表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/41

2.淡い、橙の光が見えた。


   


 

 淡い、橙の光が見えた。

 丸く、柔らかな光だ。周りは、鈍く輝く金色の花の飾りに囲まれている。

 え、天国?と思ったら、呆れたような声が聞こえた。


「気がついたのかよ。

 ——全く、こっちがびっくりしてぶっ倒れちまいそうになったぜ。」


 まるで何かに釣り上げられるように、意識が浮上した。


 丸い、花のダウンライトの下のソファに、わたしは仰向けに寝転がっていた。

 黒い天井に、でこぼこした自然木の飾り(ばり)

 白い壁に造作された飾り棚には、多種多様なカップが無造作に並べられている。

 かすかに漂う音楽と、コーヒーの香り。

 どうやら、ここはカフェのようだった。


「一体どうして……いや、すみません。」


 疑問はとりあえず後回しだ。

 あわてて身を起こそうとすると、にゅるりとした何かに押しとどめられた。


「いいからいいから。急に起きるとまたぶっ倒れるぞ。

 ——あんた、人間だろ?

 人間の客は久しぶりだけど、デリケートなやつも多いみたいだからな。

 他に客もいないし、じきに店じまいだから、ゆっくりしてきな。」


 どうやら声の主は、かなり親切なここの店主のようだ。そしてなんとなく察したのだが——というかもう明らかだよね——店主は人間ではなさそうだった。


「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしちゃって、ごめんなさい。」


 まずはしっかりと礼儀正しくお礼を言う。それから何があっても驚かない覚悟を決めつつ、ゆるゆると首をめぐらせて——やっぱりわたしは固まった。


「気にすんなよ。こういうのはお互い様だからな。」


 カウンターの向こうで人(?)のいい笑みを浮かべているのは、巨大なカタツムリだった。






◇◇◇






 店主は、にゅるにゅると触手のようなものを伸ばすと、ソファの前のテーブルに、水のグラスとおしぼりを置いてくれた。

 カタツムリって触手あったっけなと思ったが、多分考えたら負けなやつだ。

 わたしは湧き上がる疑問に蓋をし、ありがとうございますとだけ言った。


Prego(どういたしまして)!

 だいぶ人間らしい色になってきたな。

 店に入ってきたときはなんか青黒くて、突然変異体か新種の生き物かと思ったぜ。」


 それは多分死にかけてたせいじゃないですかねと思ったが、話がややこしくなりそうなので、わたしは曖昧に笑って誤魔化しておいた。


 今度はゆっくりと体を起こし、ソファに座り直す。

 冷たいおしぼりで手をふくと、なんだか冗談抜きで生き返ったような心地がした。

 いただきます、と一礼してグラスを手に取る。昔ながらの喫茶店に良くあるタイプの、懐かしいグラスだ。

 一口飲んで、わたしはびっくりした。


「おいしい。」


 思わず呟くと、店主は相好を崩した。


「だろ、だろ。オレはほら、見ての通りカタツムリだからね。真水にはちょっとしたこだわりあるからさ。」


 真水かあ。

 今までにない視点だったな。

 けれど確かに、彼には塩水を近づけない方がよさそうだ。


「もちろん水だけじゃないぜ。うちのコーヒー豆は、そこらへんのとは一味違うからな。

 気分がよくなってきたら、張り切って入れさせてもらうぜ!」


 店主は、頭の上ににょろんと突き出たふたつの目のうち、片方をぱちりと閉じた。


 本当に、気のいいカタツムリである。

 短いやり取りだが、わたしはすでにこの店主にかなりの好感を抱いていた。

 おしぼりと水のおかげか、もう気分もだいぶいい。


 しかしわたしは、重大な事実を思い出してしまった。

 すなわち——わたし、お金持ってない、ということである。


 恩人の店で無銭飲食とか、切腹ものである。

 いや、財布を持たずに店に入ってきている時点で、すでに手遅れか。


「あの、マスター。」


 とりあえず、正直に言うしかない。わたしは腹をくくった。土下座して皿を洗いまくり、トイレを磨きまくるしかない。


「お、おう。な、なにかな?」


 居住まいを正したわたしに、店主は、しかし頬を桃色に染めて、体をうにょうにょ揺らし出した。


「いやさ、マスターなんて呼ばれるとさ、なんか照れるっていうかさ。」


 照れる店主はかわいかった。

 そんな彼に軽蔑されるのが心底恐ろしい。わたしはぎゅっと目をつぶり、頭を下げた。


「ごめんなさい! 今気づいたんですけど、わたし多分、お金持ってないんです!

 こんなにお世話になっておいてすみません!

 皿洗いでもトイレ掃除でも、なんでもします!

 ほんっとうに、ごめんなさい!」


 店内を、しばし沈黙が支配した。


「お、おう……、金ね。金の話ね。」


 どこか困惑したような店主の声音に、わたしはそろそろと面をあげた。

 カタツムリは、口を波のように揺らしながら、目をアメリカン・クラッカーのようにくっつけたり、離したりしている。

 すごい。カタツムリ、器用。


(わり)ぃね、オレ、人間の文化にはあんまり詳しくないもんでさ。失礼なこと言うかもしれないけど、悪気はないから、怒んないでくれよな。

 ……えーっと、たしか人間にとっては、金ってスッゲー大事なんだよな? でもオレカタツムリだし、金は、べつにいらないよ。」


「えっ?」


 今度はわたしが困惑する番だった。


「だけど、ここってお店でしょう? マスターにコーヒーを飲ませてもらうなら、お客はマスターに何かをあげないといけないんじゃないですか?」


 ああ、とようやく合点がいったようにカタツムリは頷いた。


「もしかしたら、よそではそうなのかもな。でもここでは違うわけよ。仕組みがさ。

 ものすごく簡単に説明すると、全ての労働に対する対価は、マルセイ——正式名称は、生活なんたらかんたら調整ホニャララ会議だっけな——から、必要に応じて現物支給されるんだ。オレもコーヒー・ロースターとしてマルセイに参加してるんだよ。仕事ぶりが優秀だってんで、こないだ星もひとつついたばっかりなんだ。」


 カタツムリは、にゅっと誇らしげに胸を張った。


「つまり、オレはあんたから金なんてもらわなくても、なーんにも困らないし、あんたがオレのコーヒーを飲んでくれるだけで、Evviva(万々歳)ってことさ!」


 にかっと笑うカタツムリの口元で、(うろこ)のような歯舌(しぜつ)がきらりと光った。


 肩の力が抜けて、わたしはほっとソファの背に寄りかかった。

 正直、まだよくわからないことばかりだが、どうやらコーヒーをご馳走になっても問題なさそうだ、ということだけはわかった。


「それじゃ、コーヒーを……マスターのおすすめを、お願いします。」


Certo(もちろん)! 期待しててくれよな!」


 満面の笑みで応えてくれるカタツムリを見ながら、わたしは死んでから初めて、心からの笑みを浮かべることができたのだった。




次回の更新は、25日の予定です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