第11話:Novactor
「時空を越えた」――その言葉は、空気の中に溶けず、重い塊のまま冷たい胸に落ちてきた。
言葉を反芻するほどに、現実感は剥がれていく。
「……時空、を……?そんなことができるんですか?いくらなんでも飛躍しすぎでは…。」
そう反論の言葉を並べようとするが、あの映像とあの感覚を説明するには十分すぎる。
移動、ではない。回避、でもない。
時間と場所の両方に、同時に触れたということ。
「一体……」
問いは、声になりきらないまま宙でほどけた。
ユベルはスクリーンの光を背に、穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷く。
「君は“距離”を越えただけではない。“時間”も越えたのさ」
無意識に一歩後ずさる。
背後に冷たい壁の感触が伝わり、初めて自分が息を止めていたことに気づいた。
「あり得ない…いくら何でも人間にそんなことが、できるわけが……」
ユベルは、ただ当然の事実を語るように、静かに続けた。
「メル艦長や総司令官は教えてくれなかったのかい?…まあ無理もないか。
"あり得ない"という言葉は、これまでの理論の内側にしか存在しない。だが君は、裂け目の中から現れた時点で理論の外側に立っているんだよ。調律官くん」
研究室の機器が、低く規則的な稼働音を響かせる。
ホログラムの光が、ユベルの白衣とヴィンセントの制服の境界線を淡く照らしていた。
「調律官…?以前もその言葉を───」
言葉は途中で遮られた。
「君は、裂け目の中で飛空艇とその搭乗員全員を、ひとつの“状態”として捉え、それを丸ごと別の"場所"へ移した。時間も、空間も、存在の連続性も、一括で…という事になる」
「……私は、そんなことをした覚えは」
「覚えがない、というのが重要なんだよ」
杖を床に軽くつきながら、一歩近づく。
「無意識下でそれを行った、という事実こそが、君のNovaの本質を物語っている」
僅かに視線を落とす。
自分の手が、わずかに震えているのが分かった。
ユベルは、しばらく黙ってヴィンセントを見つめていた。
その視線には、観察の色も、評価の色も、憐れみの色も、すべてが微妙に入り混じっている。
「さぞ、恐ろしいだろう。だがね、ヴィンセント君――恐ろしいのは“力”じゃない。それを理解していないことだ」
ヴィンセントは、ゆっくりと顔を上げた。
「理解していない…そうですね。」
「君はすでに、一度誰かを救い、同時に壊し得る位置に立っている。
あの時は運がよかった。下手をすれば5日どころか一か月…一年…100年だった可能性もあるんだよ。それにもかかわらず、自分がなにを持っているのか、なぜそれが起きたのかを知らないままでいる」
声は慰めるようでありながら、逃げ道を塞ぐようだ。
「知らないということは、無垢であると同時に、無責任でもある」
その言葉が、静かに胸に刺さる。
ヴィンセントの仮面のように崩れる事のない表情が、ほんの一瞬絶望に歪んだ。
「…………100年…そんなことが…。
もしも、ユベルさんの言う通り、私が時空を越えられるとして…この力は……」
関節が白くなるほど、拳を握りしめる。
自分でも驚くほど、その声は震えていた。
だが、ふいにオーティスの言葉が頭を過る。
「その問いを持てたこと自体が、君がまだ“人間”である証だよ」
彼は、杖を片手に、研究室の奥へとゆっくり歩き出した。
ガラス越しの装置群、培養槽、浮遊するホログラムパネルの間を縫うように進みながら語る。
「Novaを持つ者はNovactorと呼ばれ、そのNovaには個人差がある。あの艦長に聞いたはずだ、それは君も知っているね。
元素系は人口で最も多く55%を占め、身体操作系は25%、物理概念系は12%、精神干渉系は6%……大きく分類され、その中でさらに細分化される」
ユベルは、壁に投影されたスクリーンの前で足を止め、軽く振り返った。
そこにはグラフが複数並んでいる。
「そして、ごく稀に、二つのNovaを同時に保持する者がいる。“Dual”と呼ばれる存在だよ」
「Dual…二重…二つの能力ですか?」
「その通り。例えば、かつてオーダー機関に所属していたある人物は、水の操作Ⅰ型と生成Ⅲ型を併せ持つ優秀なDualだった。
