第10話:飛空艇の行方
退院許可が下りたのは、その翌朝だった。
医療棟の天井に走る光のラインが、夜明けとともに淡く色調を変えている。
僅かな眉の動きさえも反射させてくる無機質な床を見下ろしながら、ヴィンセントはベッドの縁に腰掛けしばらく動けずにいた。
身体は回復している。幻聴も頭痛もなく、神経反応も数値も、すべて“正常範囲”に収まっている。
だが、感覚の奥底には、まだ裂け目の中で聞こえた声と、あの灼けるような熱が沈殿したままだった。
呼吸をするたび、肺の奥に冷たい空気が流れ込む。その感覚だけが、現実に戻ってきた証のように思えた。
〈────ヴィンセント〉
裂け目の中で起きたこと。
胸がざわめくあの声。
突然、裂け目が急速に閉じ始め、空間そのものが潰されるように歪み、飛空艇が悲鳴のような振動音を上げて疾走したあの瞬間。
計器が狂い、通信が途切れ、乗員の叫び声と警告音が重なり合って、世界が崩れる音だけが響いていた。
あの瞬間、自分の内側で“なにかを越えた”という感触だけが、異様なほど鮮明に残っている。
膜を破るというより、卵同士がぶつかり合って、殻ごと砕けたような。
境界が消え、内と外の区別が失われたような、不思議な感覚。
それは救いだったのか、暴走だったのか。
あるいは、そのどちらでもなかったのか。
「出る準備、できてる?」
ドア越しに聞こえたメルの声に、短く返事をする。
「はい。」
ベッドから立ち上がり、備え付けのロッカーから紺色のジャケットを取り出して腕を通す。
しっかりとした布の重みが肩にのしかかり、現実という感覚が身体に戻ってきた。
袖口を整え、襟元を正す。その一つ一つの動作が、指定された場所に戻るための儀式のようだった。
医療室の扉が開く。
白い廊下の先には、慌ただしく行き交う看護師、人工光に照らされた無数のライン、整然と配置された隔壁が続いている。
その場で、メルが立ち止まり、ポケットから薄型の端末を取り出した。
「はい、これ。」
「……?」
「D.R.Aからの支給端末。復帰祝いってことで。位置情報、バイタル、通信ログ、全部同期されるわ」
ヴィンセントの手のひらに、軽い重みが落ちる。
「ありがとうございます。」
そう答えながらも、ヴィンセントはその端末をじっと見つめていた。
まるで、見えない鎖を渡されたような感覚だった。
その時、メルの腕輪型端末が短く振動する。
「……」
表示された名前を見た瞬間、彼女の表情がわずかに引き締まった。
「ちょっと待ってて」
数歩離れた場所で通信を受ける。
声は抑えられているが、明らかに言い争いをしているように見える。
「……はい、グラディウス総司令官。ええ、退院許可は正式に下りています。いえ、その件については、既に報告書にも……はい。
監視強化は理解しています。でも、隔離は現実的ではありません。……いいえ、危険性の評価は承知しています。ただ――」
一瞬、言葉を切り、メルは深く息を吸う。
「ただ、彼がいなければ、イプシロン隊は今ここに存在していません。それは事実です。彼が私の部下を救ってくれたことに目を逸らせと言うんですか。」
通信が切れる。
メルはゆっくりと戻ってきて、近くのテーブルに端末を置いた。
「……ちょっ…と、こっち来てくれる?」
タップ操作と同時に、空間に淡い光の円が浮かび上がる。
ホログラムが展開され、その中心に現れたのは、円卓と、その奥に座るひとりの男の姿だった。
厳格な輪郭、鋭い眼差し、軍服のような制服。
D.R.A総司令官、グラディウス。
無言の圧力が、空気そのものを沈ませる。
『――裂け目の男…か。』
低く、硬質な声が響いた。
『貴様の現在の立場を、正式に通達する。』
ヴィンセントは背筋を伸ばし、視線を正面へと向けた。
『貴様は引き続き、イプシロン隊に配属される。ただし、通常の隊員とは扱いが異なる。引き続き監視対象だ。メル艦長より、定期的かつ詳細な報告を受ける体制を敷いている。』
一拍、沈黙。
『裂け目〈Δ-295〉内部における貴様の行動により、D.R.A内部はイプシロン隊不在の5日間、深刻な混乱状態に陥った。貴様が艦隊を掌握した、あるいは意図的に裂け目を利用したという仮説も検討された。』
