第29話:混じる異物
会議室の扉が静かに閉まり、廊下の空気が一段軽くなった。
重たい圧から解放されたはずなのに、胸の奥に残るざらつきは消えない。
磨き上げられた床に白い天井灯が映り込み、足音が響く。
肩を鳴らすように小さく息を吐いた。
処分はなし。
厳重注意のみ。
形式上の公平。
だが、あの視線の数と空気の偏りは十分すぎるほど理解した。
ここは中央区で、胸の黒光りするこれは、まだ“借り物”だということを。
廊下の突き当たり、壁にもたれて待っていた影が動く。
組んでいた腕をおろし、目が合う。
「終わったか?」
「見て分かんない?」
声色は平坦だが、わずかに掠れている。
オーティスはそれ以上踏み込まなかった。
代わりに、作戦部側の扉が開く音がして、ダニエルが出てくる。
すれ違いざま、低く笑うような息が落ちた。
「……屑女」
囁きにもならない声音。
一瞬も足を止めず、視線も向けなかった。
気にしていない。
そういう顔をしているだけだと、自分でも分かっている。
だが本当に、今はどうでもよかった。
「カルロス長官の説き……"指導"は長いからな…」
「ずっとここで待ってたわけ?」
「パトロールに行こうと思ってな。大きな事件は他のやつらが持っていったみたいだ」
顎をしゃくられ、作戦部の扉を薄く開けてみれば、さっきまでの騒ぎは嘘のように消えて、そこはもぬけの殻になっていた。
「どこのパトロール?」
「銀紗町だ」
中央区南縁側、銀紗町。
淡砂街を越えると、昼に向かい始めた光が差し込んだ。
白い街路に反射する陽光は眩しく、人工管理された風は湖の水面を撫でた湿り気を含んでいる。
中央区と南区の間を横断する湖が近く、光を受けた水面が銀糸のように揺れることから名付けられた街だと聞いたことがある。
百花街の喧騒とは違い、ここはどこか柔らかい。
湖畔沿いにはカフェや雑貨店が並び、ガラス越しに吊るされた小さなランプや手作りの装身具が淡くきらめく。
路上ではアコースティックギターの練習音が流れ、絵筆を持つ若者がキャンバスに水面を写し取っている。
名前の美しさに惹かれて移り住むネクサリス市民もいるという話も頷ける穏やかさだった。
ロビンはそんな穏やかな町を目の当たりにしても、周囲を見回して、警戒を解く気はないようだ。
彼女の周りだけが禍々しくギラギラとしている。
聞くべきか?
バディはコミュニケーションが大事…なはず。
今はかなりかけ離れてる。
でも、言いづらい内容だったら…?わざわざ聞かなくてもいいんじゃないか?
いや、人伝に聞くよりはマシか。
「さっきの、……ダニエルとの喧嘩。なにがあったんだ」
町は華やかな音で賑わっているというのに、音が遠くなった気がする。
ロビンは湖の方へ視線を向けたまま答えない。
返事を待つ代わりに、ガコン、と無機質な音が響いた。
自販機の取り出し口から転がり出た缶を受け取り、そのまま放る。
咄嗟に伸ばした彼女の手がそれを掴み、レザーの手袋に水滴が伝った。
「あっちが先に喧嘩吹っ掛けてきただけ」
「そうか。あいつはVoidのことになると口が悪くなるから──」
「聞きたくない」
湖面の揺れに固定されていた視線が、睨むようにこっちへ向いた。
「どこのどいつになにがあったとか。興味ないよ」
「………そうだな」
しばらく、靴底が石畳を打つ音だけが続く。
缶のプルタブを引く音が小さく弾け、炭酸の細かな泡が喉を刺し、喉の奥まで出かかった言葉を流し込んだ。
わずかに眉間の力が抜ける。
「よし。飲み終わったら行こう。パトロールは初めてだよな?銀紗町は治安がいいし、新人に教えるにはちょうどいい所だ」
「パトロールで教える事なんかないでしょ」
飲み干した空き缶をひょいと奪って、二つの缶をまとめて自販機横のゴミ箱へ入れた。
軽い金属音が奥で跳ねる。
「ある。パトロールこそ一番重要だ」
白い街路灯が規則正しく並び、空を見上げれば雲にかかった上層へと繋がる宇宙エレベーターが悠然と滑っていく。
静かな街並みに、白と黒を基調とした制服が浮き立つ。
胸部のボディアーマーには〈ORDER〉の文字。肩には天球儀の紋章。
オーダーが通るだけで、人々は自然と目を向ける。
レンズ越しに撮影する者、ひそひそと名を交わす者。
声が飛ぶたび、ぎこちなく手を挙げる。
それは営業スマイルというには不器用で、だが最低限の礼儀としての形を保っていた。
その横でロビンは眉をひそめる。
何の断りもなく向けられるレンズ、勝手に保存される映像、囁かれる名前。
