第33話:誤差
百花総合医療センターの白い廊下を、ロビンはほとんど駆けるような速さで歩いていた。
夕方の橙色が窓から差し込み、床に長い影が床から壁に上る。
その影を踏み潰すように、彼女の足取りは荒い。
ここは清潔すぎる。
消毒液の匂い、遠くのナースコール、ストレッチャーの車輪の軋み――
それらすべてが、水の中に沈んだ音みたいに遠かった。
耳鳴りが、ずっと止まらない。
耳鳴りの奥で、遠く揺らめく音がした気がした。
細く鋭い音が、鼓膜の奥を引っ掻いている。
「ロビン!!………っおい!ロビン!!待て!!」
背後から声がしたはずだった。
世界は無音だ。ただ、自分の呼吸だけがやけにうるさい。
「ロビン!!!!」
腹の底から張り上げた叫びが、ようやく膜を破った。
ロビンはびくりと肩を震わせ、はっと振り返る。
数メートル後方で、息を切らしたオーティスが立っていた。
額に汗を滲ませ、乱れた呼吸のまま、何かを振りかぶる。
「……っユニフォーム。忘れてるぞ」
投げられた衣服が、彼女に当たる。
反射的に受け止めたそれは、もう見慣れたオーダーの制服だった。
数秒、それを見下ろしたまま固まる。
「着替えたら本部に戻る。……お前、本当に大丈夫か?検査してもらった方がいいんじゃないか?」
舌打ちが、静かな廊下に小さく弾けた。
「平気」
低く、短い。
鋭い刃物のような声。
ロビンはそれ以上視線を合わせず、女性更衣室のドアを押し開ける。
自動ドアが閉まる寸前、何か言いたげな顔が見えたが、彼女はもう見なかった。
更衣室を出ると、既に着替え終えたオーティスが壁にもたれて待っていた。
「行くぞ」とだけ言い、医療センターを後にする。
百花町の夕暮れは、子供がはしゃぎまわれるほどに穏やかで、子供の騒ぎ声が耳を劈いた。
淡砂街の大通りには、ちらほらと帰宅を急ぐ市民が見える。
その通りを希望の象徴が歩いていた。
穏やかでゆったりとした空気は、オーダー機関本部に着く頃には夜に沈む。
本部のロビーはいつもより騒がしい。
セキュリティゲートを通過し、一歩踏み入れた瞬間、わっと人が押し寄せる。
「オーティス!爆弾解除したってほんとか!?」
「ギュネオス50体倒したって?やるじゃねーか!」
「先輩!本当にありがとうございます!銀紗町には僕の彼女もいて…本当に助かりました…」
昼の事件は夜には尾びれがついていた。
矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、目を白黒させながら頭を掻く。
「いや、俺一人がやったわけじゃない。みんなの連携があってこそだ」
どこか照れくさい。
拍手や歓声が小さな渦を作る。
その喧騒の縁を、黒い影がすり抜けた。
「ジョシュが解除できるボタンを教えてくれたんだ。それに──…あれ?」
ロビンは一瞥もせず、静かにその場を離れていく。
気づいた者はいるだろうか。
一瞬だけ、人垣の向こうを見た。
さっきまで後ろにいたはずの姿がない。
ある考えがかすめる。
だがすぐに。
「おい、詳しく聞かせろよ!」
そう肩を掴まれ、思考は霧散した。
まあ、あいつは平気だろう。
そう自分に言い聞かせた。
事件のことをざっくりと話すと、みんな満足したのか散っていった。
トレーニングルームへ向かう者もいれば、食堂へ、迎えに来た恋人と帰路を共にする者もいる。
「…ふぅ……今日は長かったな」
作業部の端末に向かい、報告書をまとめ始める。
前回はロビンが手際よく仕上げてくれたが、今回は自分がやる番だ。
爆弾の構造、誘引装置の外観、ギュネオスの出現数と撃破数、被害状況。
指がキーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響く。
問題の“通報者”。
駅員に扮していた男についても記す。
身長はロビンと同じくらいだった気がする。
体格は中肉。帽子を目深に被り、特徴らしい特徴はない。
すれ違ったとき、目が合った気がした――だが、それ以上は曖昧だ。
回収された誘引装置は、既に事後処理班の手でコンテナに収められ、D.R.Aへ送致準備中だというホログラムテープが張られていた。
チタニア駅は一時封鎖、交通は空中回廊シャトルへ振替。
都市機能そのものが柔軟に形を変えている。
だが、その柔軟さの裏に潜む“何者か”の意図までは、まだ見えない。
思い出そうとすると、記憶は霧のように散ってしまう。
すれ違っただけ。一瞬の出来事だった。
歯噛みしながら、わずかな情報を入力し、データベースへ送信。
送信完了の表示が冷たい青で光った。
椅子にもたれ、ふうと息を吐く。
ひと仕事終えた解放感と、拭いきれない引っかかりが同時に胸に残る。
腹も減った。
「飯食いに行くか」
端末を落とし、食堂へ向かった。
夜の本部はまだざわめいている。
作業部を出ると、廊下の向こうから漂ってくる匂いに空腹感がさらに酷くなる。
油とスパイスと、焼きたてのパンの匂い。
食堂は夜でも明るく、天井のライトが白く反射している。
トレーを手に取り、無意識に近いまま料理を積み上げていく。
ローストミート、いつものチキンステーキ、玄米、揚げ野菜、ポトフ、パンを二つ。
