第12話-1:星の記憶の断章
エレベーターの中、昼の光が斜めに差し込み、ゆっくりと上昇していく箱の中を淡く満たしていた。
ガラス越しに見下ろすD.R.A基地は、浮遊島の縁に沿って高い壁の層を成し、鈍色と黒の構造体が幾何学的に重なり合っている。
その景色をぼんやりと眺めながら、ヴィンセントはふと、これまでの出来事を振り返っていた。
裂け目から発見されてから、十数日。
そのほとんどを、行方不明者として、あるいは患者として過ごしてきた。
発見時、全身は血に塗れ、記憶も、持ち物も、素性もなかった。
残されていたのは、あの声。
持たざる者かと思えば、手にしていたのは、制御のしようもない力だった。
空間を越え、時間を越えるNova。
“時間遡行”と“空間跳躍”という、Dualですら説明しきれない異質な能力。
いま手元にあるのは、名前と、この力だけ。
なぜ、歪流エネルギーの干渉を受けないのか。
なぜ、裂け目の内部でマスクもなく生きていられたのか。
なぜ、血だらけで見つかりながら、致命傷はひとつもなかったのか。
なぜ、裂け目に入る前の記憶がないのか。
そして──あの裂け目の奥で聞いた声は、一体、誰のものだったのか。
エレベーターの機械音が、低く鈍く鳴った。
扉が開き、光と空気が切り替わると、ヴィンセントは一歩廊下へ踏み出した。
背後でパシュッと扉の閉まる音がする。
思考を断ち切るように、視線を前に向けると長い廊下が伸びていた。
向かう先は、メルのオフィスだ。
「もうメルさんは中でお待ちかもしれませんね。」
そう独り言を漏らし、歩幅を広げ先を急ぐ。
廊下を歩きながら、胸の奥に沈殿する重さを振り払うように呼吸を整える。
「ここでしょうか。」
やがて、目的の扉の前に立つ。
内側から装置音や紙をめくる音が聞こえてくるはずだ。
──静かすぎる。
ノックしようと伸ばした手が、ふと止まった。
扉が、わずかに開いていたのだ。
違和感が、背筋をなぞる。
慎重に隙間から中を覗き込むと、
見えたのは想像していたものとは遥かに遠く、整然としたオフィスではなかった。
床に散乱した書類と転がった装置の部品。倒れた椅子と、崩れ落ちた書棚の一部。
まるで、争ったかのような形跡。
ざわり、と全身の毛が逆立つように嫌な予感がよぎった。
警戒心が即座に神経を張り詰めさせる。
ヴィンセントは静かに扉を押し開け、音を立てないように室内へ足を踏み入れた。
四方の壁には、天井まで届く本棚が隙間なく並び、ガラスケースの中には、朽ちかけた地図や遺物、色褪せた紙片、手書きのメモが丁寧に保管されている。
床一面には、判別不能な素材の紙、読みかけの本、剥き出しのノート端末などが無造作に散乱している。
ここが、ただの執務室ではなく、彼女の思考と記憶の集約点であることが、一目で分かった。
視線を走らせながら、ゆっくりと歩を進める。
床に散らばった物を踏まないよう注意し、音を殺し、息を浅く保つ。
ふと、壁に飾られていた、鞘に納められている一本の剣が目に入った。
反射的にそれを手に取り、いつでも抜けるよう構えながら、さらに奥へと進む。
すると、奥の半開きの扉の向こうから、かすかな物音がした。
「……!」
足を止め、重心を落とし、剣にかけた手を握り直し力を込める。
呼吸を整え、視線を扉へと固定する。
だが、次の瞬間、扉の奥から気の抜けた声が聞こえた。
「んー、どこにやったのかしら……」
拍子抜けするほど、のんびりとした声。
続いて姿を現したのは、金髪を無造作に結び直し、ぶ厚い円形レンズの眼鏡をかけた一人の女性だった。
趣味に没頭するあまり、髪の乱れも裾にある止め糸のほつれすら気にしていない様子の女性。
その手には、山のように積まれた本と紙束が抱えられている。
飛空艇の上で、官帽を被り指揮を執っていた彼女からは想像もつかない姿で。
「メル…さん…?」
ビーーッ!!ビーーッ!!
