第37話:覚悟
満ちていた。
深く息を吸い込むよりも前に、身体のどこか奥で静かに揺れていたもの。
確かめる必要などなかった。
誰もがそうであるように、それは当たり前に在り、当たり前に循環し、当たり前に自分の輪郭を形づくっている。
黎明の海。
髪はある時から誇らしさに変わり、愛おしさに変わった。
だから、それが触れられるものだとは思わなかった。
ましてや、髪一束のように掬い上げられるものだとは。
ある瞬間、世界の重さがわずかに変わった。
目に見えるものは何ひとつ違わないのに、足裏の感覚だけが妙に頼りなく、歩くたびにどこか遠い場所へ沈み込んでいく。
理解するまでに、少し時間がかかった。
水面からゆっくりと引いていく潮のように、胸の奥にあったはずの満ち足りた気配が、音もなく遠ざかっていく。
手を差し入れても、もう何も触れない。
そこに確かに満ちていたものの温度も、重みも、ただ記憶の形だけを残して静かに崩れていく。
世界は相変わらず穏やかに流れている。
誰も立ち止まりはしない。
だからきっと、欠けたのは世界ではなく、その流れの中にいたはずの
自分の方なのだ。
騒然とする警備ラインの中で、オーティスは冷たい金属タグを握り締めていた。
冷たい金属。
──残されたのは、それだけだった。
争った跡も、濡れた床も、すべてがそこへ視線を収束させる。
手のひらの上で、わずかに震えていた。
黄色いライン。
新人用の識別タグ。
首の通信機に指をあてる。
「ロビン。ロビン、応答しろ…!」
通信機からも返答がない。
最悪な可能性。
争った跡が物語ってるが、ただでやられるような奴じゃないはずだ。
タグはわざと落としたのか?
その結論に辿り着くまで、数秒もかからなかった。
「監視カメラ、ここついてるよな?」
「は、はい。ありますが……」
「頼む。確認させてくれ」
駆け寄った警備員の声が耳をかすめる中、既に駆け出していた。
外へ出ると、朝の光が物流エリアの金属屋根を白く照らしていた。
無数のコンテナが並ぶ敷地の向こうでは配送ドローンが忙しなく飛び交い、遠くでトラックのエンジン音が重く響いている。
だが、その雑多な騒音の中でも、耳には自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえていた。
職員に案内され、裏手の監視オペレータールームに飛び込むと、壁一面にずらりと並んだ監視モニターが目に入った。
壁を埋め尽くす監視ホロパネル。
瞬間、映像群が視界に流れ込む。
その中にはモバイルブリッジ円周、通路、コンテナエリア、各ゲートに設置された防犯カメラまで空間配置が高速で巡る。
「モバイルブリッジ内部の監視カメラ映像を見せてくれ。……一人でどこかに行った可能性も、まだある」
額に血管が浮きでるほど、ふつふつと込み上げる焦りを深呼吸して落ち着けた。
「……あれ?」
警備員の声が止まる。
映像は途中で途切れていた。
画面には無機質なエラー表示。
「カメラの信号が……切れてます」
「いつからか分かるか?」
ログを確認する警備員の表情が青ざめ、指が止まる。
「30分前…結晶の確認を終えたころです………。ただ、このエラーはコードが抜けているときに出るものなので…」
確信した。
事故でもトラブルでもない。
最初から計画されていた。
「……これはなんだ?どこの映像だ」
「モバイルブリッジ外周の映像です!古い防犯カメラになるので画質は荒いですが…」
画面の中。
モニターのひとつにモバイルブリッジ外周の荒い映像が映った。
自分が案内を受けながら部屋を出た数分後に、従業員の制服を着た男が姿を現す。
制服の胸にはONYX運輸のロゴ。
だが──キャップを深く被り、顔は見えない。
180cm前後の長身の男性。
鍛えられた筋肉の輪郭が、制服越しでも見て取れた。
背筋は伸びていて歩幅はやや狭め。
訓練された動きだが、どこか緩い。
何か持っている。
白い布の下にもう1つ。
「……なんだ?」
「この後の映像もありました!」
そして──外周の映像で男が台車を押してブリッジから出て行く姿が映った。
