2.淡い、橙の光が見えた。
淡い、橙の光が見えた。
丸く、柔らかな光だ。周りは、鈍く輝く金色の花の飾りに囲まれている。
え、天国?と思ったら、呆れたような声が聞こえた。
「気がついたのかよ。
——全く、こっちがびっくりしてぶっ倒れちまいそうになったぜ。」
まるで何かに釣り上げられるように、意識が浮上した。
丸い、花のダウンライトの下のソファに、わたしは仰向けに寝転がっていた。
黒い天井に、でこぼこした自然木の飾り梁。
白い壁に造作された飾り棚には、多種多様なカップが無造作に並べられている。
かすかに漂う音楽と、コーヒーの香り。
どうやら、ここはカフェのようだった。
「一体どうして……いや、すみません。」
疑問はとりあえず後回しだ。
あわてて身を起こそうとすると、にゅるりとした何かに押しとどめられた。
「いいからいいから。急に起きるとまたぶっ倒れるぞ。
——あんた、人間だろ?
人間の客は久しぶりだけど、デリケートなやつも多いみたいだからな。
他に客もいないし、じきに店じまいだから、ゆっくりしてきな。」
どうやら声の主は、かなり親切なここの店主のようだ。そしてなんとなく察したのだが——というかもう明らかだよね——店主は人間ではなさそうだった。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしちゃって、ごめんなさい。」
まずはしっかりと礼儀正しくお礼を言う。それから何があっても驚かない覚悟を決めつつ、ゆるゆると首をめぐらせて——やっぱりわたしは固まった。
「気にすんなよ。こういうのはお互い様だからな。」
カウンターの向こうで人(?)のいい笑みを浮かべているのは、巨大なカタツムリだった。
◇◇◇
店主は、にゅるにゅると触手のようなものを伸ばすと、ソファの前のテーブルに、水のグラスとおしぼりを置いてくれた。
カタツムリって触手あったっけなと思ったが、多分考えたら負けなやつだ。
わたしは湧き上がる疑問に蓋をし、ありがとうございますとだけ言った。
「Prego!
だいぶ人間らしい色になってきたな。
店に入ってきたときはなんか青黒くて、突然変異体か新種の生き物かと思ったぜ。」
それは多分死にかけてたせいじゃないですかねと思ったが、話がややこしくなりそうなので、わたしは曖昧に笑って誤魔化しておいた。
今度はゆっくりと体を起こし、ソファに座り直す。
冷たいおしぼりで手をふくと、なんだか冗談抜きで生き返ったような心地がした。
いただきます、と一礼してグラスを手に取る。昔ながらの喫茶店に良くあるタイプの、懐かしいグラスだ。
一口飲んで、わたしはびっくりした。
「おいしい。」
思わず呟くと、店主は相好を崩した。
「だろ、だろ。オレはほら、見ての通りカタツムリだからね。真水にはちょっとしたこだわりあるからさ。」
真水かあ。
今までにない視点だったな。
けれど確かに、彼には塩水を近づけない方がよさそうだ。
「もちろん水だけじゃないぜ。うちのコーヒー豆は、そこらへんのとは一味違うからな。
気分がよくなってきたら、張り切って入れさせてもらうぜ!」
店主は、頭の上ににょろんと突き出たふたつの目のうち、片方をぱちりと閉じた。
本当に、気のいいカタツムリである。
短いやり取りだが、わたしはすでにこの店主にかなりの好感を抱いていた。
おしぼりと水のおかげか、もう気分もだいぶいい。
しかしわたしは、重大な事実を思い出してしまった。
すなわち——わたし、お金持ってない、ということである。
恩人の店で無銭飲食とか、切腹ものである。
いや、財布を持たずに店に入ってきている時点で、すでに手遅れか。
「あの、マスター。」
とりあえず、正直に言うしかない。わたしは腹をくくった。土下座して皿を洗いまくり、トイレを磨きまくるしかない。
「お、おう。な、なにかな?」
居住まいを正したわたしに、店主は、しかし頬を桃色に染めて、体をうにょうにょ揺らし出した。
「いやさ、マスターなんて呼ばれるとさ、なんか照れるっていうかさ。」
照れる店主はかわいかった。
そんな彼に軽蔑されるのが心底恐ろしい。わたしはぎゅっと目をつぶり、頭を下げた。
「ごめんなさい! 今気づいたんですけど、わたし多分、お金持ってないんです!
こんなにお世話になっておいてすみません!
皿洗いでもトイレ掃除でも、なんでもします!
ほんっとうに、ごめんなさい!」
店内を、しばし沈黙が支配した。
「お、おう……、金ね。金の話ね。」
どこか困惑したような店主の声音に、わたしはそろそろと面をあげた。
カタツムリは、口を波のように揺らしながら、目をアメリカン・クラッカーのようにくっつけたり、離したりしている。
すごい。カタツムリ、器用。
「悪ぃね、オレ、人間の文化にはあんまり詳しくないもんでさ。失礼なこと言うかもしれないけど、悪気はないから、怒んないでくれよな。
……えーっと、たしか人間にとっては、金ってスッゲー大事なんだよな? でもオレカタツムリだし、金は、べつにいらないよ。」
「えっ?」
今度はわたしが困惑する番だった。
「だけど、ここってお店でしょう? マスターにコーヒーを飲ませてもらうなら、お客はマスターに何かをあげないといけないんじゃないですか?」
ああ、とようやく合点がいったようにカタツムリは頷いた。
「もしかしたら、よそではそうなのかもな。でもここでは違うわけよ。仕組みがさ。
ものすごく簡単に説明すると、全ての労働に対する対価は、マルセイ——正式名称は、生活なんたらかんたら調整ホニャララ会議だっけな——から、必要に応じて現物支給されるんだ。オレもコーヒー・ロースターとしてマルセイに参加してるんだよ。仕事ぶりが優秀だってんで、こないだ星もひとつついたばっかりなんだ。」
カタツムリは、にゅっと誇らしげに胸を張った。
「つまり、オレはあんたから金なんてもらわなくても、なーんにも困らないし、あんたがオレのコーヒーを飲んでくれるだけで、Evvivaってことさ!」
にかっと笑うカタツムリの口元で、鱗のような歯舌がきらりと光った。
肩の力が抜けて、わたしはほっとソファの背に寄りかかった。
正直、まだよくわからないことばかりだが、どうやらコーヒーをご馳走になっても問題なさそうだ、ということだけはわかった。
「それじゃ、コーヒーを……マスターのおすすめを、お願いします。」
「Certo! 期待しててくれよな!」
満面の笑みで応えてくれるカタツムリを見ながら、わたしは死んでから初めて、心からの笑みを浮かべることができたのだった。
次回の更新は、25日の予定です。