第1話:裂け目の男
≪プロローグ:彼方より来たるもの≫
この世界の果てには
名を持たぬ空がある
時を飲みこみ、光を忘れ
夢と現が溶けあう裂け目──
そこに沈むひとつの形
誰にも祈られず
誰にも知られず
ただ、待ち続けていた
いつか
誰かの手が
闇を裂いて届くことを
それが希望であったかどうか
もう、思い出せない
それでも彼は
呼ばれる名のないまま
世界へ、帰還する。
深淵の中に光はなかった。
光そのものが飲まれ、輪郭を失い、世界という概念ごと呑みこまれていた。
この場所では、どちらが前か後ろかなんてすぐに不明瞭になってしまう。
すべての因果がほどけ、声も記憶も色彩も、ただ泡のように浮かんでは消えていく。
その時、ひとつの塊が静かに漂っていた。
指先は動かず、力は抜けて、胸の鼓動も限りなく希薄。生と死の境を揺蕩うように──眠っていた。
衣服は限りを越え、所々が塵と化してもなおその形を保ち、彼の肌はどこか人間離れした滑らかさと冷たさを帯びている。
魂の残響とも呼べる微かな脈動だけが闇の中で瞬いている。
遠くで名もなき声が忘れ去られた願いのように揺れるが耳では聞こえない。
けれど、確かに“何か”が、胸の奥底を打ち震わせる。
空間に大口を開けるような亀裂が走ると、不意に現れた黒の一筋が空を裂くように広がっていく。
機械の駆動音、金属の脚音、緊張をはらんだ電子音声。
それらは現実の響きであり、この無の世界には本来決して届かないはずだった。
「…なんだ…?」
暗闇の奥で白い影がゆらゆらと漂っている。
「まさか……生体データの反応…安定──急ぎ回収する。」
第1発見者である彼は眠り続ける男を深淵から掴み下ろした。
再び光が差し込み世界が反転する。
体は世界へ引きずり戻され、ずしりと重力が戻れば肺に空気が満たされる。
耳鳴りの後には周囲の喧騒が彼に帰還を知らせた。
だがその全てが、眠り続ける“彼”にはまだ、遠すぎる。
マスクを外し、救出された男の顔を静かに見下ろす。
均整のとれた白金の柔らかな髪は赤黒い血液と混ざってべったりと額に張り付いている。
どこか旧世界を思わせる服はどこもかしこも傷だらけで〈裂け目〉の影響のせいか一部は塵と化している。
驚愕か。畏怖か。あるいは安堵か。
刻を指す瞳には何が映ったのか。
「歪流エネルギーが上昇中!退避準備を──!」
それを確かめる間もなく、裂け目の男は担架に乗せられ運び出された。
「……っ、了解。搬送開始!」
身体が担がれ、現実の中へと運ばれていく。
けれど、まだ目は開かない。
何もかもを夢の中に置いたまま。
そして、裂け目は静かに閉じた。
その狭間に、いくつもの時間と記憶と、断ち切られた記憶を残したまま。
✧✧✧
光が差し込む。
どこからともなく瞼の裏を淡く揺らす。
光というには儚い、熱をもたないその粒は時を告げる鐘のように意識の表層を優しく叩いた。
「……」
遠い世界のざわめきが鼓膜の内側を擦っていく。
脈動が知らせる実感は、言葉よりも先に身体が自覚した。
だが、目を開ければ何かが崩れてしまいそうで、まぶたを持ち上げるのがやけに億劫に感じた。
目覚めたのは無機質な白に満ちた空間。
天井から吊られた薄明かり。呼吸音を監視する機械のかすかな電子音。
そして、清潔すぎる空気に混じるわずかな薬品と焦燥の匂い。
冷たい風が頬を撫で、次いで布の擦れる音。
周囲には脳波と心音を伝える機械が鎮座している。
シーツの皺と、無数に繋がれた管の感触が枷のように感じさせた。
意識はまだ靄の中にあるが、そこにある“ちがい”は、ぼんやりと分かる。
──ここは、あの場所ではない。
あの、境界の間ような底の抜けた世界。
重力も、時間も、感覚さえあやふやだった空間。
目を閉じれば、いまも耳の奥で囁きが続いている。
それが──あの場所だったのだと思う。
けれどそれ以上は、思い出せなかった。
すぐそば、ガラスの仕切りの向こうに人影が見えた。
二人、いや三人。白衣を着ている医務班と見られる人物たちが、低い声で何かを話している。
「……信──い。ほん─生き───のか?」
「身体の──成も、脳────常。だがこの反応は…」
「服装、あれ───のせい──ないか?本物ならあれは──前の──」
途切れ途切れのざわめきが遮断ガラス越しに届く。
その言葉の一つ一つはどうやら自分を指しているようだった。
「……目を覚ましたようだ」
ガラス越しの会話が止まった。
緊張を隠しきれない足取りで一人の人間が扉を開けて中に入ってくる。
けれど目の奥にだけ何かを“確かめたい”という色があった。
言葉を選ぶように、彼は口を開く。
「君は……"どこ"から来た?」
その問いに、声は返らない。
返すべき記憶が、もう彼の中に残されてはいなかったから。
ただ、その問いだけが、
何度も胸の奥で反響していた。
──どこから来たのか。いつから、そこにいたのか。
結局彼はそれに答えなかった。答えられなかったのだ。
何かを思い出そうとするたび、こめかみから刺すような頭痛が彼を襲っている。
顔を歪め視線を落とし目の横のくぼみを抑える彼を見た医師は看護師を呼び車椅子を用意させた。
「…まずは検査をしよう。君の反応から何か分かるかもしれない。」




