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AionioS  作者: 無日
第五章:水鏡の記憶

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第40話:選ばれた日

 あの頃の僕は、ただの警備員見習いだった。


 ONXY(オニキス)運輸の正門横にある警備詰所は、夏になれば蒸し風呂みたいに熱く、冬になれば金属の壁が冷え切って指先の感覚を奪っていく。

 僕はその中で、ぼんやりとゲートを見張る仕事をしていた。


 制服はすぐに油で黒ずみ、手袋は何度洗っても汚れが落ちなかった。

 出入りするのは大抵、無愛想なトラック運転手か、配送ドローンの売り込みに来たエリートのサラリーマンたち。

 運転手は急いでゲートをくぐり、サラリーマンは書類に目を落としたまま足早に通り過ぎる。


 誰かと深く言葉を交わすこともなく、時間だけが静かに過ぎていった。

 昼の光が地面を白く焼き、夕方になると遠くの倉庫の屋根が赤く染まる。


 ただ同じ場所から眺めているだけの日々。

 そんな中で、唯一気が紛れる瞬間があった。


 それは、Nova(ノヴァ)だ。


 喉を枯らして帰ってくる運転手に、紙コップに入れた水を差し出す。


 指先から零れ落ちた透明な粒は、空気の中で形を保ったまま丸い膜になり、掌の上に静かに浮かぶ。

 夏場にはそれを何度も作っては渡した。


「助かるよ、兄ちゃん」


 と笑う人もいれば、礼など言わず一気に飲み干して去っていく人もいた。


 雨の日には、積み荷が濡れないように水の膜を広げて簡単な屋根を作った。

 ほんの数秒の仕事だ。


 それでも、荷台の中の箱が濡れずに済んだとき、運転手が肩を叩いてくれる。


 その感触が妙に嬉しかった。


 自分の力が誰かの役に立っている。

 たったそれだけのことなのに、その感覚が胸の奥を温かく満たした。


 僕には、それで十分だったんだ。


 成人してすぐの頃、運転免許を取った。

 詰所の窓からトラックを眺めるだけの仕事は、どうにも性に合わなかったからだ。


 会社に頼み込んで、ドライバーの空きが出たときに滑り込んだ。


 最初の頃はハンドルを握るだけで緊張して、ミラーばかり見ていたのを覚えている。

 それでも、3か月も経つ頃には、荷を積んで各地を回る生活にも慣れ始めていた。


 目的地の中には、オーダー機関もあった。


 巨大なゲートの向こう側でオーダーたちが行き来するのを、トラックの窓越しに眺めたことが何度もある。

 彼らはいつも忙しそうで、どこか遠い世界の人間に見えた。


 僕とは関係のない場所。


 そう思っていた。


 ──あの日は、やけに暑かった。


 荷物を届け終え、エンジンの熱気が残るトラックに戻ろうとしていたときだった。


 正門の向こう側から、ふらつく足取りの人影が見えた。


 最初は誰かの訓練帰りかと思った。

 でも、近づくにつれて様子がおかしいと気づいた。


 肩から血を流している。


 ユニフォームの布地は焦げて黒く焼け、腕の一部は裂けていた。

 任務を終えたばかりのオーダーだ。


 気づいたときには走っていた。


 彼女が地面に崩れ落ちるよりも早く、腕を伸ばす。

 指先に意識を集中させると、空気が震えた。

 透明な膜が柔らかいクッションのように彼女の身体を包み込み、その重さをゆっくりと支える。


 地面に衝突する前に、柔らかく降ろすことができた。


 肩の傷口からはまだ血が滲んでいる。

 水の膜を薄く広げ、圧をかけて止血する。

 水は柔らかいが、形を保てば意外なほど強い。


 流れ出る赤を押さえ込むように、慎重に膜を固定した。


 呼吸は浅く、額は熱い。


 もう一度水を呼び寄せて、彼女の額と首元を冷やした。

 透明な雫が皮膚を伝って落ちていく。


 しばらくすると、青白かった顔色にわずかに赤みが戻った。

 胸が上下し、苦しそうだった呼吸が少しだけ落ち着く。


 僕はその変化を見て、ようやく息を吐いた。


「……見事だ」


 背後から声がした。

 振り返ると、一人の男が立っていた。


 壮年の男だ。


 背筋は真っ直ぐで、肩章が光っている。

 いつの間にそこにいたのか分からなかった。


「そのNovaは独学か?」


「あ……えっと…」


 僕は答えに詰まった。


 ただ、できることをしただけだったからだ。

 男は数秒ほど僕の顔を見つめ、それから倒れている女性に視線を落とした。


「応急処置としては十分だ。彼女は助かる」


