第40話:選ばれた日
あの頃の僕は、ただの警備員見習いだった。
ONXY運輸の正門横にある警備詰所は、夏になれば蒸し風呂みたいに熱く、冬になれば金属の壁が冷え切って指先の感覚を奪っていく。
僕はその中で、ぼんやりとゲートを見張る仕事をしていた。
制服はすぐに油で黒ずみ、手袋は何度洗っても汚れが落ちなかった。
出入りするのは大抵、無愛想なトラック運転手か、配送ドローンの売り込みに来たエリートのサラリーマンたち。
運転手は急いでゲートをくぐり、サラリーマンは書類に目を落としたまま足早に通り過ぎる。
誰かと深く言葉を交わすこともなく、時間だけが静かに過ぎていった。
昼の光が地面を白く焼き、夕方になると遠くの倉庫の屋根が赤く染まる。
ただ同じ場所から眺めているだけの日々。
そんな中で、唯一気が紛れる瞬間があった。
それは、Novaだ。
喉を枯らして帰ってくる運転手に、紙コップに入れた水を差し出す。
指先から零れ落ちた透明な粒は、空気の中で形を保ったまま丸い膜になり、掌の上に静かに浮かぶ。
夏場にはそれを何度も作っては渡した。
「助かるよ、兄ちゃん」
と笑う人もいれば、礼など言わず一気に飲み干して去っていく人もいた。
雨の日には、積み荷が濡れないように水の膜を広げて簡単な屋根を作った。
ほんの数秒の仕事だ。
それでも、荷台の中の箱が濡れずに済んだとき、運転手が肩を叩いてくれる。
その感触が妙に嬉しかった。
自分の力が誰かの役に立っている。
たったそれだけのことなのに、その感覚が胸の奥を温かく満たした。
僕には、それで十分だったんだ。
成人してすぐの頃、運転免許を取った。
詰所の窓からトラックを眺めるだけの仕事は、どうにも性に合わなかったからだ。
会社に頼み込んで、ドライバーの空きが出たときに滑り込んだ。
最初の頃はハンドルを握るだけで緊張して、ミラーばかり見ていたのを覚えている。
それでも、3か月も経つ頃には、荷を積んで各地を回る生活にも慣れ始めていた。
目的地の中には、オーダー機関もあった。
巨大なゲートの向こう側でオーダーたちが行き来するのを、トラックの窓越しに眺めたことが何度もある。
彼らはいつも忙しそうで、どこか遠い世界の人間に見えた。
僕とは関係のない場所。
そう思っていた。
──あの日は、やけに暑かった。
荷物を届け終え、エンジンの熱気が残るトラックに戻ろうとしていたときだった。
正門の向こう側から、ふらつく足取りの人影が見えた。
最初は誰かの訓練帰りかと思った。
でも、近づくにつれて様子がおかしいと気づいた。
肩から血を流している。
ユニフォームの布地は焦げて黒く焼け、腕の一部は裂けていた。
任務を終えたばかりのオーダーだ。
気づいたときには走っていた。
彼女が地面に崩れ落ちるよりも早く、腕を伸ばす。
指先に意識を集中させると、空気が震えた。
透明な膜が柔らかいクッションのように彼女の身体を包み込み、その重さをゆっくりと支える。
地面に衝突する前に、柔らかく降ろすことができた。
肩の傷口からはまだ血が滲んでいる。
水の膜を薄く広げ、圧をかけて止血する。
水は柔らかいが、形を保てば意外なほど強い。
流れ出る赤を押さえ込むように、慎重に膜を固定した。
呼吸は浅く、額は熱い。
もう一度水を呼び寄せて、彼女の額と首元を冷やした。
透明な雫が皮膚を伝って落ちていく。
しばらくすると、青白かった顔色にわずかに赤みが戻った。
胸が上下し、苦しそうだった呼吸が少しだけ落ち着く。
僕はその変化を見て、ようやく息を吐いた。
「……見事だ」
背後から声がした。
振り返ると、一人の男が立っていた。
壮年の男だ。
背筋は真っ直ぐで、肩章が光っている。
いつの間にそこにいたのか分からなかった。
「そのNovaは独学か?」
「あ……えっと…」
僕は答えに詰まった。
ただ、できることをしただけだったからだ。
男は数秒ほど僕の顔を見つめ、それから倒れている女性に視線を落とした。
「応急処置としては十分だ。彼女は助かる」
そう言って、優し気に口元を緩めた。
オーダー機関中央区本部長官 カルロス。
あとになって知った。
会社の食堂にある小さなモニターで彼を見た事は何度かあった。
