表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AionioS  作者: 無日
第五章:水鏡の記憶

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/47

第39話:避けられない過去

「……まずいな」


 壁一面に並ぶモニターが鈍い青光を放っている。

 その光が床に散らばったケーブルや端末の縁を冷たく照らしていた。


 オーティスは腕を組んだまま、無言で映像を見つめていた。


 もし——本当にそうなら。


 胸の奥で、圧迫感が広がった。


 市民を守るはずのオーダーが、市民を襲う。


 それも連れ去ったのはVoid出身のオーダー。

 計画的な犯行。

 これは単なる犯行ではない。


 秩序そのものの破綻だ。


 オーダー機関は都市の治安を支える柱。

 訓練生の過程で、厳しい選抜と教育を経て秩序を守る側に立つ存在。

 その看板が傷つけば、被害は一件の事件では終わらない。


 1つの疑念は連鎖して、やがて塊となる。


「オーダーって安全なの?」

「好き勝手してるだけじゃないの?」


 そんな声が市民の間に広がれば、組織の信用は簡単に崩れる。


 今回の事件は、その引き金になりかねない。

 歯の奥で小さく唸った。


 ついさっきまで同じ車に乗っていた。

 その新入りが今、どこかで拘束されている。


 しかも相手は、オーダーかもしれない。


「冗談じゃない」


 オぺレータールームの外から、あの運転手の声が聞こえる。


「散々な目にあったぜ……」


「ご苦労さん、まぁ運が悪かったな!」


 運転手に映像を見せたところ、助手席に乗っていた新入りで間違いないらしい。

 顔は帽子で隠れて見えないが、ここの男たちは皆がっしりした体格の人が多いらしく、新入りはその中でも浮いていたからだそうだ。


 さらに分かったことは、ONXY運輸の元職員だという事。

 ただ、何年前の事なのかは分からない。


 履歴書も確認してみたが、内容はすべてデタラメだった。

 名前も経歴も何もかも。

 すべてが嘘で塗り固められている。


 運送業は人手不足で入れ替わりが多く、一人一人調査をする暇はないんだ。


 そう思考を巡らせる中で、オーティス以上に混乱し、青ざめている者がいた。


「まいった…管理体制に警備体制…クビか…?左遷か…?」


 この件は企業の信用問題にも関わる。

 採用担当は脂汗を掻き、現場責任者はこの件の収束に追われている。


 もし犯人がオーダーなら。


 調べれば候補は出てくるかもしれない。

 端末を操作し、オーダーの所属データを呼び出した。


 中央区所属期別一覧。


 だがすぐに眉をひそめる。


「……いない」


 191期生のオーダーは不在。


 190期生以上のオーダー達もほとんどが現場に出ている。

 休暇をとっているオーダー達も体格と一致しない。


 そうなると、中央区以外の可能性が出てくる。


 北区、西区、東区、南区。


 その全てのオーダーを洗うことになる。

 膨大な人数だ。

 調査だけで何日かかるか分からない。


 間に合わない。


 失踪者が出た時のタイムリミットは決まっている。


 最初の行動ですべてが決まる。


 こんな机上の調査をしている間に、時間はどんどん過ぎていく。

 犯人がオーダーなら尚更だ。


「やっぱり聞くなら現場か」


 倉庫エリアの外に出ると、金属コンテナの壁が昼に昇る光を反射して白く光っていた。

 トラックのエンジン音、フォークリフトの警告音、無数のドローンの羽音。


 物流拠点特有の騒音が空気に満ちている。


 だが、そのざわめきの中で意識は一点に集中していた。


 ——犯人がONXY(オニキス)運輸の元職員なら、この場所を熟知している可能性がある。


 しかし、それだけでは説明がつかない。


 監視カメラの位置、巡回ルート、コンテナの配置、トラックの流れ。

 それらは日々微妙に変化する。


