6.ふと、目の前のコーヒーが目に留まった。
ふと、目の前のコーヒーが目に留まった。
カップに触れると、まだあたたかい。そっと口をつける。少しぬるくなったそれは、しかし、まだすばらしくいい薫りで、ものすごくおいしい。
幸か不幸か、今度は何も起こらなかった。
思わず息をついて、ソファの背に深くもたれる。
アルマジロは、気遣わしげにこちらをちらちらと見ている。
浮気疑惑——カタツムリには冷たく否定されていたが——の相手のわたしに対しても、随分優しい。
とんだ勘違い純情野郎だと思っていたが、根は悪いアルマジロではなさそうだった。
さっきとは少し違う、何ともいえないいい薫りが広がる。
店主がドリップを始めたのだ。
途端にアルマジロは、わたしのことなど宇宙の彼方にすっ飛んでいった様子で、カタツムリに釘づけになった。
意外に大きな口をだらんと開けて、つぶらな瞳をうるうるさせながら食い入るようにカタツムリを見つめる姿は、微笑ましくはあるのだが、どことなく危険な感じもする。
発言を思い返すと、このアルマジロは、店主に自分の卵を産ませようとしているようだった。いや、自分が店主の卵を産むつもりなのかな? どちらだったとしても、できるのだろうか?
失礼かとは思ったが、アルマジロはカタツムリの一挙手一投足を見つめてうっとりしているので、わたしはこっそりアルマジロの股間のあたりをうかがった。堅く丸い甲皮に覆われたおしりからは、同じく堅そうなしっぽが伸びているばかりで、肝心の部分はよく見えない。——見えたとしても、性別とか、諸々の生態が分かる自信はまるでなかったが。
店主のほうも、なにしろカタツムリなので、全体的にぷにょぷにょしているし、殻に隠れている部分もあるしで、どこを見ればいいのかすら全く分からない。
——うーん。もう少し、生物とか真面目に勉強しておくべきだったかな。
なんだかものすごくいけないことを考えている気はしたが、どうしても気になってしまう。わたしが密かに悶々としているうちに、アルマジロの分のコーヒーができたようだった。
アルマジロの分のカップは、カウンターの下のほうから出てきた。明るいベージュのつやつやしたカップに、同じ色のソーサー。ソーサーの手前には、なんと、小さい立体的なアルマジロがついている。
「かっ、かわいい〜!」
「だろぉ〜!」
思わず声をあげてカウンターに駆け寄ると、アルマジロがこちらを振り返ってでれでれと笑った。口のわきから舌がはみ出てしまっている。ちょっぴりだらしない顔のアルマジロは、得意そうに胸を張った。
「これ、俺専用のだからさぁ! へへへ、いいだろいいだろぉ〜!」
「いい、いい、すごくいい! それにいい薫り!」
まるで女子高生のように、わたしたちはきゃあきゃあと盛り上がった。
「へへっ、だろだろぉ〜! うちの農園の豆をさぁ、淹れてくれてるんだよぉ〜!」
「うちっつっても、お前は関係ないだろうが。」
店主がクールに突っ込む。
アルマジロは唇を尖らせた。
「俺だって最近じゃ家の手伝いも頑張ってるんだよぉ! あんたに言われたからさ、真面目に頑張ろうって!」
「そりゃ感心だけどな。」
カタツムリは、にょろりと目をあげた。
「いいコーヒーってのは、全ての積み重ねの上にやっとできあがるもんなんだよ。お前のオヤジさんとオフクロさんが一生懸命土地切り拓いて、土作って、苗世話して、コツコツやってようやくできたのがこの黒い宝石なんだ。お前の頑張りが実るのは、まだまだこれからの話だぜ。」
店主のぷにょぷにょした触手が注いだ、黒く輝くコーヒーの水面を、わたしとアルマジロは覗きこんだ。
「——へへっ、わかってるよ。」
アルマジロの黒い瞳がきらりと輝く。
「俺、まだまだ頑張るから! だから俺のこと、見ててくれよな!」
キリッと宣言するアルマジロを、カタツムリは困惑したように見つめた。
「まあ、コーヒーのことは、頑張れよな。
だけどな、うん……。
オレ言っただろ? アルマジロは卵生じゃないから、卵とかは無理だぞ、って。」
あれ? やっぱり無理なのか。
そこはなんか、うまいことやれるのかな、と思っていた。
しかしアルマジロは、あんまりよく分かっていない顔をしている。
「ランセイ? 何のこと? たしか言ってたのは、カタツムリとアルマジロだからって理由だろ?」
「それも言ったけど、ほぼ同じ意味なんだよ……。」
うん。わたしは、なんとなくわかった。
それに、卵生どうしだったとしても、遺伝的に遠すぎる生物同士だと、子孫を残すことはできないんだよ!——と教えてあげたいけど、この調子では多分わかってもらえなさそうだ。
「よくわかんねぇけど! 俺のこと嫌いだからってことぉ?」
アルマジロの目がうるうるし出した。
——あっ、どうしよう。泣いちゃうかもしれない。
店主も困った顔を——しているかと思ったが、どちらかというと、これは、面倒臭そうな顔だ。あー、またばっさりやられる流れだろうか。
ほんの少しだけかわいそうになり、わたしはアルマジロの背中をたたいた。ごつごつと、本当に堅い。まるで岩をたたいているようだ。
「まあまあ! せっかくの淹れたてのコーヒーが冷めちゃうよ! ほら、一口飲んで!」
そっと、可愛らしいコーヒーカップを差し出そうとした時だった。
「いいんだ! 俺なんか、俺なんかぁ!」
「あっ、」
勢いよくアルマジロが跳ね、スツールの上で丸くなった。本当に、真ん丸な球形だ。しっぽまでしっかりとしまわれているのが見事だ。
しかしその勢いと驚きで、わたしの手元のカップは揺れ、金褐色の美しいコーヒーが飛び散った。
「あんた!」
マスターの叫び声を聞きながら、わたしは運悪く顔面で、その雫と言うには少し多すぎるコーヒーを受け止めた。
「ぶごほぉ、ぶごほぉ!」
予想できていた、熱いということは。しかしまさか、鼻や口にまで入り込むとは思っていなかった。
熱い、と言うより痛い。わたしは顔面を押さえ、咳き込みながらその場にしゃがみ込んだ。
「だ、大丈夫か、人間!」
アルマジロの声だ。
「大丈夫なわけ、ゲホゴホォ!」
痛い。いい薫りのコーヒーだけど。おいしいコーヒーだけど。目や鼻に入ったら、痛いのだ。
顔面に、冷たいおしぼりが押しつけられる。これはきっと、店主だ。さすがの対応力である。
しばらくじっと顔を冷やすと、少しだけ痛みがましになってきた。
「え? お、おい、コレ、おい……、」
アルマジロが何やらもごもご言っているのが聞こえる。
なんだ、謝るならはっきり謝りやがれ。
こんの、勘違い魔法使いアルマジロ野郎がぁ!
あふれる怒りのままに、勢いよく顔をあげた時だった。
「あっ、」
わたしは、言葉を失った。
そこは、深い森だった。
無数の背の高い木々が空を覆い尽くさんとばかりに枝を広げ、あたりは薄暗く翳っている。そして黒く湿った土の上では、アルマジロが背中を丸めて泣きそうな顔をしていた。
「こ、これは、どういうことなんだよぉ!」
「あー……。」
わたしにも、よく分からないし説明もできないのだが。
わたしは、どうやら今度はこのアルマジロを道連れに、謎の森へとやってきてしまったようだった。
なんていうか、うん。
ごめん。
次回の更新は、5日の予定です。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!