でも、テレビで見た人が目の前にいるなんて、気付けるはずもなかった。
あの頃の僕には別の世界の人だったから。
翌日、カルロス長官はONXY運輸の事務所にやって来た。
彼はまるで前から決めていたみたいに言った。
「君には才能がある。オーダー機関は君を歓迎する」
「え、えっと…嬉しいです! もちろん嬉しいんですけど、あまりに唐突すぎて……」
「金のことは心配するな。君に必要なのは、未来だけだ。きっと、面白いことが見つかる」
話は驚くほどトントン拍子に進んだ。
僕は会社を辞め、気づけばオーダー訓練校の門をくぐっていた。
あの油と鉄の匂いに満ちた詰所から、まったく別の世界へ。
振り返る暇もないほど、すべてが一気に動き始めていた。
✧✧✧
夜の道路を、ヘッドライトの光が細く切り裂いていく。
ハンドルを握る手に、わずかな振動が伝わっていた。
エンジン音は低く、抑えられた唸りを続けている。
オーティスは前だけを見ていた。
──フロントガラスには、ネクサリスの浮遊島が映り込む。
闇に浮かぶ樹々は、淡い灯りを帯びながらゆっくりと流れ、さらにその向こうでは星々が瞬いていた。
冷たい夜の空気が半分下ろした窓の隙間から入り込み、額に滲んだ汗をなぞってゆく。
その感触がやけに鮮明だった。
まるで、長い夢から覚めたあとの空気みたいに。
住宅地に入ると、道幅は急に狭くなる。
整備された高級住宅街だ。
そこから、奥へ奥へと進んでいくと並木道が伸びる。
整然と並ぶ街路樹は、手入れもされず枝を伸ばし放題。
枯れた葉がアスファルトを覆い、タイヤがその上を踏み潰すたび乾いた音を立てる。
美しかったはずの並木道が影を落とし、夜の闇に飲み込まれていた。
人の気配はない。
灯りも、遠くの家にいくつか見えるだけだ。
速度を落とさないまま、曲がりくねった細道を抜けていく。
そして視界の先に、ひときわ目立つ門が現れた。
装飾の施された鉄製の門扉。
かつては豪奢だった。
だが今は錆びつき、金属はところどころ歪み、片側はぐにゃりと傾いている。
両端に据えられた女型の石像は、どちらも首から上を失っていた。
悪戯で誰かが壊したのか、あるいは手入れを怠ったことで崩れ落ちたのか。
夜の闇の中で、その姿は奇妙なほど不気味だった。
門の向こうには、立ち入り禁止を示すホログラムテープがいくつも貼られている。
光は摩耗して、ところどころ途切れていた。
忘れられた警告のように、頼りなく揺れている。
誰も住まなくなったこの場所は、もうただの廃墟と言える。
フェンスごと車体が突っ込む。
金属の歪む音が夜に響き、ホログラムテープがばらばらに散った。
車は敷地内へ滑り込み、噴水広場の中央近くでようやく止まった。
エンジンを切ると、急に静寂が落ちる。
水の供給を絶たれた噴水は、完全に干上がっていた。
縁の石はひび割れ、底には砂埃が溜まり、枯れ葉が積もっている。
広場のあちこちにガラス片が散らばり、ヘッドライトの残光を反射して鈍く光った。
しばらく、運転席で黙ったまま動かない。
ハンドルを握り込んだままなのは、無意識な力が硬直して剥がせなかったからだ。
ここへ来るのは、2年ぶりか。
あのときとは景色が違う。
いや、違うのは景色だけじゃない。
胸の奥に沈んでいるものが、静かに形を変えていた。
喉がわずかに震える。
息を吐き出すと、胸の奥に重く溜まっていた空気が抜けた。
ようやく、その時が来たのだと理解する。
向き合うべき時が。
俺はゆっくりとシートベルトを外した。
金具の乾いた音が小さく鳴る。
腰に巻いていたサイドポーチに手を伸ばし、留め具を外した。
中には、結晶がいくつも収められているが、それを見下ろし、ほんの一瞬だけ視線を止めた。
それから、助手席へ置く。
ポーチはそのまま座席に残された。
靴底が地面に触れると、乾いた葉が砕ける音がする。
車から降り、ゆっくりと顔を上げた。
廃墟のように沈黙する別荘が、夜の奥に立っている。
そこにいる。
そう分かっていた。
だから、もう振り返らなかった。
✧✧✧
訓練校の門をくぐった日、匂いがまるで違うことに気づいた。