また、全く違う系統として、身体操作系と元素系である風を同時に保持する例もある。だがね、彼らでさえ“時間”には触れていない」
その一言が、研究室の空気を一段、冷たくした。
「君の能力は、Dualという枠組みですら説明が足りない可能性がある」
ユベルは、ゆっくりとヴィンセントに近づき、背骨をできるだけ伸ばして視線を合わせた。
「君は、救った存在であると同時に、世界を壊し得る存在でもある。その二つは矛盾していない。両立しているのだよ」
確かに、イプシロン隊は生きて戻った。
誰一人、裂け目に飲み込まれず、ここにいる。
だが――
もし、同じことが、もう一度起きたら。
もし、その“越境”が、別の結果をもたらしたら。
ユベルは、わずかな沈黙ののち、穏やかな、だが逃げ場を与えぬ声で言った。
「だからこそ、知るべきなんだ。君の力の正体を」
「その限界を」
「そして、君自身が“何者なのか”。"起源"はどこなのかを」
ユベルは、微笑んだまま、ほんの少しだけ声のトーンを落とす。
「知らないまま怯えるより、理解した上で震える方が、まだ誠実だとは思わないかい?」
研究室の奥で、機械が低く鳴る。
ホログラムの光が、ヴィンセントの影を静かに長く伸ばした。
彼がただ黙って拳を作り、言葉を咀嚼しているのをみて、ユベルの口角に刻まれた皺が深まった。
「君は…ふむ。23歳か25歳前後と言ったところだろう。突然Novaを発現して戸惑うのも無理はない。本来は15歳までに発現してコントロールできるようになるものだ。
Novaは、この地が与えてくれた贈りもの。ならば、それを正しく研究し、正しく使うことは、人類の義務だと私は考えている」
その語りには、揺るぎのない信念がある。
「さて、そろそろここに連れてきた理由を話そうか。君に協力したい理由は一つだよ。
裂け目の中から“5日後”に帰ってきた。もし、未来に行けるのなら、過去にも戻れる可能性があるのではないか?
私は今の世界を壊すつもりはない。ただ……もし戻れるのなら、“あの時”に、もう一度だけ触れられるかもしれない。それだけで、意味があると思っているんだよ」
ユベルは一瞬だけ、微笑みを消した。
「若い頃、助手がいた。彼は独立して、裂け目の探索に向かったが、帰還を待つ時間が間に合わなかった」
「私は彼を救えなかった。
だが、過去に戻れたとしても、未来を変えるつもりはない。
それでも──戻れる可能性を、否定したくはないんだ」
少し間を置いて、ユベルは穏やかに言った。
「私は、君の力を理解したい。制御できるように私はNovaの研究者として協力しよう。
それは、君自身のためでもあり、そして……私自身の、"未練"のためでもある」
ヴィンセントは、しばらく何も言えなかった。
拳に込めていた力を、ゆっくりと解く。
「……正直に言います。」
顔を上げ、ユベルをまっすぐに見た。
「貴方の話は、どれも理解できます。私自身がこの力を恐れていることも、制御できなければ、誰かを傷つける可能性があることも……否定できません。」
息をひとつ、深く吸う。
「しかし……私には、ここで独断で決める権利はありません。私はまだ、D.R.Aの監視下にあり、メル艦長の部下です。
私一人の判断で、自分の身体や能力を、どこかに預けることはできない。」
ほんの一瞬、視線を伏せる。
「だから、今は答えられません。ただ――」
一歩だけ、ユベルに近づき見下ろした。
「逃げるつもりもありません。
この力と向き合う必要があることは、理解しています。」
そして、静かに言う。
「時間をください。それが終わったあとで、改めて……私自身の言葉で、返事をします」
ユベルの口元に、ほんのわずかな満足の色が浮かぶ。
だがそれは、すぐに穏やかな微笑みに溶けた。
「それでいい。今日は、それだけでいい。答えは、今すぐでなくて構わないよ」
微笑みを向けると、背を向け杖に頼りながら歩き出す。
その言葉を残して、ユベルは研究室の奥へと姿を消した。
ヴィンセントもまた踵を返す。
エレベーターの扉が閉じる音が、低く、鈍く響く。
機械音。
ホログラムの微かな光。
そして、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。