 偶然にしては、手際が良すぎだ。


 それなら。


 ——事前に下見をしていたはず。


 そしてそのとき、もっとも不自然ではない格好と言えば。


 オーダー。


 オーダーの装いなら、敷地を歩いていても誰も疑わず、むしろ歓迎される。


 積み下ろしスペース付近にいたスタッフへ歩み寄った。

 最初に事情を説明してくれた男だ。


 男はインカムを耳にかけ、端末を操作していたが、こちらに気付くと慌てて姿勢を正した。


「はぁ、まったく。こっちも忙しいんですよ…上から連絡があって…まだ何か?」


「すまん。最近、ここにオーダーが来なかったか?」


 質問は単刀直入。

 男は一瞬きょとんとした顔をする。


「え? ここにオーダーが来ることなんて…」


 言いながら、困惑を浮かべ顔を曇らせた。


「……そちらのデータベースから確認できるのでは?」


 もっともな返答だ。

 だが今はそれができない。


「まぁ、念のためだ。 現場で確認して、上にもあとで連絡をする」


「オーティスさん……でしたっけ? 困るんですよ。もう結晶は持ち帰られたんですよね? なら、もうここに用はないのでは?」


 その声音には、わずかな違和感が混じっていた。


 ——疑われ始めている。


 胸の奥で警鐘が鳴った。

 独断で動いていることが露見すれば、面倒なことになる。


 下手に動けば情報は一瞬で本部へ流れ、そして追及が始まればカルロス長官が行動に制限をかける可能性がある。


 それだけは避けなきゃならない。


 今動けるのは、俺だけだ。


 視線を横へ流すと、オペレータールームから出てきた現場責任者が、こちらを気にしながらインカムに手を添えていた。


「……はい、こちらです。ええ……オーダーの……」


 まずい。


 もうここに長居はできない。


「あー…本部から召集がかかった。忙しいのにありがとな!」


 コンテナの並ぶ通路を抜け、端に止めておいた社用車に乗り込む。

 ドアを開け、運転席へ滑り込んだ。


 エンジンをかける。


 静かな振動が車体に伝わる。

 ハンドルに手を置きながら、視線を前へ向けた。


 出口ゲート。


「……ゲートの警備員なら」


 小さく呟く。


「なにか知ってるかもしれない」


 アクセルを踏み込むと、車はゆっくりと敷地の外へ向かって走り出した。



✧✧✧



「…っ……はあ、閉じ込めるなら檻にしとけば?」


 箱の縁に手をかけ、静かに身体を持ち上げた。

 長いこと小さな箱の中に閉じ込められていたからか、伸びをすると背骨がぎしりと軋む。


 薬の影響か、頭の奥が鈍く重い。

 だが意識ははっきりしていた。


 足元はまだふらつくが、立ち上がるには十分だ。

 絡まる髪をふっと吹き飛ばし、視界を晴らした。


 天井は高く、至る所が崩れている。


 壁の漆喰は剥がれ、窓ガラスは砕け、薄暗く埃っぽいこの場所に、外から差し込む光が斜めに床へ落ちていた。

 割れたガラス片が光を反射して鈍く輝く。

 空気は乾いていて、長い間人の手が入っていない匂いがした。


 そして──


 視線を巡らせた瞬間、目が留まった。


「……っ!」


 背後。


 視界の端に映り込んだ異形のシルエット。

 3メートルを超える巨体が、今にも動き出しそうな姿勢で固まっていた。

 無意識に数歩、ぐらりと後退する。


 が、薄光が射しこむと同時に、正体がはっきりする。


 ギュネオスを精密に象った石像だ。


「石像か……ったく、心臓に悪い…」


 黒い石像は、まるでこの空間を支配しているかのように、ロビーの中央に今にも襲わんとする躍動感あるポーズで据えられていた。

 床は大理石らしく、豪奢な模様が彫り込まれているが、今はひび割れと瓦礫でほとんど見えない。


 周囲を見回す。


 崩れた柱。倒れた彫刻。古い絵画の額縁。埃をかぶった家具。


 まるで何かを集めていた屋敷のようだった。


「……趣味の悪い…コレクターの家?」


 まさか、そのコレクションに人間も入れる気?