いつも多いが、今日は特に遠慮がない。
体が燃料を欲している。
振り返ると、窓際の席にロビンの姿を見つけた。
食堂の混雑を背に、夜の街を見つめながら細いシルエットがガラスに溶け込んでいる。
あのテーブルだけが、ぽっかりと人が避けている。
「もう帰ったのかと思ったよ。体調は平気か?」
ロビンは一瞬だけ視線を寄越し、すぐに外へ戻す。
窓の向こうでは淡砂街の高層塔が青白く光り、空中回廊をシャトルが滑るように走っている。
彼女のトレーにはサンドとスープだけ。
サンドは既に半分なくなっている。
無視にはだんだん慣れてきた。
あまり話すのが苦手なタイプなのかもしれない。
〈自分の身くらい自分で守れる!!!!〉
………果たしてそうだろうか。
あそこまで怒鳴り散らすやつだぞ。
気にしないことにして、ローストミートを挟んだパンにかぶりついた。
咀嚼音が妙に大きく感じる。
しばらくして、背後から声が落ちてきた。
「よう!オーティス!いい食いっぷりだな」
振り向くとジョシュが立っている。
だが、俺の背中で見えてなかったロビンの姿に気づいた瞬間、彼の肩がビクリと跳ねた。
視線が泳ぐ。
空気がわずかに張りつめる。
何も言わず、彼の出方を待った。
ジョシュはごくりと喉を鳴らし、周囲の視線を気にしたが、意を決したように椅子を引く。
「……座ってもいいか?」
「いいに決まってるだろ」
笑って頷く。
「ジョシュ、今日はありがとな。あの装置をなんとかできたのはお前の知識のおかげだ」
「え……いやー…照れるなぁ。でも、あれは基礎知識だよ。見た目が素人の工作には見えなかったからさ。ならセーフがあるはずだって思っただけ。授業でも習ったろ? 」
「あー……言われてみれば」
「たまたま当たっただけだって。内部の符号化、あれは俺でも読めない。D.R.A送りになるのも当然だよ」
ロビンは黙ったまま、スープを静かに口へ運ぶ。
カップを持つ指先が白い。
窓の外の光がその横顔を淡く縁取るが、感情は読み取れない。
「それでも助かった。あそこで爆発してたら、洒落にならなかった」
三人の間に、食器の触れ合う小さな音だけが落ちる。
やがてロビンはサンドを食べ終え、スープを飲み干すと、何も言わず立ち上がった。
椅子がかすかに軋む。
「ロビン!」
トレーを持ち、返却口へ向かう背中は細く、まっすぐだ。
「今日は助かった。お前がひきつけてくれたおかげで――」
言葉は最後まで届かなかった。
彼女は振り返らない。
返却口にトレーを滑らせ、そのまま食堂を出ていく。
自動ドアの閉まる音が、やけに長く尾を引いた気がした。
しばらく入口を見つめたまま、ようやくフォークを皿に置く。
ジョシュはスープに手をつけるでもなく、指先でカップの縁をなぞっていた。
窓の外では、夜の街が何事もなかったかのように光っている。
その静けさが、かえって胸の奥をざらつかせた。
「なぁ、オーティス。あの通報者のことだけどさ」
「ん?」
肉を飲み込みながら、気のない返事をする。
「通報者の行動、ちょっと不自然じゃなかったか?」
「不自然って? 駅員に紛れて逃げただけだろ」
「いや……それはそうなんだけどさ。あのタイミングであそこにいたの、出来すぎてないか?爆弾の位置も、誘引装置の仕様も、妙に……」
食堂のざわめきが遠のく。
さっきまでの喧騒が、薄い膜一枚隔てた向こう側に移ったみたいだ。
「その……」
ジョシュは視線を落としたまま続ける。
「“彼女が逃がした”って可能性はないのかな」
しん、と空気が鎮まった。
周囲の食器の音だけが、かすかに響く。
視線がゆっくりとジョシュに向く。
「………考えなかったわけじゃない」
低い声。
「でも一緒に戦ったんだ。危険だった。あいつは真正面からギュネオスを引きつけてた。囮になるやつが逃がすわけがないだろ」
「……あ、い、いや! 決めつけたいわけじゃなくて!あの装置の解析結果の一部が、多分明日にでも共有されると思うんだ。その……だから、先に考えといたほうがいいかなって……」
夜の塔が無機質に光っている。
さっきまでそこに座っていた黒い影を思い出す。
「事実がどうであれ、彼女はきっと……疑われることになるよ」
「二日しかまだ経ってないしさ……配属されてから。俺も偏見はよくないって思うけど、任命式であんなことを言った子だ。『守る気なんか毛頭ない』なんて公言して。信用できるのか……?」
何も言えない。
言葉にすれば、それが現実になる気がした。
ただ皿の上の最後の肉を口に運び、味のしない咀嚼を繰り返す。
そのころ、返却口の奥ではスタッフがトレーを仕分けていた。
金属の擦れる音、水の流れる音、忙しない足音。
ひとりが返却口からスプーンをまとめて持ち上げ、眉をひそめる。
「ちょっと誰!?これ使ったの!戻せないじゃないの!!」
掲げられた一本のスプーン。
その持ち手が、まるで飴細工のようにぐにゃりとねじれている。
機械に挟まれた痕でも、熱で溶けた痕でもない。
均一に、力をかけられた形跡。
呆れ声が飛ぶ。
だが答える者はいない。
食堂の喧騒はすぐに元へ戻る。
窓際のテーブルの上には、まだかすかな歪みが残り、夜の本部は何事もなかったように光を保ち続けていた。




