第19話:嵐の前触れ
訓練室完備のシャワールームで汗を流したオーティスは、短い髪を無造作にかき上げながら廊下を歩いていた。
湯気を吸った肌がわずかに赤く、ボディアーマーの跡がまだ肩に残っている。
カルロス長官の言葉は何度も繰り返し脳を木霊するが、いつも通り、頭の奥の方に押し込めて杭を刺した。
すでに外は日が落ちている。
照明に照らされた長い廊下の窓には、青と紫が溶け合う宵空。
遠くのスカイウェイを走る光の軌跡が、夜へと変わりゆく都市を縫っていた。
自動扉が開く。
「お疲れー!!今日の任務どうだった?」
「まーじでやばかった!相性最悪のNovaが相手でよ…もうこりごりだぜ…」
「ねえ、デザートとらないでよ!一種類につき一人一個でしょ!?」
「やだねー!これは俺のもんー」
熱気と匂いと笑い声、食堂の喧騒がどっと押し寄せてくる。
広々とした職員用食堂はビュッフェ形式で、今日も戦場帰りの人間たちで埋め尽くされていた。
制服姿や訓練終わりのオーダー、機関に在籍する医師たちに、端末を抱えたオペレーターたち。
任務帰りの疲れた表情も、湯気を立てる皿と会話の熱で和らぎ、どこか穏やかな空気が流れている。
それは皆が無意識に行う“日常への復帰儀式”だった。
「腹減った」
オーティスは一言だけ呟いて、トレーを手にメニュー台へと向かう。
ステンレス製の保温皿には、香ばしく焼けたチキンステーキ、ハーブソテーされた野菜、食物繊維豊富な玄米、熱々のスープ──どれも、味と栄養を緻密に計算されたものばかりだ。
「あ!!オーティス!」
「ん?」
背後から聞き慣れた声に振り返った。
トレー片手に手を振っている姿が見える。
銀縁眼鏡の奥で、瞳が悪戯っぽく細められていた。
彼の名前はジョシュ。
くるくると癖のある赤毛と、日に焼けた肌には星を散らしたような斑点。
やや線の細い体躯には几帳面に整えられた支援部の制服。
彼はオーダー訓練校時代からの同期で、現在は支援部のオペレーターとして、オーダーの現場を後方支援する立場にあたる。
「見たぞ!昼のニュー──…」
「あーーー、聞こえない聞こえない」
即座に遮る。
ジョシュは腹を抱えて笑った。
「はは!遮るなって!お前の、あの"トカゲを吹き飛ばしたシーン"何回リピートされたと思ってる?僕は30回再生貢献したね」
「マーラもカルロス長官も、お前までからかうのか?本気で転属願い出すぞ」
「本部内でも街中でも迷子になるのに?中央区ほどラウンドマークのある区はないんだから、ここで諦めることだね」
「あ、そうそう、ちなみに。今日もお前のマーカーが支援部のマップ上で迷走してて実況大会になってた。夕刻のいい息抜きになったよ」
俺の方向音痴は訓練校でも知らないやつはいなかった。
いつもいつも指定された場所に辿り着けず、ジョシュが案内係になることで、訓練校では彼とつるむことが増えた。
孤立していた俺にとって、あの時はいいきっかけになったのはいいものの、いまだに方向音痴が治らず揶揄の対象になっている。
背後から聞こえてくる軽口を聞き流して、トレーの上に次々に皿を乗せた。
照り焼きチキン、スパイス煮込みの豆、サラダ、スクランブルエッグ、特製プロテインヨーグルト……
もはや皿から溢れんばかりのボリュームだ。
「さすが現場の胃袋だよ。そんなにでかいと食費もかさむよな」
「だから食堂で食えるときに食ってるんだ。にしても、オペの奴らは少食すぎるんじゃないか?」
開いた席を探しながらジョシュのトレーを覗きこむ。
ちょうど、団体が席を立ちトレーの返却口へ向かったところで中央の列に向かった。
「お前の胃袋がおかしいよ。その壁みたいなデカさも」