「はぁ…、イカれてる。これだから金持ちの考えることは…」


 人身売買の線も一瞬よぎったが、どうにも腑に落ちない。

 売るつもりなら、こんな緩い拘束のはずがない。


 最悪の想像をしたところで、蹴破ったホログラムテープの破片が、足元に転がっていく。

 動悸を落ち着かせながら、その転がった先をみると大理石が反射する床、その破片の先──きらりと光る金属。


 通信機。


 すぐに拾い上げ、首元へ取り付けた。

 金属の留め具をはめ、指先で操作パネルを叩く。


「……」


 反応がない。


 何度かタップしてみるが、ホログラムは立ち上がらなかった。


 電源が落とされているのか、内部を壊されたのか。

 どちらにしても、本部への連絡はできない。


「はぁ、なんでもいいけど。なんで誰もいないの」


 大勢いるのかと思った。

 相手がオーダーなのかチンピラなのかはどうでもいい。

 Voidへ怒りの溜まった奴らが仕組んだこと。


 それなら見張りの一人くらいいるはず。


 予想していた状況とかなり違う。


 オーダーを拉致するなら、もっと厳重に拘束するはずだ。

 薬も切れないように投与する。

 しかし、状況はただ箱の中に放り込まれていただけ。

 手首の拘束具はそのままだが、こっちがNova(ノヴァ)以外も鍛えてる事は理解しているはずなのに。


 静かすぎる。


 普通なら、ここで騒ぎ声の1つや2つ聞こえるはずだ。

 Voidアンチの連中なら、喜んで罵声を浴びせてくる。


 あの任命式のように。


 だがこの建物には——人の気配がない。


「……おかしい」


 小さく呟く。


 足元のガラスを踏まないよう慎重に進みながら、広間を横切る。

 どうやらここは建物の中央ホールらしい。左右に通路が伸び、奥には下へ降りる大きな階段があった。


 手すりの柱が並んでいる。

 石製だが、長い年月で基部が弱っているのが見て取れた。


 武器がない以上、素手はまずい。


 柱の一本を掴んだ。

 ぐっと力を込める。


 びくともしない。


「……この…っ…言う事聞けっての…!」


 壁に足をかけ、全身の体重をかけて引っ張る。

 せめて折れてくれれば、棍棒代わりにはなる。


 もう一度、力を込めた。


 そのときだった。


「よく眠ってたね。バディ」


 反射的に振り返る。


 そこに立っていたのは、箱に閉じ込めた男。


 薄手のハイネックニットの黒を纏った長身の男。

 雑に切られた髪が首筋にかかり、どこか人を食ったような笑みを浮かべていた。

 この場にそぐわないほど整った顔立ちだが、頬は少しこけている。


「悪かったね、さっきは酷い事をしてしまって。まぁ……そこまで動けるなら大丈夫か」


 床に捨てられたONXY運輸の制服を踏みつけながら一歩、また一歩と近づいてくる。


「誰なの…あんた」


 間合いを計りながら問う。

 足先に力を込め、いつでも動ける体勢。

 手錠をかけられててもできることはある。


「質問は後だよ。まずは、チェック」


 喉がわずかに強張る。


 眠らされる前の攻撃が頭に浮かんだ。

 バングルから溢れた水。

 口を塞がれ、呼吸を奪われたあの感触。


 視線が自然と手首へ向かう。


