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AionioS  作者: 無日
第四章:噛み合わない歯車

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第33話:誤差

 百花総合医療センターの白い廊下を、ロビンはほとんど駆けるような速さで歩いていた。


 夕方の橙色が窓から差し込み、床に長い影が床から壁に上る。

 その影を踏み潰すように、彼女の足取りは荒い。


 ここは清潔すぎる。


 消毒液の匂い、遠くのナースコール、ストレッチャーの車輪の軋み――

 それらすべてが、水の中に沈んだ音みたいに遠かった。


 耳鳴りが、ずっと止まらない。

 耳鳴りの奥で、遠く揺らめく音がした気がした。

 細く鋭い音が、鼓膜の奥を引っ掻いている。


「ロビン!!………っおい!ロビン!!待て!!」


 背後から声がしたはずだった。


 世界は無音だ。ただ、自分の呼吸だけがやけにうるさい。


「ロビン!!!!」


 腹の底から張り上げた叫びが、ようやく膜を破った。


 ロビンはびくりと肩を震わせ、はっと振り返る。

 数メートル後方で、息を切らしたオーティスが立っていた。


 額に汗を滲ませ、乱れた呼吸のまま、何かを振りかぶる。


「……っユニフォーム。忘れてるぞ」


 投げられた衣服が、彼女に当たる。

 反射的に受け止めたそれは、もう見慣れたオーダーの制服だった。


 数秒、それを見下ろしたまま固まる。


「着替えたら本部に戻る。……お前、本当に大丈夫か?検査してもらった方がいいんじゃないか?」


 舌打ちが、静かな廊下に小さく弾けた。


「平気」


 低く、短い。

 鋭い刃物のような声。


 ロビンはそれ以上視線を合わせず、女性更衣室のドアを押し開ける。

 自動ドアが閉まる寸前、何か言いたげな顔が見えたが、彼女はもう見なかった。


 更衣室を出ると、既に着替え終えたオーティスが壁にもたれて待っていた。


「行くぞ」とだけ言い、医療センターを後にする。

 百花町の夕暮れは、子供がはしゃぎまわれるほどに穏やかで、子供の騒ぎ声が耳を劈いた。





 淡砂街の大通りには、ちらほらと帰宅を急ぐ市民が見える。

 その通りを希望の象徴が歩いていた。


 穏やかでゆったりとした空気は、オーダー機関本部に着く頃には夜に沈む。


 本部のロビーはいつもより騒がしい。

 セキュリティゲートを通過し、一歩踏み入れた瞬間、わっと人が押し寄せる。


「オーティス!爆弾解除したってほんとか!?」


「ギュネオス50体倒したって?やるじゃねーか!」


「先輩!本当にありがとうございます!銀紗町には僕の彼女もいて…本当に助かりました…」


 昼の事件は夜には尾びれがついていた。


 矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、目を白黒させながら頭を掻く。


「いや、俺一人がやったわけじゃない。みんなの連携があってこそだ」


 どこか照れくさい。


 拍手や歓声が小さな渦を作る。

 その喧騒の縁を、黒い影がすり抜けた。


「ジョシュが解除できるボタンを教えてくれたんだ。それに──…あれ?」


 ロビンは一瞥もせず、静かにその場を離れていく。

 気づいた者はいるだろうか。


 一瞬だけ、人垣の向こうを見た。


 さっきまで後ろにいたはずの姿がない。

 ある考えがかすめる。


 だがすぐに。


「おい、詳しく聞かせろよ!」


 そう肩を掴まれ、思考は霧散した。

 まあ、あいつは平気だろう。


 そう自分に言い聞かせた。


 事件のことをざっくりと話すと、みんな満足したのか散っていった。

 トレーニングルームへ向かう者もいれば、食堂へ、迎えに来た恋人と帰路を共にする者もいる。


「…ふぅ……今日は長かったな」


 作業部の端末に向かい、報告書をまとめ始める。


 前回はロビンが手際よく仕上げてくれたが、今回は自分がやる番だ。


 爆弾の構造、誘引装置の外観、ギュネオスの出現数と撃破数、被害状況。

 指がキーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響く。


 問題の“通報者”。

 駅員に扮していた男についても記す。

 身長はロビンと同じくらいだった気がする。


 体格は中肉。帽子を目深に被り、特徴らしい特徴はない。

 すれ違ったとき、目が合った気がした――だが、それ以上は曖昧だ。


 回収された誘引装置は、既に事後処理班の手でコンテナに収められ、D.R.Aへ送致準備中だというホログラムテープが張られていた。


 チタニア駅は一時封鎖、交通は空中回廊シャトルへ振替。

 都市機能そのものが柔軟に形を変えている。


 だが、その柔軟さの裏に潜む“何者か”の意図までは、まだ見えない。


 思い出そうとすると、記憶は霧のように散ってしまう。

 すれ違っただけ。一瞬の出来事だった。


 歯噛みしながら、わずかな情報を入力し、データベースへ送信。

 送信完了の表示が冷たい青で光った。


 椅子にもたれ、ふうと息を吐く。


 ひと仕事終えた解放感と、拭いきれない引っかかりが同時に胸に残る。


 腹も減った。


「飯食いに行くか」


 端末を落とし、食堂へ向かった。

 夜の本部はまだざわめいている。


 作業部を出ると、廊下の向こうから漂ってくる匂いに空腹感がさらに酷くなる。


 油とスパイスと、焼きたてのパンの匂い。

 食堂は夜でも明るく、天井のライトが白く反射している。


 トレーを手に取り、無意識に近いまま料理を積み上げていく。