ヴィンセントの指先が、わずかに強張る。
『だが――。イプシロン隊が裂け目閉鎖後に帰還した事実、そしてメル艦長の詳細な証言により、現時点では“敵性行動”の意図は否定されている。
しかし、裂け目が閉じた後に帰還した隊員の前例は、D.R.Aの記録上、存在しない。貴様の存在は、我々にとって“未定義”の領域にある。』
円卓の中央に、淡く光る記録の断片が投影される。
過去の飛空艇の消失、再出現、残酷な光景――その全てが、多くの事例として並べられている。
『貴様がいなければ、イプシロン隊は今頃、訓練校の教本に“殉職事例”として並べられていただろう。』
その言葉は、評価であると同時に、重い責任の宣告でもあった。
『だが、それをもって、貴様への警戒が緩むことはない。我々は同時に監視し続ける。』
翡翠色の視線が、ヴィンセントを射抜く。
『覚えておけ。貴様は守られているのではない。管理されているのだ。』
その言葉を最後に、ホログラムが静かに消える。
空間に残ったのは、機械音と、わずかな残光だけだった。
メルはしばらく動かず、やがて大きく、長いため息を吐いた。
「……はぁ…」
肩の力が抜け、いつもの表情に戻る。
「びっくりした?」
「……正直に言えばそうですね。」
「でしょ」
彼女は苦笑し眉間をつまんでから、ヴィンセントを見る。
「でもね、悪い人じゃないのよ。グラディウス総司令官。顔と声と立場が怖いだけで」
そう言いながらも、彼女の目には、かすかな疲労と安堵が混じっていた。
「あなたを切り捨てる選択肢も、内部では検討されてた。でも、私はそれを許さなかった。あなたが何をしたか、じゃなくて、どういう状況で、どういう意志でそれが起きたか――それを、私は見てたから。
さ、行きましょう。復帰後初任務は書類整理。部隊を救った復帰直後の仕事にしては、地味すぎるけどね。」
その言葉に、ヴィンセントはわずかに口元を緩めた。
「肝に銘じます。」
長い廊下を抜け、複数のセキュリティゲートを通過してD.R.A本部のロビーへと向かう。
足音が金属床に反響し、天井の高い空間に吸い込まれていく。
外の世界へ戻る、その境界線の直前で、ヴィンセントの足取りは自然と重くなっていた。
胸の奥で、見えない重りが揺れているような感覚がある。
「それじゃあ、私はセリカ博士に用があるから、先に向かってて?
きっと中は慌ただしいかと思うけど、エレベーターに乗ってまっすぐ向かうこと。いいわね?」
指を立てて冗談めかしく言い、メルは踵を返す。
本部に隣接する、ピラミッドのような形状をした研究棟の中へと、その姿は吸い込まれていった。
一呼吸おいて、D.R.A本部のロビーへと足を踏み入れる。
──だが、すぐに足は止まった。
そこには、無数のフラッシュとマイクを構えた記者たちの群れが待ち構えていたのだ。
壁付けの照明に照らされ、金属のマイクヘッドがぎらりと鈍く光る。
紺色の制服を視認した瞬間、獣が獲物を見つけたかのように、視線が一斉にこちらへ集まった。
「イプシロン隊の航宙士ですね!?裂け目内部で何があったんですか!?」
「新人航宙士のNova暴走報告は本当ですか!!」
「ギュネオスが意図的に閉鎖したとの情報も入っていますが──!」
獲物に群がるように殺到するメディア。
マイクが突き出され、フラッシュが連続で瞬く。
空気は一瞬で、息苦しいほどの熱を帯びた。
慌ただしいとはこのことか。
「…私からはなにも言えません。通らせていただきます。」
声は自分でも驚くほど平坦だった。
一歩踏み出した、その刹那。
コツ、コツ。
重く乾いた音が、ロビーの喧騒を切り裂くように響いた。
硬質な床に刻まれる、不規則な杖の音。
その音とともに、空気が変わった。
群衆を裂くようにして現れたのは、白衣に身を包んだ年配の男だった。
白髪を整え、背筋を丸めたその姿は、穏やかな静けさをまとっている。
口角を引き延ばすように微笑みながら、まるで旧友に再会したかのように自然な所作で、ヴィンセントの背中に皺だらけの手を置いた。
記者たちのざわめきが、わずかに質を変える。
「……あれユベル博士じゃない…?」
誰かが小さく名を口にする。
フラッシュの向きが、一斉に切り替わった。
「ユベル博士!?」