 男はそれに気付き、ふっと軽く笑った。


「ああ、これ?」


 手首のバングルを軽く叩く。


「この核晶武装(コアリス)はもう使えないよ。もうただのアクセサリーになっちゃったからね」


「……どういうこと?」


「これは衝撃を1回だけ蓄えられるものなんだ。でももう使い切っちゃったから終わりってこと」


 背後に転がる箱をちらりと覗き込み、軽く肩をすくめた。


「通信機と手袋の中のナイフ……全部没収しといたつもりだったんだけど、見落としてたか。僕としたことが…腕がなまったね」


 焦る様子は微塵もない。

 むしろ楽しんでいるようにさえ見える。


「準備は完璧じゃなかったみたいだね」


 手元のピンを指先で弾き、床に落とす。

 彼は肩をすくめ、短く笑った。


「……ハハ、ま、苦し紛れに聞こえるだろうけど、Voidから来たオーダーがどんな子か試したかったのもあるんだ」


「アタシへの敵意でやったってこと?」


 男はすぐに首を振った。


 笑いだし、ナイフをどこからか取り出すと、くるりと指先で回しながら、演者のように周囲をゆっくりと歩いた。


「地下街を出てオーダーになろうとする子なんて変わってると思ってたけど、君は思ったより賢いみたいだね」


「でも、違う」


 その声は驚くほど淡々としていた。


「被害妄想は感心しないな。僕は君に興味なんてない」


 瞳がわずかに光を宿す。


「興味があるのは——」


 男は最後の一歩を踏み出した。


 罅の広がった大理石を踏みしめながら、薄く口角を上げた。



✧✧✧



 出口ゲートが見えてくると、オーティスはアクセルを緩めた。

 レーンが2つに分かれ、その中央に小さな警備ブースが立っている。


 薄い屋根の下には古びた回転灯が取り付けられ、昼の光の中でも鈍く赤いガラスが光っていた。


 社用車をゆっくりとレーンに滑り込ませると、ブースの横に立っていた年配の警備員がこちらに気付き、気だるげに曲がった背筋を伸ばす。

 帽子をさっと持ち上げ、ぺこりと頭を下げられた。


「少しいいか? ひとつ訊きたい。ここに俺たち以外のオーダーが来たことはあるか?」


 窓を下げて声をかける。


 年配の警備員は一瞬考えるように目を細め、眠そうな顔のまま首を横に振った。


「いやあ、ここに来んのは治安局の連中かトラック運転手……あとは機械工学企業の営業ぐらいだろうなぁ」


 気の抜けた口調。

 その返答を聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいた重りがさらに深く落ちた気がした。

 肩から力が抜けそうになる。


「そうか……」


 短く答えると、ハンドルを握ったまま、手の甲に額を押し付けた。

 金属の冷たさが額に触れる。

 思考が空転する。


 焦燥がふつふつと沸騰し、意識を呑み込みそうになる。


 食われそうだ。


 ここでも手掛かりはない──そのときだった。


「うわあ…本当にオーダーの人だ…!! これオーダー機関の社用車ですよね! ピッカピカ!」


 突然、甲高い声が横から飛び出した。


 顔を上げると、警備ブースの窓から若い警備員がひょっこりと顔を出していた。

 

 まだ18歳そこらだろうか。

 