≪未登録の熱源を検知。侵入者を発見しました。≫
≪セキュリティプロトコルを起動します。基地内の全Argoへ。監視網を収縮し、ただちに──≫
入口付近のパネルから、機械的な音声が響く。
「えっ、ちょ、待って待って待って!!」
メルは慌てて振り返り、入口へと駆け出した。
その勢いで、抱えていた本の山が崩れ、床に雪崩のように散乱する。
「きゃっ、あっ、ちがっ……!違う!!止めて止めて!!」
転びそうになりながら、彼女はパネルに飛びつき、手のひらを押し当てる。
――ピッ……スキャン中。
≪おかえりなさいませ、メル艦長。≫
柔らかな合成音声が部屋中に響いた。半開きだった扉が静かに閉じていく。
≪認証プロセスを開始します≫
≪─来客登録、「種別D.R.A:Vincent」確認完了─≫
警報音が止まり、空気が静まり返った。
「……ふぅ……危なかった…」
深く息を吐いたメルは、ゆっくりと振り返り、ヴィンセントを見て、ようやく状況を理解したように目を瞬かせた。
「ふふっ、ごめんなさいね。分からないのも無理ないわ。普段はコンタクトなの。人前じゃちゃんとしてるのよ、いちおう。」
「その方が、ずっと自然ですね。」
彼女は眼鏡のフレームをカチリと弾くように指先で叩いた。レンズ越しに見える翡翠色の瞳が、まっすぐ彼を見つめている。
ヴィンセントが小さく漏らすと、メルはどこか嬉しそうに微笑んだ。
「ところで…この部屋、戦場の跡のように見えますが…」
「ああ、ちょっと資料を探してたら、ね。……あら?“ちょっと”じゃないかもしれないわね」
メルは誤魔化すようにそう言いながら、足元の紙を踏まないように器用に避け、倒れた椅子を起こそうとして、途中で諦めた。
そして、代わりに手近な書類の山を片手で抱え上げ、壁際の机の端へ無造作に積み直す。
「ごめんなさい、散らかってて。今、座れる場所を……あ、そこはダメね。そこも……ええと……」
視線が部屋の中央へと移る。
そこには、低めのローテーブルを挟んで向かい合うように配置されたソファがあった。
一つは一人掛け、背もたれの角がまだ鋭く、座面も沈みも少ない、新しさの残るもの。
もう一つは古いものらしく、横長の多人数用で、本来なら数人が腰掛けられるはずの広さを持っているはずだった。
しかし現実には、そのソファの上は、まるで書庫の延長線にあるようだった。
背もたれに寄りかかる形で積み上げられた古文書、表紙の擦れた研究ノート、ページの角が折れた資料束、開きっぱなしの端末。
もはや“座る場所”というより、“物を置くための台”と化している。
「ああ、やっぱりこっちは無理ね」
メルはあっさりそう言うと、多人数用ソファに近づき、両腕を使ってその上の本と書類をどっさりと抱え上げた。
「ちょっと待っててね、今どけるから。はあ…もう全く誰がこんなに散らかしたのかしら。……私ね、間違いなく。」
そう言いながら、抱えきれなかった紙が床にばらばらと零れ落ちる。
それでも構わず、メルは机、棚、ローテーブルの端へと、次々に資料を移動させていく。
ローテーブルの上には、すでにいくつかの端末と古い地図が置かれていたが、その上にさらに紙束が積み重ねられ、テーブルの輪郭の半分はすぐに見えなくなった。
「……本当に、ここで仕事をしているのですか。」
「ええ、もちろん。ほら、ほとんどの時間は座っているしね、移動しないから周りに置いちゃうのよ」
さも当然のことのように言いながら、メルはようやく多人数用ソファの座面を半分ほど空けた。
「よし、と。これで座れるわね」
「座れませんよね、それ。」
「大丈夫大丈夫。慣れてるから。ヴィンセントくんは心配性ね」
慣れている、という言葉の意味が分からないまま、ヴィンセントは黙ってその光景を見守っていた。
やがてメルは、一人掛けソファの方にちらりと視線を向ける。
「ヴィンセントくんは、そっちに座って。こっちは私のいつもの席だから」
そう言って、多人数用ソファに自ら腰を下ろす。
ヴィンセントもまた、言われた通り一人掛けソファの前に立った。
座面に触れてみると、弾力があり、ほとんど沈まない。
使い込まれた痕跡がなく、まるで誰かが座ることを想定されていないように思えた。
その新しさと、部屋の荒れ具合の対比が、妙にちぐはぐに感じられる。
「ここ、あまり使ってないんですね」
「ええ。ほとんど物置ね。……あ、でも、今日はちゃんと使うわよ?」
そう言って、メルは冗談めかした口調で口に手を当てて笑った。
彼女の小さな笑い声を聞きながら、ゆっくりと腰を下ろす。
背筋を伸ばすと、ローテーブル越しにその奥に座るメルの姿が見える。
「……さて」
メルが、ふと口を開く。
「あなたが遅れた理由を話してもらおうかしら」




