし始める。
カルロスが用意していたタブレットには、それぞれのNovaの概要、特性、適正などがずらりと並んでいるようだった。
「では、組み合わせを発表していく」
名前が次々と呼び上げられ、それに応じて赤タグの先輩と新人がひとり、またひとりとペアになっていく。
初対面のぎこちなさを笑いに変えたり、お互いの出身地の話題で盛り上がったりと、空気は徐々に和らいでいく。
「アミル。お前はダニエルと組め」
「な……っ!!?」
思わず口を開いたのはダニエル。
彼は自分の大きな声にハッとすると、片手で口をふさいだ。
ざわ、と空気が揺れる。
ダニエルの眉が歪み、固定された。
「え! 俺、青タグですよ? 俺だってまだ去年入ったばっかなのに!」
「例外は認める。ダニエルの氷結とアミル、お前のNovaは相性がいいと思ってな」
「えー…それならニコラスさんのほうが良くない? 氷と水なんて最高な組み合わせじゃん」
その言葉にダニエルは眉を緩める。
どこか誇らしげに。
「決定事項だ。期待している」
次々と名前が呼ばれ、バディが組まされている中で、僕だけが取り残されたままだった。
「ニコラス、お前は──オーティスと組め」
その瞬間、フロアの空気がわずかに揺らぎ、思わず長官を見た。
あの人はほんの少し、微笑んでいる。
そこに立っているのは、さっき紹介されたばかりの新人だった。
オーティスくん…変わった名前だ。
鋭いオッドアイがこちらを向いている。
警戒……というより、純粋で期待の混じった興味の色だ。
近くで見ると、さらに大きい。
大きな壁に見つめられているような、そんな錯覚を覚える。
「彼のNovaは"吸収"だ」
Novaは遺伝することが多くあるが、完全にランダムな場合もあり、その概要はパターン化できない。
そして、年々新しい能力が発見されることもあるらしい。
その理由は両親のNovaの複合か、または強化。
明らかではない。
この新人のNovaも聞いたこともないが、そういうものなんだろう。
「"対象"に触れることでエネルギーを取り込み、変換することで身体強化に転じる。訓練生時代は制御が難しく『媒体』を通して安定していたと聞いている」
「媒体…ですか?」
「結晶だ。彼は結晶を通じてエネルギーを吸収することができる。きわめて特異と言っていいが、Novaを行使するには"必要不可欠"ということだ」
なるほど。
Novaエネルギーが活動に必須なら単独行動に向かない。
そこで僕の出番という事か。
「お前にしか、この新人は任せられない」
試すようでもあり、託すようでもある。
その意味を、僕は理解した。
僕は新人の教育なんてしたことがない。
教官じゃないし、面倒だと思ったのも事実だ。
──でも。
この人の頼みなら、断る理由は見つからない。
「もう、長官はいつも僕に押し付けるんですから……仕方ないですね。任されました」
「頼んだぞ」
カルロス長官は満足げに頷き、僕の背を軽く叩くと、フロアを背にして歩き去っていった。
長官のコートの裾がゆっくり揺れ、フロアの照明を受けて影が長く伸びた。
緊張が解ける。
途端に後輩たちがざわめき始めた。
「マジで?」
「あのニコラス先輩と新人!?」
「意外な組み合わせだな…」
そんな声が小さく飛び交う。
その中で、彼はまっすぐ僕の前まで歩いてきた。
床を踏むたび、重いブーツの音が響く。
「よろしくお願いします! 先輩!」
フロアの端まで響いた。
近くにいたアミルが思わず肩を跳ねさせる。
僕はその様子を見て、ふっと笑った。
青い髪が照明に淡く光る。
「元気だね。声まで大きいなあ、君」
そう言いながら、手を差し出した。
オーティスは一瞬だけ驚いた顔をして、それから慌ててその手を握る。
無遠慮に掴まれた右手がぶんぶんと上下することに、思わず苦笑いが漏れた。
新人とは思えないほど硬い掌。
継続する努力の滲む分厚い皮膚。
僕はその手の感触を確かめながら、ゆっくり言った。
「じゃあ半年間、僕の背中をちゃんと見ててよ」
口元にいつもの穏やかな笑みが浮かぶ。
「オーダーの象徴を、教えてあげるから」
その言葉に、彼の目が少しだけ輝いた。
まるで子どもみたいに。
その表情を見て、新人だったころを思い出し、少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。
まだこの時の僕は知らなかったんだ。
この“出会い”が、自分の人生を決定的に変えることになることを。