「Aevum医療財団のユベル博士ですよね!?」
「博士、今回の裂け目事故について、医療的見解を──!」
「Novaの暴走と生還の関係性について、何かご存知なんですか!?」
「市民への影響は!?Aevumとしての声明は!?」
さきほどまでヴィンセントに向いていたマイクと視線が、今度はユベルへと集中している。
空気は、詰問から“期待”へと、色を変えていた。
だが、その端で若い記者が戸惑い混じりに小さく漏らす。
「……なんで、みんな驚いてんすか?ただの杖持ったお爺ちゃんにしか見えないっすよ」
それを聞き逃さなかったのか、隣にいた年配の記者が、コツンと若者を軽く肘で小突いた。
「いてっ…」
「お前、知らないのか?あのユベル博士だぞ。D.R.A基地を覆っている多層可変バリアを設計した張本人だ。」
「……ええ?」
「バリア自体は昔からあった。だが、飛空艇の航路に合わせて部分的に開閉し、しかも歪流エネルギーの影響を減衰させる制御機構を組み込んだのは、博士が初めてだ。
裂け目航行時の幻覚、錯乱、神経誤作動――それらの発生率が激減したのは、あの人の研究成果だ。」
「マジすか……」
若い記者が、言葉を失ったように口をあんぐりと開ける。
「それだけじゃない。D.R.AとAevumの医療連携体制を確立したのも博士だ。裂け目事故の救命率を三割引き上げた功績で、評議会表彰も受けている。
市民にとっても、現場にとっても、命を守る側の凄い人なんだよ。」
そのやり取りを、ユベルは聞いていないはずがなかった。
だが、彼はただ、穏やかに微笑んだまま、ヴィンセントの背に添えた手を少しだけ動かし、静かに言った。
「恥ずかしいね。若いころの話さ。さて、今は彼を連れていく役目のほうが大事だ。
彼は療養明けだ、そっとしておいてあげてくれるかい?」
ユベルは、その視線の中心に立ちながらも、慌てる様子もなくただ穏やかに微笑む。
誰かが、敬意を込めた声で言った。
「……博士がそうおっしゃるなら…」
ざわめきは残りながらも、空気は明らかに沈静化していた。
「…ユベルさん。」
「ご無沙汰だね、ヴィンセント君。さあ、こっちだ。
メディアの皆さん、今日は悪いがお引き取り願おう。」
そう言って、ユベルはヴィンセントの背中を優しく押すようにして、ロビー奥のエレベーターへと導いた。
戸惑いと警戒が胸を過るが、今は抗う術も理由も見つからない。
流れに身を任せるように歩き、背後で記者たちのざわめきが遠ざかっていく。
エレベーターの扉が閉じ、重厚な金属音とともに外界の視線が遮断された。
「ありがとうございます。」
ユベルが操作パネルに、震えがちな皺だらけの指先を軽く当てると、ゴウン、ゴウン、と低い振動音を立てて、エレベーターは上昇を始めた。
ヴィンセントもまた、メルのオフィスのある階を選択しようと手を伸ばす。
だが、その腕を、ユベルの杖が弾くように叩いた。
「……っ…?なにを…」
沈黙ののち、ユベルは薄く笑みを浮かべる。
「礼を言われるようなことはしていないよ。
15分でいい。生い先短い老人の戯れに付き合ってくれるかい?」
返事をするよりも早く、チン、と電子音が鳴り、エレベーターが停止した。
重い扉が開く。
そこに広がっていたのは、無機質な白い壁と冷たい照明に満たされた空間だった。
天井には幾何学模様のように配線が走り、床には微細な発光ラインが交差している。
ガラス越しの区画には、宙に浮かぶホログラムパネルや、自律型の補助ロボットが、静かに動き回っていた。
培養槽の中では、青白い光を帯びた溶液がゆっくりと循環し、壁面の装置群からは、低く持続的な稼働音が流れている。
空気は冷たく、消毒剤と金属と、わずかな薬品臭が混ざった匂いが、鼻腔を刺激した。
「ここはD.R.Aと我々Aevumが、協定のもとに設けたラボだ。」
足を止め、ヴィンセントは警戒を露わにしてユベルを睨む。
「何の目的で私をここに?」
杖の音を鳴らしながら、くるりと背を向けたユベルは、まるで孫に語りかけるような穏やかな口調で言った。
「そんなに警戒せんでくれ。君は、飛空艇の上で何を起こしたのか──それを、本当に知らなくていいのかい?」
その言葉に、ヴィンセントの心が揺れる。
