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AionioS  作者: 無日
第五章:水鏡の記憶

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第37話:覚悟

 満ちていた。

 

 深く息を吸い込むよりも前に、身体のどこか奥で静かに揺れていたもの。

 

 確かめる必要などなかった。

 誰もがそうであるように、それは当たり前に在り、当たり前に循環し、当たり前に自分の輪郭を形づくっている。


 黎明の海。

 

 髪はある時から誇らしさに変わり、愛おしさに変わった。


 だから、それが触れられるものだとは思わなかった。

 ましてや、髪一束のように掬い上げられるものだとは。

 

 ある瞬間、世界の重さがわずかに変わった。

 

 目に見えるものは何ひとつ違わないのに、足裏の感覚だけが妙に頼りなく、歩くたびにどこか遠い場所へ沈み込んでいく。


 理解するまでに、少し時間がかかった。

 水面からゆっくりと引いていく潮のように、胸の奥にあったはずの満ち足りた気配が、音もなく遠ざかっていく。


 手を差し入れても、もう何も触れない。

 

 そこに確かに満ちていたものの温度も、重みも、ただ記憶の形だけを残して静かに崩れていく。

 世界は相変わらず穏やかに流れている。

 

 誰も立ち止まりはしない。


 だからきっと、欠けたのは世界ではなく、その流れの中にいたはずの

 

 自分の方なのだ。

 騒然とする警備ラインの中で、オーティスは冷たい金属タグを握り締めていた。


 冷たい金属。

 ──残されたのは、それだけだった。

 争った跡も、濡れた床も、すべてがそこへ視線を収束させる。


 手のひらの上で、わずかに震えていた。


 黄色いライン。

 新人用の識別タグ。


 首の通信機に指をあてる。


「ロビン。ロビン、応答しろ…!」


 通信機からも返答がない。


 最悪な可能性。

 争った跡が物語ってるが、ただでやられるような奴じゃないはずだ。


 タグはわざと落としたのか?