ジョシュは苦笑し呆れたようにため息をついた。
細長いテーブル越しにトレーを並べて席に着くと彼はワクワクした様子でラーメンにレンゲを入れる。
眼鏡が真っ白に曇ったその時、清掃員が何気なく変えたチャンネルに視線が一斉に集まった。
薄型の大型モニターが青白く光を放ち、食堂全体のざわめきがふっと引いていく。
──TNCの特番が始まったのだ。
先ほどまで活気に満ちていた食堂が途端に静かになる。
食器の上をすべるカトラリーの音は止み、オーダーと機関職員たちは食い入るように一斉にモニターを見上げた。
画面には幾何学的な光のラインで彩られたスタジオセット。中央のホログラムテーブルを挟んでキャスターとゲストが向かい合っていた。
『本日の特別番組では、“育成プログラム”を巡る市民の不安について、識者を招いて意見を伺ってまいります』
キャスターは淡々とした口調でオープニングを切った。
『ゲストは都市社会学者であり、元機関顧問のタレン博士。そして市民保全評議会副長のアナ氏です』
『では早速ですが、二年前に世間に衝撃を与えたVoid出身者を中心としたオーダー育成プログラム──。本日、育成期間訓練生たちの多くが予定よりも早く育成期間を終了したとの発表がありましたが、この件についてお二人はどうお考えでしょうか』
『はあ――、本当に信じられませんね』
タレン博士が眉をひそめて即答する。
『Voidは犯罪発生率が高く、環境も劣悪。そんな場所で育った者たちが正義の象徴たるオーダーになるというのは、市民感情としても到底納得できません』
その横でアナ氏がうなずく。
『全く同感です。統計を見れば、現在Void出身者の8割以上が犯罪歴を持っています。そんな者たちに武装権限を与え、社会秩序を守らせようとするなんて──。オーダー機関は一体何を考えているのでしょうか?』
それに付け加えるようにタレン博士は言葉を繋げる。
『加えて申し上げるなら、これはD.R.Aの人手不足をオーダー機関に押しつけているに過ぎない。裂け目からの脅威──ギュネオスの増加に対処するために、若者たちを前線に送り出す。これは非常に危険な前例ですよ』
食堂の空気が冷え込んだように感じた。
オーティスは手を止め、ナイフを皿の上に置きモニターを見つめている。
「……こういうのを見てると、胃がもたれるな」
苦笑まじりに呟いたが、冗談は空気に溶けずに沈んでいった。
最後に、キャスターが再び画面中央に映し出される。
『なお、毎年行われるオーダーの任命式についてですが、万が一の事を踏まえ、その日程と会場の場所は当日に公開されるとのことです』
画面は暗転しCMに切り替わる。
沈黙がしばらく食堂を包んだあと、徐々にまた談笑や食器の音が戻り始めた。
オーティスが口を閉ざしてから、その重さを破ったのはジョシュの明るすぎる声だった。
「まあでもさ、ついに任命式だ。今年は一段と賑やかになりそうだよ」
ドサッ。
乱暴に椅子が引かれる音。
誰かがジョシュの隣の空席を埋めた。
食事はプロテインバーひとつ。噛み砕く音がやけに響き、空になった個包装が近くのダストボックスに落ちる。
「ふん……くだらない特番だな。胸糞悪い」
ジョシュは目を丸くして隣を見るなり、「おっと怖い」とわざと肩をすくめて見せる。
文句を言いながら、背もたれに肘をおくのは同期のダニエル。
俺とジョシュと同じく、192期生で、訓練校でも苦楽を共にした仲だ。
承和色の髪は右側を刈り上げていて、その部分だけは枯れ葉色に染まっている。髪色に合わせて眉の色は左右で違う。
瞳の色はくすんだ濃い青緑で、タレ目がちな目元はきつい印象を与えにくいはずなのに、常に不機嫌そうな表情のせいで回りに人が寄り付かない。