Novaの暴走。
耳の奥で響いた、あの“声”。
煮え返るような熱。
「さあさ、この映像を見たまえ。」
ユベルが操作パネルに杖の先を当てると、正面の壁が淡く発光し、ホログラムスクリーンが展開された。
室内の照明がわずかに落ち、白い研究室の輪郭が、青白い光の中に溶けていく。
映し出されたのは、東雲の空にぽっかりと口を開けた裂け目〈Δ-295〉。
映像はやや揺れている。微かにプロペラの回転音と、風切り音にも似た低いノイズが混じっている。
ドローンによる外部観測映像だと、すぐに分かった。
画面の右下には、淡い白字で日付と時刻が刻まれている。
――映像が進む。
飛空艇ペネトラの輪郭が現れる。
裂け目の縁が不規則に脈打ち、艦体の外装が朝焼けを反射しながら、ゆっくりと裂け目内部へと吸い込まれていった。
「……ここまでは、報告書通りですね。」
映像はそのまま流れ続ける。
時間表示が加速され、四時間後のログへと切り替わった。
すると、突如として裂け目の縁が歪み始めた。
空間が内側へと引き攣れ、まるで巨大な空の傷口が無理矢理縫い合わされるかのように、急速に閉じていく。
そして。
裂け目の奥、ほんの一瞬。
闇の中に、ペネトラの艦影がかすかに映り込む。
荒れ狂う空間の中、イプシロン隊の飛空挺がバリアもなしに裂け目の縁で必死に抗っている姿が映っていた。
だが、それはすぐに消え、次の瞬間には残酷にも裂け目そのものが完全に閉じていた。
そこには、ただ何事もなかったかのような蒼穹だけが残された。
「消えた…?」
「跡形もなく。裂け目が閉じると、そこにはなにも残らないんだよ」
映像は止まらない。
右下の時間表示が、さらに先へと進んでいく。
――111時間後。
星々が静かに瞬く、何もない夜空。
裂け目が存在していたはずのその座標。
突如として、空間が歪み、光の縫い目のような揺らぎが走る。
次の瞬間、まるで星空から“落ちてきた”かのように、飛空艇ペネトラが出現した。
艦体は、裂け目へ突入したときとは明らかに違っていた。
外装は裂け、装甲板は捲れ上がり、ところどころが焼け焦げ、艦尾からは不安定な噴射光が漏れている。
同じ船には見えなかった。
映像の中で、ペネトラはゆっくりと姿勢を立て直し、宇宙空間に漂いながら、かろうじて航行可能な状態を保っていた。
轟音とともにドローンは暴風に巻き込まれると、最後の映像は乱れ終了した。
その光景を、ヴィンセントは、ただ言葉を失って見つめていた。
「…メルさんは"記録は撮れていない"と言っていた。だが、貴方はこの記録映像を持っている。
裂け目〈Δ-295〉付近に監視ドローンを配置していたのは私を監視するためですか。メルさんが知らなかったという事は…貴方の独断ですか。」
ユベルは一瞬目を見開いたがすぐに細め、コクリと頷き穏やかに微笑んだ。
「見事な洞察力だね。」
暫く、なにも映さなくなったモニターを眺めて、乾いた喉奥から声を絞り出した。
「…裂け目が閉じて…そこから、一体どこへ行っていたんです……?」
ユベルは、ヴィンセントから目を離さず静かに頷いた。
「メル艦長と君を含む乗組員20名程度を乗せていた飛空艇ペネトラは、裂け目内部から消失し、111時間後、同一座標上に再出現した。裂け目は既に存在していない状態で、だよ」
ヴィンセントは、拳を無意識のうちに握り締めていた。
指先に、かつて感じたあの熱と圧力が、幻のように蘇る。
「……つまり」
ユベルがゆっくりと振り向く。
「君が、裂け目の内部から、飛空艇ペネトラと、そこに搭乗していた全員を――一斉に“移動”させた、ということだ」
静まり返った研究室に、その言葉が落ちる。
「これが君のNovaだよ。ヴィンセント君」
ユベルの声は穏やかだったが、その響きは重く、逃げ場のない真実のように、空間に沈み込んだ。
「……テレポートですか?」
視線を落としたまま、訝し気に低く問いかける。
だが、ユベルの答えは予想よりも遥かに重かった。
ユベルは杖を頼りに丸まった背を伸ばし、高らかに笑う。
「テレポートなら、星の数ほどNovactorがいる。しかし君のそれは違う。」
彼は、まっすぐにヴィンセントを見据える。
「君は――“時空を越えた”んだ。」




