修行
修行
「父さん、Xを買いたいんだ。補助してくれないかな」
「Xって古楽器のXか。あんなものその辺で売ってるもんじゃないだろうに」
「ああもちろん。音楽学校やコレクターが所蔵しているぐらいだろう」
「そんなものをどうやって手に入れるんだよ。金がいくらあっても足らんぞ」
「ああ、だから買いたいというのはちょっと違うね。弾きたいのさ」
「そんなにXが弾きたいのか、チェロの前身だろう」
「X奏者は今や伝統楽器奏者の中では花形だよ。チェロ奏者なんて刺身のつまみたいなもんさ。Xを弾いてスポットライトにスタンディングオベーション、素晴らしいじゃないか」
「もちろん素晴らしいことだが、どうやってX奏者になるんだ」
「つまり僕はチェロの腕には覚えがある。Xを弾けるポジションにつければおのずとそれを弾けると言う訳さ」
「そういうことか。全くあてが無いわけでもない。ちょっと考えさせてくれ」
「たのむよ、父さん」
数日後……
「おい、Xを作っている工房がドイツにあるらしい。そこへ行けば弾ける可能性がある」
「どうやって」
「楽器を作るには、その楽器を有る程度弾ける人間でなければ作る資格が無い。その工房は弟子を募っている。弟子の選定にXを弾くという課題があるのでまずこれで弾けるだろう。そこですばらしい腕前を披露すれば、X奏者としてどこかの楽団か音楽学校から声がかかるかもしれない。かくして息子よ、君はX奏者さ」
「そんなにうまくいくものかな」
「少なくとも一度は弾くチャンスがあるわけだから。まあ話の後の方はおまけだけど、ただ一度のチャンスを存分に奏でるがよい」
「わかった。行ってみるよ」
ドイツにて……
「A君、君のXを弾く腕は素晴らしい。木工等の他の実技はあまり芳しくないが、それらを差し引いても弟子として迎えるに値する。是非ここでXを作る術を身につけないか?」
「マイスター、光栄の至りです。是非弟子にして下さい」
「しかしな、A君、修行の道は厳しいぞ、いきなり木を削らせてもらえるわけでもない、調理師で言えば何年も続く皿洗いから始まるんだよ。それを覚悟しているかい」
「ええ、もちろん。でもXを弾ける日もあるんでしょうね」
「ああ、楽器を作るには、楽器を知らねば、その為には弾かねば、だがそんなに多くの機会は無いぞ。短時間で楽器を知り尽くすのだ」
「わかりました。まずはXの奏法を極めます」
十数年後……
「A君、やったな。君もマイスターへ仲間入りだ」
「マイスター。あなたのおかげです」
「今日から君の作ったものはXと認められる。そこらの模造品なんかとは違う、本当のXだ」
「マイスター。私はこれからどうやって生計を立てれば良いのですか。X奏者になれますか」
「君の腕はX奏者と呼ぶには全く相応しくない。君はXを作るために試奏する能力は得た。だが音楽家になったわけではない」
「では、X製作者と看板を上げれば、仕事がきますか」
「否、君はまだスタートに立ったばかりだ。君は実績を積まなければならない。君はまだ私を継承するには至っていない。そうなるまでこの工房に残りなさい。私を継承するか私を超えれば君は独立したX製作者として世に認められ、注文は断るほど舞い込むだろう」
「そうですか。マイスター、実は私はX製作者ではなく、X奏者になりたかったのです」
「ああ分かっておったよ、でも君はスポットライトやスタンディングオベーションとは縁が無い。そういう素養のある人物ではなかった。だから私は君を弟子として選んだのだ。君に他に素晴らしい道もあるということを教えたかった。でもあの時点で君にそれを説いても聞くまい。長い年月を要した。君が本当に望んでいたものそれはXを奏でることではなくスポットライトとスタンディングオベーションだったということを今受け入れるかい?」
「マイスター。時間を下さい」
数十年後……
かつてのX奏者志望者は日本への帰路にあった。結局彼はX奏者でもX製作者でも無かった。彼の修行は無意味であっただろうか。失ったものそれは時間である。得たものそれは二流X製作者としての腕。こんな損得勘定が彼に何の意味をもたらすだろうか。修行に損得ほど噛み合わない算術は無い。彼の得たものは時間を失えたことなのだ。少なくともその間は希望と共にあったのだから。