 そう言って、優し気に口元を緩めた。


 オーダー機関中央区本部長官 カルロス。


 あとになって知った。


 会社の食堂にある小さなモニターで彼を見た事は何度かあった。

 でも、テレビで見た人が目の前にいるなんて、気付けるはずもなかった。

 あの頃の僕には別の世界の人だったから。


 翌日、カルロス長官はONXY運輸の事務所にやって来た。

 彼はまるで前から決めていたみたいに言った。


「君には才能がある。オーダー機関は君を歓迎する」


「え、えっと…嬉しいです! もちろん嬉しいんですけど、あまりに唐突すぎて……」


「金のことは心配するな。君に必要なのは、未来だけだ。きっと、面白いことが見つかる」


 話は驚くほどトントン拍子に進んだ。

 僕は会社を辞め、気づけばオーダー訓練校の門をくぐっていた。


 あの油と鉄の匂いに満ちた詰所から、まったく別の世界へ。

振り返る暇もないほど、すべてが一気に動き始めていた。



✧✧✧



 夜の道路を、ヘッドライトの光が細く切り裂いていく。


 ハンドルを握る手に、わずかな振動が伝わっていた。

 エンジン音は低く、抑えられた唸りを続けている。


 オーティスは前だけを見ていた。


 ──フロントガラスには、ネクサリスの浮遊島が映り込む。

 闇に浮かぶ樹々は、淡い灯りを帯びながらゆっくりと流れ、さらにその向こうでは星々が瞬いていた。


 冷たい夜の空気が半分下ろした窓の隙間から入り込み、額に滲んだ汗をなぞってゆく。

 その感触がやけに鮮明だった。


 まるで、長い夢から覚めたあとの空気みたいに。


 住宅地に入ると、道幅は急に狭くなる。

 整備された高級住宅街だ。


 そこから、奥へ奥へと進んでいくと並木道が伸びる。

 整然と並ぶ街路樹は、手入れもされず枝を伸ばし放題。

 枯れた葉がアスファルトを覆い、タイヤがその上を踏み潰すたび乾いた音を立てる。


 美しかったはずの並木道が影を落とし、夜の闇に飲み込まれていた。


 人の気配はない。


 灯りも、遠くの家にいくつか見えるだけだ。


 速度を落とさないまま、曲がりくねった細道を抜けていく。

 そして視界の先に、ひときわ目立つ門が現れた。


 装飾の施された鉄製の門扉。


 かつては豪奢だった。


 だが今は錆びつき、金属はところどころ歪み、片側はぐにゃりと傾いている。

 両端に据えられた女型の石像は、どちらも首から上を失っていた。


 悪戯で誰かが壊したのか、あるいは手入れを怠ったことで崩れ落ちたのか。


 夜の闇の中で、その姿は奇妙なほど不気味だった。


 門の向こうには、立ち入り禁止を示すホログラムテープがいくつも貼られている。

 光は摩耗して、ところどころ途切れていた。

 忘れられた警告のように、頼りなく揺れている。


 誰も住まなくなったこの場所は、もうただの廃墟と言える。


 フェンスごと車体が突っ込む。


 金属の歪む音が夜に響き、ホログラムテープがばらばらに散った。


 車は敷地内へ滑り込み、噴水広場の中央近くでようやく止まった。

 エンジンを切ると、急に静寂が落ちる。


 水の供給を絶たれた噴水は、完全に干上がっていた。


 縁の石はひび割れ、底には砂埃が溜まり、枯れ葉が積もっている。

 広場のあちこちにガラス片が散らばり、ヘッドライトの残光を反射して鈍く光った。


 しばらく、運転席で黙ったまま動かない。


 ハンドルを握り込んだままなのは、無意識な力が硬直して剥がせなかったからだ。


 ここへ来るのは、2年ぶりか。


 あのときとは景色が違う。

 いや、違うのは景色だけじゃない。


 胸の奥に沈んでいるものが、静かに形を変えていた。


 喉がわずかに震える。


 息を吐き出すと、胸の奥に重く溜まっていた空気が抜けた。

 ようやく、その時が来たのだと理解する。


 向き合うべき時が。


 俺はゆっくりとシートベルトを外した。

 金具の乾いた音が小さく鳴る。


 腰に巻いていたサイドポーチに手を伸ばし、留め具を外した。

 中には、結晶がいくつも収められているが、それを見下ろし、ほんの一瞬だけ視線を止めた。

 それから、助手席へ置く。


 ポーチはそのまま座席に残された。


 靴底が地面に触れると、乾いた葉が砕ける音がする。

 車から降り、ゆっくりと顔を上げた。


 廃墟のように沈黙する別荘が、夜の奥に立っている。


 そこにいる。


 そう分かっていた。

 だから、もう振り返らなかった。



✧✧✧



 訓練校の門をくぐった日、匂いがまるで違うことに気づいた。