ジョシュとは正反対の性格だ。
「ダニエル、言い方がきつい。ただでさえ、今は先輩たちがいなくてピリついてるのに…」
「はっ!!おいおい、ジョシュ?まさかVoidの連中を本気で信用してるのか?」
テーブルに身を乗り出し、煽るようにジョシュを見下ろす。
「……別に、誰かの肩を持ちたいわけじゃない。ただ、」
ジョシュは少しだけ真面目な顔になった。
「“生まれ”だけで線引きする時代でもない…って思うだけで」
瞬間、周囲の喧騒が少し静かになった。ジョシュはハッとして身を小さくし、慌てて口をふさぐ。
「甘いな。お前は現場に出ないから言えるんだ。その“生まれた場所"でどんな化け物が育つか知らないだろ」
その言葉に、ジョシュは苦虫を噛み潰したような表情で目を逸らす。
すでにラーメンの麺は伸びきっていて、口を着けていない。
「奴らがオーダーになれるなんて誰が予想したよ?俺たちはくそ真面目に訓練校で2年学んで、ようやくここに立ってるって言うのによ」
「おい、喧嘩はよせ。同じ二年なのは変わらないだろ。ほら飯が冷めちまう」
二人の間に腕を差し込み話を逸らそうとするオーティスに、ダニエルはその腕を振り払い、苛立ったように問いかける。
「……っ同じなわけあるか!犯罪が黙認されてるVoidにいた奴のこれっぽっちの二年と俺たちの二年は土台が違うんだよ!もし、何か問題を起こしたら? 何も起きなくても前例を作ればいつかは……」
「ダニエル」
ヒートアップするダニエルを遮る声が食堂中に響いた。
ため息を漏らし、皿の中をかきこむように平らげると、トレーを持ち、椅子を引いて立ち上がる。
「不安なのはわかる。お前だけじゃなく、ここにいるみんながそうだ。」
そう言いながら、彼の視線は無意識に自分の手へ落ちた。
「だけど、それ以上に市民が一番混乱してる。オーダーが構えて無くてどうするんだ」
その背中を、ジョシュとダニエルはそれぞれの思いで見送ったが、彼は振り返らなかった。
返却口へとトレーを滑らせ食堂を出ると、整然と並べられたセキュリティゲートを通り抜ける。
IDが自動で読み取られ、ゲートが音もなく開いた。
「……はぁ」
夜の外気が頬に触れた瞬間、微かに呼吸が深くなる。
やけに湿度のある風がユニフォームの裾をはらりと揺らした。夜空には人工的に輝く衛星がゆっくりと自転し、複数の軌道灯が点在している。
駐輪スペースの奥へ向かうと、オーティスのホバーバイクが冷たく光を返す。
キーを回すと、インジケーターが静かに緑に点滅した。
低く唸るようなエンジン音が響き、跨るとひとつ呼吸を整える。
ホバーバイクが地面から離れると、グリップを握り込み発進させた。
スカイウェイに乗れば、高層ビルの間を滑るように走る光の道が前方へと伸びている。
下から吹き上げる風はやや強く、光の粒が目の端をかすめていく。
「……任命式か」
そう独り言をつぶやき、ホバーバイクは帰路を急いだ。
マンションの自動ゲートに差しかかると、駐車区画にバイクを滑り込ませ、エンジンを止める。
街の喧噪は一気に遮断され、石畳の上を歩く足音だけが響いた。
エレベーターを横目に階段を昇る。
9階まで、オーティスは息を乱すことなくフロアに上がり、いくつかのドアを通り抜け家までたどり着くとセキュリティロックを解除しドアを開けた。
室内に足を踏み入れると、センサーが明かりを灯し、柔らかい照明が空間を照らす。
時計を確認して息をつく。
彼は服を脱ぎながらベッドに倒れ込むように身を沈め、目を閉じた。
「なにも起こらないといいんだけどな……」
ざわつく心の中を抑えるように深く静かに呼吸した。
外では夜風に乗って走行音が微かに聞こえていた。