全てが肌を刺す。
「馬鹿らしい」
「これもパトロールの一環だぞ?愛想良くしとけ。オーダーは秩序の象徴だ。オーダーが歩いてるってだけで犯罪率は下がる。形式でも、意味はあるんだ」
誰も彼女には声をかけない。
だが視線は確かに向けられている。
それは、憧れや尊敬ではない、どこか遠巻きの冷ややかさ。
Void出身という事実と、彼女自身の棘を含んだ態度が、それをさらに強めている。
その隣を追いかけるように、わずかに歩幅を合わせた。
湖面がきらりと光る。
風が湖の匂いを運ぶ。
穏やかなはずの街で、二人の影だけがわずかに噛み合わずに伸びていた。
──そのとき。
二人が湖畔通りを折れ、カフェテラスの並ぶ区画へ差しかかったときだった。
「オーダーさんっ!」
弾む声が道路の向こうから飛んでくる。
振り向くと、若い女性が二人、興奮気味に手を振りながらこちらへ駆けてきていた。
風に揺れるスカート、光を反射する端末のレンズ、頬は上気し、まるで芸能人を見つけたかのような目だ。
視線の先は迷いなくオーティスへ向いている。
「この間の特集見ました!“中央区の鋼壁”って…!握手してください!」
差し出された両手。
距離が近い。
「あー……ありがとな。ただ、今パトロール中で……」
首の後ろを掻く癖。
首から背中にかけてじわりと汗が伝う。
女性の一人がさらに半歩踏み込んだ瞬間、分厚い肩が目に見えないほど僅かに強張る。
視線が定まらない。
落ち着け。震えるな。
手を上げ、やんわりと制止しようとするが、女性たちは「少しだけ!」「ほんと一瞬でいいので!」と譲らない。
音が遠い。
「………あぁ、もう」
そのとき、隣から唸るようなため息が聞こえたかと思えば、刺すような視線を感じた。
ロビンが一歩だけ前に出る。
何も言わず視線を向け、冷え切った金色の瞳が女性二人を射抜いた。
温度が一瞬で落ちる。
湖畔の柔らかな風が、氷の膜を張ったように止まったかのように思えた。
女性たちの笑顔が凍りつく。
「ひっ……」と喉が鳴り、差し出していた手が引っ込む。
互いに顔を見合わせると、ぎこちなく頭を下げ、女性たちはそのまま小走りで離れていった。
「……助かった」
「邪魔だっただけ」
肺に溜まっていた空気を絞り出すように吐いた。
緊張が抜けた音。
彼女は何事もなかったかのように前を向いたまま言い、歩き出す。
自分の指先は、まだわずかにこわばっている。
「手ぐらい握ってやれば良かったんじゃない?」
皮肉とも本気とも取れない声。
「いやー!そういうの、得意じゃないんだよ。困ったな!」
触れられる寸前の、あのわずかな強張りも、視線の泳ぎも、なかったことのように流す。
ロビンは追及しない。
ただ一瞬だけ、その横顔を見た。
鋼壁と呼ばれる男が、ほんの刹那、壁の内側に引っ込んだのを。
「しかし……静かだな、今日は」
視線を空へ向けながら呟く。
確かに人はいる。
カフェも営業している。
だが、どこか音が薄い。
湖面の揺れがやけに規則的で、遠くの演奏も途切れがちだ。
風が止まり、鳥が屋根の縁にとまったまま動かない。
≪ピピッ──ッ!≫
鳥たちが一斉に飛び立った。
羽音が空を裂く。
首元の通信機が鋭く鳴り、人工音が空気を割る。
『中央区銀紗町 チタニア駅より爆発物の通報あり』
『現場周辺の市民へ避難案内中。状況確認および対応のため最寄りのオーダーを出動させる!』
『192A01、196O01は現場へ急行せよ!本件は大規模となる可能性があるため、オペレーターを配置する』
「爆発物……?」
湖畔の穏やかな光景が、一瞬で色を失う。
『オーティス、こちらジョシュ!今回は俺が現場オペレーターとして先導するよ!チタニア駅に急行してくれ!』
聞き慣れた声がノイズ混じりに届く。だがその奥に、緊張が滲んでいる。
「了解。進行状況を逐次報告する」
ロビンはすでに向きを変え、通信機からスクリーンを表示させ最短ルートを確認している。
視線は鋭く、計算は速い。
「近いのはアタシたちだけ?」
「たぶんな。慎重に行こう。まだ何があるかわからない」
徒歩数分。
だが、その数分で街は変わる。
二人は同時に駆け出した。
ユニフォームの裾が翻り、ボディアーマーが光を反射する。
先ほどまで写真を撮っていた市民たちが道を開ける。
湖のきらめきは背後へ流れ、白い街路灯が後方へ飛んでいく。
──チタニア駅。
静寂に包まれたはずのその場所に、異物が潜んでいる。
穏やかな銀紗町の空気が、今まさに裂けようとしていた。