 油と鉄に満ちた倉庫の空気ではなく、乾いた風と金属の匂いが混ざったような、だけど和やかな空気だった。

 広い訓練場の上では白い雲が流れ、遠くで爆ぜる音が断続的に響いている。


 僕はその音を聞きながら、妙に静かな気持ちで立っていた。


 自分が本当にここに来てしまったのか、まだ実感がなかったのだと思う。

 カルロス長官の援助がなければ、ここに立つことはなかった。


 入学の手続きも、装備の準備も、気づけばすべて整えられていた。

 あまりにも物事が早く進んだせいで、振り返る暇もなかっただけなんだけど。


 ただ、ここから先は自分で進まなければならないと分かっていた。


 入学してから、僕のNovaはみるみる上達していった。


 最初は掌の上に水の球を作り、広げるだけで精一杯だったのに、気づけば空中に複数の水膜を展開できるようになっていた。

 形を変え、流れを操り、薄く広げる。


 時には盾に。時には刃物に。


 指先の感覚が研ぎ澄まされていくのが分かった。

 教官たちは何度か僕を呼び止め、Novaの記録を取り直した。


「水の操作だけじゃないな!」


「生成Ⅲ型か…」


 やがて、それが珍しいことだと知らされた。


 ──Dual。


 ごく稀に、Novaが2つ発現するNovactorが現れるらしい。

 発現の条件は明らかでない。

 出身地も、性別も、遺伝かどうか、きっかけも、すべてがばらばらだという。


 僕の場合は、水の操作Ⅰ型と生成Ⅲ型。


 その両方を同時に扱うことができる。

 13歳のときにNovaが発現してから、髪色が水色に変わった理由も、その頃になってようやく説明された。

 Novaエネルギーの保有量が人より多く、身体が影響を受けやすい体質なのだという。


 自分では、ただ昔からこうだっただけだと思っていた。


 鏡を見るたび、淡い水色の髪が揺れる。


 それを不思議に思うことも、もうなかった。

 けれど教官たちは違った。


 訓練場でNovaを行使するたび、周囲の視線が集まる。

 驚きや期待や、時には警戒も混ざった視線だった。


 それでも僕は気にしなかった。


 ただ、自分にできることをやるだけだったからだ。


 最初こそ周囲に馴染めず居心地の悪さを感じていたが、成績を上げるごとに周囲の目は変わった。

 頼られることも、称賛されることも増えていった。


 その頃だ。


 帽子の中に隠していた髪は、結んで小さくまとめることをやめて長く伸ばし、いつしか誇りに変わっていた。


 やがて訓練校を卒業する日が来た。


 空はよく晴れていて、任命式の会場には多くの人が集まっていた。

 制服の襟元が少し窮屈で、僕は何度か指先で整えたのを覚えている。


 壇上から名前を呼ばれ、一歩前に出る。


 視線が一斉にこちらへ向く。

 その中に、カルロス長官の姿もあった。


 式が終わったあと、彼は僕を呼び止めた。

 掌の上には、細い金属のバングルが乗っていた。


 シンプルな装飾の、銀色の輪だった。


「任命式祝いだ」


 それだけ言って、彼は少し照れたように微笑んでくれた。

 金属はひんやりしていて、思ったよりも軽い。


「ありがとうございます…! すごく…すごく嬉しいです」


「君の配属は中央区だ。よくここまで期待に応えてくれた、ニコラス」


 短い言葉だったが、その声には確かな誇らしさが混じっていた。


 任命式の壇上に立つ僕を見つめるカルロス長官の目は、どこか柔らかかった。

 まるで、親が子供の成長を見守るみたいに。

 目尻には薄い皺が刻まれていて、その奥にわずかな光が滲んでいたのには気づかないふりをした。


 僕はその視線を、少しだけくすぐったく感じていたんだ。


 それからの僕は、まさに順風満帆。


 中央区のオーダーとして配属され、現場に出る日々が始まった。


 水害の現場では濁流を押さえ込み、瓦礫に閉じ込められた人を救い出す。

 怪我人には水膜を使って止血を施し、熱を持った体を冷やした。


 助けられた人々のその顔を見ると、胸の奥が静かに熱くなる。


 “救える力”がある。


 その事実が、僕を突き動かしていた。


 誰かを助けられるなら、それだけでいい。

 あの油まみれの詰所で感じていた小さな喜びが、今はもっと大きな形になって目の前にある。


 だから、疑うことなんてなかった。


 僕はずっと、このまま進んでいくと、そう思っていたんだ。

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