台車の上にはひと1人がすっぽりと収まるほどの大きなケースが乗せられている。
それから数分後。
画面の端に、息を切らせた俺が映り込んだ。
完全な入れ違い。
「………っくそ」
俺のいない時間を狙ってる。
拳を握りしめる。
これが明らかな計画的犯行であることだけは間違いなかった。
──数分の猶予もない。
歯を食いしばる。
掌の中で、ロビンの金属タグが冷たく光る。
「このエリア、出入口はいくつある? 今すぐ全部封鎖してくれ」
「そ、それは……」
「できないのか?」
「言いにくいんですが、…オーダー 一人の権限では…。正式な要請が本部から出ないと」
さっきまで彼女のベルトにかかっていたはずのそれを、ゆっくりとポケットへ押し込んだ瞬間、腕の端末が震えた。
表示された発信者名を見て、短く息を吐く。
≪Carlos≫
目がわずかに細くなる。
「……タイミングがよすぎないか」
警備は気を利かせてか、オペレータールームから外へ。
端末をテーブルに置き、通信を開くと、青白いホログラムが空間に展開される。
重厚な執務室の背景、その中央に立つ男。
カルロス長官は腕を組んだまま、こちらを見下ろすような視線を向けていた。
『情報は入っている』
一歩だけ歩み寄り、状況をまとめて告げた。
ロビンがいなくなったこと。
争った形跡。
監視カメラのケーブルが抜かれていたことと、台車で運ばれたケース。
顔の見えない男。
話し終えるころには、胸の奥に溜まっていた焦りが言葉の端に滲んでいた。
「以上です。現場の封鎖権限が足りません。オーダーの増援と正式な封鎖要請を」
言い終えると同時に、カルロスはゆっくりと首を横に振った。
『要請は却下する』
その一言で、空気が冷えた。
「……は?」
思わず声が漏れる。
カルロスは変わらない調子で続けた。
『Void出身だ。逃げた可能性は考えないのか。そこに金属タグが落ちていたなら、自分で捨てたんだろう』
一瞬、頭が真っ白になった。
「……監視カメラが壊されてたんですよ!?」
声が荒くなる。
「…っあいつは逃げるような奴じゃない。今日だって、この間の事を繰り返さないように徹底してたくらいだ……!」
だが、カルロスはやはり動かなかった。
腕を組んだまま、淡々と答える。
『今は主要交差エリアで渋滞が発生している。オーダーはそちらに回している』
「……渋滞?」
声が低く沈む。
「オーダーが一人行方不明なんですよ!」
それでもカルロスは首を横に振るだけだった。
『そこまで気になるなら、一人で対処してみせろ』
頭の奥で何かがプチンと切れた。
「ロビンがVoid出身じゃなかったら助けに行きましたか!!? 俺をバディに組ませたのは、万が一の時にねじ伏せるためですか」
「ヴィンセントの時もそうだ。第一発見者が俺だからって、そのまま待機させたのは単なる偶然じゃないはずだ」
胸の奥で、長く押し込めていた感情が軋む。
通信の向こうで、カルロスはしばらく何も言わなかった。
風の音だけが耳元を過ぎていく。
倉庫の鉄骨がきしむ音。
遠くのトラックのブレーキ音。
妙に長い沈黙だった。
「……長官の企みは知りませんが、乗ってやりますよ」
やがて、息を吐き、視線を地面へ落とす。
「対人は荒っぽいし、交渉も雑なところが多いが、どんな状況でも警戒心をほどかないところはオーダーに最も向いてる。Novaに過信せず体術まで磨いているのもそうだ」
『……ほう』
通信の向こうで、カルロスの片眉がわずかに動く。
低く漏れた声は、どこか楽しげに聞こえた。
「まだ任務は終わってない」
まっすぐホログラムを見据える。
「あいつは俺のバディです。 見捨てる気はない!!」
まくしたてるように言い終えると同時に、通信を切った。
ホログラムが消え、朝の空気だけが残る。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて深く息を吐き、端末をポケットへ突っ込んだ。
バチン
乾いた音が壁に反響した。
「……っ」
両手で自分の頬を思いきり叩く。
じんと熱を帯びた頬を押さえながら、オーティスはゆっくりと顔を上げる。
「ロビン、持ちこたえてくれ」
小さく呟いた。