 その結論に辿り着くまで、数秒もかからなかった。


「監視カメラ、ここついてるよな?」


「は、はい。ありますが……」


「頼む。確認させてくれ」


 駆け寄った警備員の声が耳をかすめる中、既に駆け出していた。


 外へ出ると、朝の光が物流エリアの金属屋根を白く照らしていた。

 無数のコンテナが並ぶ敷地の向こうでは配送ドローンが忙しなく飛び交い、遠くでトラックのエンジン音が重く響いている。

 だが、その雑多な騒音の中でも、耳には自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえていた。


 職員に案内され、裏手の監視オペレータールームに飛び込むと、壁一面にずらりと並んだ監視モニターが目に入った。


 壁を埋め尽くす監視ホロパネル。

 瞬間、映像群が視界に流れ込む。

 その中にはモバイルブリッジ円周、通路、コンテナエリア、各ゲートに設置された防犯カメラまで空間配置が高速で巡る。


「モバイルブリッジ内部の監視カメラ映像を見せてくれ。……一人でどこかに行った可能性も、まだある」


 額に血管が浮きでるほど、ふつふつと込み上げる焦りを深呼吸して落ち着けた。


「……あれ?」


 警備員の声が止まる。


 映像は途中で途切れていた。

 画面には無機質なエラー表示。


「カメラの信号が……切れてます」


「いつからか分かるか?」


 ログを確認する警備員の表情が青ざめ、指が止まる。


「30分前…結晶の確認を終えたころです………。ただ、このエラーはコードが抜けているときに出るものなので…」


 確信した。

 事故でもトラブルでもない。


 最初から計画されていた。


「……これはなんだ?どこの映像だ」


「モバイルブリッジ外周の映像です!古い防犯カメラになるので画質は荒いですが…」


 画面の中。


 モニターのひとつにモバイルブリッジ外周の荒い映像が映った。

 自分が案内を受けながら部屋を出た数分後に、従業員の制服を着た男が姿を現す。


 制服の胸にはONYX(オニキス)運輸のロゴ。

 だが──キャップを深く被り、顔は見えない。


 180cm前後の長身の男性。

 鍛えられた筋肉の輪郭が、制服越しでも見て取れた。


 背筋は伸びていて歩幅はやや狭め。

 訓練された動きだが、どこか緩い。

 何か持っている。


 白い布の下にもう1つ。


「……なんだ?」


「この後の映像もありました!」


 そして──外周の映像で男が台車を押してブリッジから出て行く姿が映った。

 台車の上にはひと1人がすっぽりと収まるほどの大きなケースが乗せられている。


 それから数分後。


 画面の端に、息を切らせた俺が映り込んだ。

 完全な入れ違い。


「………っくそ」


 俺のいない時間を狙ってる。


 拳を握りしめる。

 これが明らかな計画的犯行であることだけは間違いなかった。


 ──数分の猶予もない。


 歯を食いしばる。

 掌の中で、ロビンの金属タグが冷たく光る。


「このエリア、出入口はいくつある? 今すぐ全部封鎖してくれ」


「そ、それは……」


「できないのか?」


「言いにくいんですが、…オーダー 一人の権限では…。正式な要請が本部から出ないと」


 さっきまで彼女のベルトにかかっていたはずのそれを、ゆっくりとポケットへ押し込んだ瞬間、腕の端末が震えた。


 表示された発信者名を見て、短く息を吐く。


Carlos(カルロス)


 目がわずかに細くなる。


「……タイミングがよすぎないか」


 警備は気を利かせてか、オペレータールームから外へ。


 端末をテーブルに置き、通信を開くと、青白いホログラムが空間に展開される。

 重厚な執務室の背景、その中央に立つ男。


 カルロス長官は腕を組んだまま、こちらを見下ろすような視線を向けていた。


『情報は入っている』


 一歩だけ歩み寄り、状況をまとめて告げた。


 ロビンがいなくなったこと。

 争った形跡。

 監視カメラのケーブルが抜かれていたことと、台車で運ばれたケース。

 顔の見えない男。


 話し終えるころには、胸の奥に溜まっていた焦りが言葉の端に滲んでいた。


「以上です。現場の封鎖権限が足りません。オーダーの増援と正式な封鎖要請を」


 言い終えると同時に、カルロスはゆっくりと首を横に振った。


『要請は却下する』


 その一言で、空気が冷えた。


「……は?」


 思わず声が漏れる。


 カルロスは変わらない調子で続けた。


『Void出身だ。逃げた可能性は考えないのか。そこに金属タグが落ちていたなら、自分で捨てたんだろう』


 一瞬、頭が真っ白になった。


「……監視カメラが壊されてたんですよ!?」


 声が荒くなる。


「…っあいつは逃げるような奴じゃない。今日だって、この間の事を繰り返さないように徹底してたくらいだ……!」


 だが、カルロスはやはり動かなかった。

 腕を組んだまま、淡々と答える。


『今は主要交差エリアで渋滞が発生している。オーダーはそちらに回している』


「……渋滞?」


 声が低く沈む。


「オーダーが一人行方不明なんですよ!」


 それでもカルロスは首を横に振るだけだった。


『そこまで気になるなら、一人で対処してみせろ』


 頭の奥で何かがプチンと切れた。


「ロビンがVoid出身じゃなかったら助けに行きましたか!!? 俺をバディに組ませたのは、万が一の時にねじ伏せるためですか」


「ヴィンセントの時もそうだ。第一発見者が俺だからって、そのまま待機させたのは単なる偶然じゃないはずだ」


 胸の奥で、長く押し込めていた感情が軋む。


 通信の向こうで、カルロスはしばらく何も言わなかった。


 風の音だけが耳元を過ぎていく。

 倉庫の鉄骨がきしむ音。

 遠くのトラックのブレーキ音。


 妙に長い沈黙だった。


「……長官の企みは知りませんが、乗ってやりますよ」


 やがて、息を吐き、視線を地面へ落とす。


「対人は荒っぽいし、交渉も雑なところが多いが、どんな状況でも警戒心をほどかないところはオーダーに最も向いてる。Novaに過信せず体術まで磨いているのもそうだ」


『……ほう』

 

 通信の向こうで、カルロスの片眉がわずかに動く。

 低く漏れた声は、どこか楽しげに聞こえた。


「まだ任務は終わってない」

 

 まっすぐホログラムを見据える。


「あいつは俺のバディです。 見捨てる気はない!!」


 まくしたてるように言い終えると同時に、通信を切った。


 ホログラムが消え、朝の空気だけが残る。

 しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて深く息を吐き、端末をポケットへ突っ込んだ。


 バチン


 乾いた音が壁に反響した。


 「……っ」


 両手で自分の頬を思いきり叩く。


 じんと熱を帯びた頬を押さえながら、オーティスはゆっくりと顔を上げる。


 「ロビン、持ちこたえてくれ」


 小さく呟いた。

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