油と鉄に満ちた倉庫の空気ではなく、乾いた風と金属の匂いが混ざったような、だけど和やかな空気だった。
広い訓練場の上では白い雲が流れ、遠くで爆ぜる音が断続的に響いている。
僕はその音を聞きながら、妙に静かな気持ちで立っていた。
自分が本当にここに来てしまったのか、まだ実感がなかったのだと思う。
カルロス長官の援助がなければ、ここに立つことはなかった。
入学の手続きも、装備の準備も、気づけばすべて整えられていた。
あまりにも物事が早く進んだせいで、振り返る暇もなかっただけなんだけど。
ただ、ここから先は自分で進まなければならないと分かっていた。
入学してから、僕のNovaはみるみる上達していった。
最初は掌の上に水の球を作り、広げるだけで精一杯だったのに、気づけば空中に複数の水膜を展開できるようになっていた。
形を変え、流れを操り、薄く広げる。
時には盾に。時には刃物に。
指先の感覚が研ぎ澄まされていくのが分かった。
教官たちは何度か僕を呼び止め、Novaの記録を取り直した。
「水の操作だけじゃないな!」
「生成Ⅲ型か…」
やがて、それが珍しいことだと知らされた。
──Dual。
ごく稀に、Novaが2つ発現するNovactorが現れるらしい。
発現の条件は明らかでない。
出身地も、性別も、遺伝かどうか、きっかけも、すべてがばらばらだという。
僕の場合は、水の操作Ⅰ型と生成Ⅲ型。
その両方を同時に扱うことができる。
13歳のときにNovaが発現してから、髪色が水色に変わった理由も、その頃になってようやく説明された。
Novaエネルギーの保有量が人より多く、身体が影響を受けやすい体質なのだという。
自分では、ただ昔からこうだっただけだと思っていた。
鏡を見るたび、淡い水色の髪が揺れる。
それを不思議に思うことも、もうなかった。
けれど教官たちは違った。
訓練場でNovaを行使するたび、周囲の視線が集まる。
驚きや期待や、時には警戒も混ざった視線だった。
それでも僕は気にしなかった。
ただ、自分にできることをやるだけだったからだ。
最初こそ周囲に馴染めず居心地の悪さを感じていたが、成績を上げるごとに周囲の目は変わった。
頼られることも、称賛されることも増えていった。
その頃だ。
帽子の中に隠していた髪は、結んで小さくまとめることをやめて長く伸ばし、いつしか誇りに変わっていた。
やがて訓練校を卒業する日が来た。
空はよく晴れていて、任命式の会場には多くの人が集まっていた。
制服の襟元が少し窮屈で、僕は何度か指先で整えたのを覚えている。
壇上から名前を呼ばれ、一歩前に出る。
視線が一斉にこちらへ向く。
その中に、カルロス長官の姿もあった。
式が終わったあと、彼は僕を呼び止めた。
掌の上には、細い金属のバングルが乗っていた。
シンプルな装飾の、銀色の輪だった。
「任命式祝いだ」
それだけ言って、彼は少し照れたように微笑んでくれた。
金属はひんやりしていて、思ったよりも軽い。
「ありがとうございます…! すごく…すごく嬉しいです」
「君の配属は中央区だ。よくここまで期待に応えてくれた、ニコラス」
短い言葉だったが、その声には確かな誇らしさが混じっていた。
任命式の壇上に立つ僕を見つめるカルロス長官の目は、どこか柔らかかった。
まるで、親が子供の成長を見守るみたいに。
目尻には薄い皺が刻まれていて、その奥にわずかな光が滲んでいたのには気づかないふりをした。
僕はその視線を、少しだけくすぐったく感じていたんだ。
それからの僕は、まさに順風満帆。
中央区のオーダーとして配属され、現場に出る日々が始まった。
水害の現場では濁流を押さえ込み、瓦礫に閉じ込められた人を救い出す。
怪我人には水膜を使って止血を施し、熱を持った体を冷やした。
助けられた人々のその顔を見ると、胸の奥が静かに熱くなる。
“救える力”がある。
その事実が、僕を突き動かしていた。
誰かを助けられるなら、それだけでいい。
あの油まみれの詰所で感じていた小さな喜びが、今はもっと大きな形になって目の前にある。
だから、疑うことなんてなかった。
僕はずっと、このまま進んでいくと、そう思っていたんだ。




