4.店主はしばらく混乱しているようだったが
店主はしばらく混乱しているようだったが、やがて触手の先で眉間——というより目の根元だろうか——を押さえると、深く、深く、溜息をついた。
「悪ぃね、ちょっと俺も座らせてもらっていいかな。」
「もちろんです。」
わたしは、一も二もなく頷いた。
店主は、にゅるにゅるとカウンターから出てくると、わたしの向かいのソファによじ登り、するすると殻の中に体をしまった。ソファの上にころんと殻を載せ、顔だけをにゅるんと出す。
何だか、ユーモラスでかわいい。
「念のための確認なんだけど。あんた、海の方から来たわけじゃないよな?」
「えっ? えーと、違います。」
質問の意図を測りかねたが、多分違うと思ったのでそう答えた。
——違うよね?
人類の祖先が三億八千五百万年前に海から陸上に進出したとか、そういうことを聞いてるんじゃないよね?
わたしが内心混乱していると、カタツムリはまた溜息をついた。
「そうだよな、ごめんな。愚問だったわ。
あんた、本当にここのこと何にも知らなさそうだもんなあ。
これでも客商売だからさ、あんたが悪い奴じゃなさそうだってことは何となくだけど分かるよ。
——だから気が進まないんだけど。胸元のその丸いやつ、見せてくれない?」
胸元の、丸いやつ?
全く思い当たるふしがなく、慌てて胸元を見下ろすと、何やら、見覚えのないメダルのようなものが首にかかっていることに気づいた。
こんなもの、一体いつの間に身に着けていたのだろう。
「ここの身分証みたいなもんだけど、説明は受けたか? 初めての入管でリーフレットと一緒に配布されたんじゃないかと思うけど。」
背中をたらりと冷や汗が伝った。
当然のことながら、わたしは入管など通った覚えはない。
——もしかしなくてもわたし、不法滞在者かな?
カタツムリは、黒く丸い目でじっとこちらを見つめている。胸がどきどきするのは、その目が思ったよりもきらきらしていてかわいいからではない。
「こ、これですかね?」
震える手でそのメダルのようなものを外し、差し出すと、カタツムリはにゅるにゅるとそれを受け取り、器用に留め金のところをくる、くるりと回した。
途端、メダルの裏面がぱっと明るくなる。
「えっ?」
「こ、こりゃあ……!」
びっくりして思わず声を上げたわたしをよそに、カタツムリは真剣な表情で二つの目をぴったりくっつけ、じっとメダルを覗き込むと唸り声を上げた。
「こりゃ、実際に見ると、言葉も出ねえな。一部オレには読めねぇけど、なんて書いてあるんだ?」
「——あの、あの、ちょっと見せてもらってもいいですか?」
身を乗り出して光る面を覗きこむと、そこにはまるでホログラムのように文字が浮き出して見えた。
そこにはこう書かれていた。
『壁の****の卵』
——壁の、卵?
「わたしにも一部読めないところがあるんですけど。壁の卵って、何のことですかね?」
困惑して店主の顔を見ると、店主も困惑しきった顔でわたしを見つめ返した。
「なんだ、そりゃ。 俺に読める文字はさ、『勇者』だよ。」
「えっ?」
本当に、えっ?
◇◇◇
勇者っていうのは、あれだろうか。あの勇者だろうか。
ぱっと思い浮かぶのは、冒険譚やゲームなんかによく出てくる、魔王を打ち倒すことを最終目標として旅をする存在のことだ。最初期には、確か粗末な棒切れなどを振り回して戦いつつ、レベルや装備の質を上げていくものだったと思う。
けれどそんなものは、あまりにもわたしの存在とはかけ離れすぎていて、違和感が総出で大仕事を始めてしまった感がある。
「そもそもなんですけど。このメダルに浮き出てるのって、一体何なんですか?」
「あんたの職業だよ。」
店主は容赦無く告げた。
「このマイナンバー・タグには、持ち主に関するあらゆる情報が紐づけられてるんだよ。今表示されてるのは、あんたの職業。ここじゃ、職業が最重要視されるからな。
——いや、それにしても、この職業欄を見たのは生まれて初めてだぜ。」
店主はやや興奮気味だが、わたしは逆に気分が悪くなってきた。
考えるまでもないことだが、この職業の表示は正しくない。わたしはちゃんとした手順でこのマイナンバー・タグ——このネーミングもブラック・ジョークっぽくてなんか嫌だ——を手に入れたわけではない。わたし自身に記憶はないが、この国だか地域だかに不法侵入したときに、どこからかこのタグを不正に入手してしまったのではないだろうか。
わたしの脳裏に、あの謎の声が思い浮かんだ。
そ〜れ、という気の抜けるような掛け声とともに、わたしの顔面にもじゃもじゃした毛をまとわりつかせてきた犯人だ。
間違いない、この状況の元凶は、絶対にあれである。
それにしても、よりによって職業が勇者とは。
どうせ不正入手するなら、もう少しましなものがあったはずだ。
「あの、きっと何かの間違いだと。」
とにかく、何とか誤魔化すしかない。わたしはさもおかしくてたまらないといったふうに笑ってみせた。
「まさか、わたしが勇者だなんて、アリエナイデスヨー。それに、『壁の勇者の卵』だなんて、イミワカラナイシー?」
我ながら演技力ゼロな件については、あえて触れたくないのでどうかご理解いただきたい。
「壁の勇者の卵? そうか!」
カタツムリは、しかし、両の目をぴんと伸ばし、今繋がった!という顔をした。
「それでわかったぜ。あんた、今、森につながる壁を召喚したんだ。近くにいたオレも、それに巻き込まれちまった、ってことだな。」
「いやいやちょっと、マスター?」
たまらずわたしは叫んだ。お願いだから置いていかないでほしい。
「長い話になるんですけど、聞いてください。実はわたしは……、」
感情が昂ってしまい、わたしはつい目の前にあったカタツムリの触手を両手で握りしめた。ぷにょぷにょとやわらかく、ひんやりした触手だ。
「お、おう、どうした、落ち着け、な?」
頬を桃色に染めて目をゆらゆらさせるカタツムリに全てをぶちまけようとした瞬間、涼やかなベルの音が盛大に鳴り響いた。
「よお! ——って、な!? なんだテメェは!?」
振り返ると、そこにいたのは、頭から湯気が出そうなほどの怒気を露わに、仁王像の如く後ろ脚で直立しているアルマジロだった。
次回の更新は、29日の予定です。
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