 制服の青は何度も洗われたせいで色あせている。

 裾は油で黒く汚れているが、よく見ると丁寧に洗濯された跡があり、きちんとした性格が滲んでいた。


 目を輝かせながら車体をまじまじと見つめている。


「お疲れさまです! オーダーさん、これからお帰りですか? 任務お疲れ様ですっ!」


「おいおい、騒ぐなって」


 隣で年配の警備員が苦笑する。


「すんません、こいつオーダーのファンみたいで……今日あんたらが来たって話したら、連勤明けだってのに勝手に出てきやがって」


 青年は照れたように笑いながらも、視線を社用車から離さない。

 その初々しさと、ころころ変わる表情に、張り詰めていた空気が一瞬だけ緩んだ。


「はは…気にするな。昔は俺もこんな感じだったからな。微笑ましいよ」


 連勤明け。


 この青年なら何か知っているかもしれない。

 最後の希望と言える。


「ここにオーダーは来なかったか?」


 青年は「えっ」と声を漏らし、記憶を探るように視線を上に向けた。


「んー……あ、そうだ! 7日前に、ここ一帯で停電があったみたいで、心配で見に来てくれた人がいましたよ!」


 その言葉に、がばっと身を乗り出した。


「……! どんな奴だった!? タグは着いてたか!?」


 ベルトに付けていた青の金属タグを外し、窓の外へ差し出した。

 青年の目がさらに輝く。


「それってオーダーの識別タグですよね……!! わあすごい! 実物初めて見た!!」


「こらこら、落ち着け。ちゃんと質問に答えなさい」


 年配の警備員に諭されるも、興奮した声が弾む。

 だがすぐに、思い出すように眉を寄せた。


「青じゃなかったかな…。その人は”赤色”でしたよ」


 タグを持つ指先に力が入った。


 赤タグ──ベテランの証。


 胸の奥で嫌な予感が膨らむ。


 あり得るのか。

 いや、あり得ない。

 秩序の象徴のオーダーが、あり得てはいけない。


「……他に覚えていることは? どんな些細なことでもいい。どこに向かうとか…なにかないか」


 思わず声が強くなる。

 青年は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに思い出すように頷いた。


「あ、でもその人はオーダーじゃなくて"元オーダー"の人です。ユニフォームじゃなかったし、そのお兄さんが言ってました!」


 その言葉で、空気が静まった。


 遠くでトラックのエンジン音が響いている。


「その人、すごく話が面白くて…つい長話しちゃったんです! 昔ここで働いてたからってアドバイスもたくさんくれて……」


 青年は楽しそうに笑う。


 オーティスの耳には、その声が妙に遠く聞こえた。


「元…オーダー……?」


 喉の奥で言葉が引っかかる。

 青年はさらに続けた。


「“バディを待ってる”って言ってました」


 その瞬間、冷たい何かが背中を這い上がった。


 汗ばんだ手がハンドルを握り直す。


 もう、確信しているのに。

 視線を落としたまま、問いかけた。


 声がかすかに震えていた。


「髪は何色だった」


「朝の海みたいな綺麗な水色です!」


 そして、思い出したように付け加える。


「その人、バディに返してもらう物があるって言ってました! なんでも方向──…」


「方向音痴で、待ち合わせにいつも遅れてくるバディ」


 遮る。


 ハンドルを握る手に、ぎり、と力がこもる。


 吐いた息は震えていた。


 胸の奥で、ずっと否定していた名前が浮かび上がる。

 逃げ場はもうなかった。


「……犯人が、わかった」


 目的はロビンじゃない。



 俺だ。



✧✧✧



「君のバディだ」


 男の姿は、目の前にいるというのにどこか虚ろだった。

 笑みの形をしている口元にも感情の起伏が見えない。


 ここはどこから流れ込んでいるのか、風の通り道になっているらしく、割れた窓の隙間から入り込む風が瓦礫の上を滑り、細かな砂を床の上で転がしている。

 崩れた天井から差し込む光が斜めに落ち、埃がゆっくりと漂っていた。


 静かな空間の中で、男の足音だけがやけに鮮明に響く。


「残念だけど、あいつは来ない。本部が新人一人のために人員割くほど暇じゃない」


 本部にとっては、まだ新人のオーダーに過ぎない。

 さらにVoid出身。


 優先順位は低いはず。


 失踪したところで、大規模な捜索が行われる可能性は低い。


 だが、男は肩をすくめただけだった。


「分かってないね」


 軽く息を吐くように言う。


「彼は必ず来るよ。そういう男だ」


 その瞬間、男の瞳がわずかに光を宿した。

 薄暗い影の中で、その色だけが妙にはっきりと浮かび上がる。


「………困ってる人がいれば放っておけない。そんな正義の面を被った“ヒーロー”だよ」


 その声音、その確信。


 まるで——


「あんた、もしかして───」


 言いかけた瞬間、男が最後の一歩を踏み出した。

 瓦礫を踏む音が、乾いた空気の中に響く。


 割れた石が靴底の下で砕け、砂がぱらぱらと転がった。


 目の前で立ち止まり、わずかに首を傾ける。


 そして、薄く口角を上げた。


「察しがいいね」


 だがその笑みの奥に、どこか冷たいものが潜んでいる。


「僕はニコラス」


 名乗りながら、ゆっくりと手を広げる。

 まるで久しぶりの再会を歓迎するかのような仕草だった。


「オーティスの元バディだよ」


 その一言で、空気が凍りついたように感じられた。


 崩れた天井の隙間から差し込む光が、彼——ニコラスの水色の髪を淡く照らしている。

 乱髪が風に揺れ、影が大理石の床へ長く落ちる。


「よろしくね」


 視線の先には、穏やかに笑う男。

 その背後には、崩れた石像の影。


 そして、この廃墟のような屋敷。


 ——オーティスの元バディ。


 その言葉だけが、頭の中で何度も反響していた。


 言葉が、喉の奥で固まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