 ローストミート、いつものチキンステーキ、玄米、揚げ野菜、ポトフ、パンを二つ。


 いつも多いが、今日は特に遠慮がない。

 体が燃料を欲している。


 振り返ると、窓際の席にロビンの姿を見つけた。

 食堂の混雑を背に、夜の街を見つめながら細いシルエットがガラスに溶け込んでいる。


 あのテーブルだけが、ぽっかりと人が避けている。


「もう帰ったのかと思ったよ。体調は平気か?」


 ロビンは一瞬だけ視線を寄越し、すぐに外へ戻す。


 窓の向こうでは淡砂街の高層塔が青白く光り、空中回廊をシャトルが滑るように走っている。

 彼女のトレーにはサンドとスープだけ。


 サンドは既に半分なくなっている。


 無視にはだんだん慣れてきた。

 あまり話すのが苦手なタイプなのかもしれない。


 〈自分の身くらい自分で守れる!!!!〉


 ………果たしてそうだろうか。

 あそこまで怒鳴り散らすやつだぞ。


 気にしないことにして、ローストミートを挟んだパンにかぶりついた。


 咀嚼音が妙に大きく感じる。


 しばらくして、背後から声が落ちてきた。


「よう!オーティス!いい食いっぷりだな」


 振り向くとジョシュが立っている。


 だが、俺の背中で見えてなかったロビンの姿に気づいた瞬間、彼の肩がビクリと跳ねた。


 視線が泳ぐ。

 空気がわずかに張りつめる。


 何も言わず、彼の出方を待った。

 ジョシュはごくりと喉を鳴らし、周囲の視線を気にしたが、意を決したように椅子を引く。


「……座ってもいいか?」


「いいに決まってるだろ」


 笑って頷く。


「ジョシュ、今日はありがとな。あの装置をなんとかできたのはお前の知識のおかげだ」


「え……いやー…照れるなぁ。でも、あれは基礎知識だよ。見た目が素人の工作には見えなかったからさ。ならセーフがあるはずだって思っただけ。授業でも習ったろ? 」


「あー……言われてみれば」


「たまたま当たっただけだって。内部の符号化、あれは俺でも読めない。D.R.A送りになるのも当然だよ」


 ロビンは黙ったまま、スープを静かに口へ運ぶ。

 カップを持つ指先が白い。

 窓の外の光がその横顔を淡く縁取るが、感情は読み取れない。


「それでも助かった。あそこで爆発してたら、洒落にならなかった」


 三人の間に、食器の触れ合う小さな音だけが落ちる。

 やがてロビンはサンドを食べ終え、スープを飲み干すと、何も言わず立ち上がった。


 椅子がかすかに軋む。


「ロビン!」


 トレーを持ち、返却口へ向かう背中は細く、まっすぐだ。


「今日は助かった。お前がひきつけてくれたおかげで――」


 言葉は最後まで届かなかった。


 彼女は振り返らない。

 返却口にトレーを滑らせ、そのまま食堂を出ていく。


 自動ドアの閉まる音が、やけに長く尾を引いた気がした。

 しばらく入口を見つめたまま、ようやくフォークを皿に置く。


 ジョシュはスープに手をつけるでもなく、指先でカップの縁をなぞっていた。


 窓の外では、夜の街が何事もなかったかのように光っている。

 その静けさが、かえって胸の奥をざらつかせた。


「なぁ、オーティス。あの通報者のことだけどさ」


「ん?」


 肉を飲み込みながら、気のない返事をする。


「通報者の行動、ちょっと不自然じゃなかったか?」


「不自然って? 駅員に紛れて逃げただけだろ」


「いや……それはそうなんだけどさ。あのタイミングであそこにいたの、出来すぎてないか?爆弾の位置も、誘引装置の仕様も、妙に……」


 食堂のざわめきが遠のく。

 さっきまでの喧騒が、薄い膜一枚隔てた向こう側に移ったみたいだ。


「その……」


 ジョシュは視線を落としたまま続ける。


「“彼女が逃がした”って可能性はないのかな」


 しん、と空気が鎮まった。

 周囲の食器の音だけが、かすかに響く。


 視線がゆっくりとジョシュに向く。


「………考えなかったわけじゃない」


 低い声。


「でも一緒に戦ったんだ。危険だった。あいつは真正面からギュネオスを引きつけてた。囮になるやつが逃がすわけがないだろ」


「……あ、い、いや! 決めつけたいわけじゃなくて!あの装置の解析結果の一部が、多分明日にでも共有されると思うんだ。その……だから、先に考えといたほうがいいかなって……」


 夜の塔が無機質に光っている。


 さっきまでそこに座っていた黒い影を思い出す。


「事実がどうであれ、彼女はきっと……疑われることになるよ」


「二日しかまだ経ってないしさ……配属されてから。俺も偏見はよくないって思うけど、任命式であんなことを言った子だ。『守る気なんか毛頭ない』なんて公言して。信用できるのか……?」


 何も言えない。


 言葉にすれば、それが現実になる気がした。

 ただ皿の上の最後の肉を口に運び、味のしない咀嚼を繰り返す。


 そのころ、返却口の奥ではスタッフがトレーを仕分けていた。

 金属の擦れる音、水の流れる音、忙しない足音。


 ひとりが返却口からスプーンをまとめて持ち上げ、眉をひそめる。


「ちょっと誰!?これ使ったの!戻せないじゃないの!!」


 掲げられた一本のスプーン。


 その持ち手が、まるで飴細工のようにぐにゃりとねじれている。

 機械に挟まれた痕でも、熱で溶けた痕でもない。


 均一に、力をかけられた形跡。

 呆れ声が飛ぶ。


 だが答える者はいない。


 食堂の喧騒はすぐに元へ戻る。


 窓際のテーブルの上には、まだかすかな歪みが残り、夜の本部は何事もなかったように光を保ち続けていた。

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