1.その時、わたしは壁にぶち当たった。
その時、わたしは壁にぶち当たった。
これは比喩ではない。
100%純粋な物理的存在たる壁に、激しく、勢いよく、わたしはぶつかった。
ぶつかった瞬間のことは、必要以上に鮮明に思い出せる。目の前にその白い壁のごくごく細かい穴やざらつきが見えて、あっまずいこれはまずいと思ったのとほぼ同時、視界が赤く、熱く、弾けた。
あっこれ多分死んだな、とすぐに気づいた。
あくまで死にゆく本人の主観なので実際はどうだか不明だが、結構長く意識は保たれていた。
目は損傷したのか見えず、体の感覚もなかったが、砕けた歯や骨のかけらが舌の上でざらつく感覚だけは最期まで残っていた。
口内感覚は人間が最初期に獲得するものだと聞いたことがあるが、最後まで残るのもまた同じ感覚だということなのだろうか。
自分で思い返しておいて何だが、少し気分が悪くなってきたので、一旦生々しい記憶の再生を止め、目の前の存在へと意識を戻す。
壁だ。
もちろん比喩ではない。
100%純粋な物理的存在ではもはやないだろうと思われるが——なぜならば、ここは死後の世界であると推測されるので——、わたしの眼前に燦然と聳えるのは、先ほど間近で見、全身で触れたばかりの、あの白い壁だった。
周りには、荒れ果てた大地が広がっている。
壁とわたし以外、何もない。
全くもって奇妙なことというほかはないが、壁にぶち当たって死んだわたしは、その壁とともに死後の世界へとやってきてしまったようなのである。
——どうして、壁まで?
最初に浮かんだ疑問だったが、考えてもまずわかりそうになかったので、ひとまずこれは棚上げにした。
わからないことはもう一つあった。
どういう経緯と理由でもって、わたしがこの壁にぶち当たったのか、だ。
どんなに頭をひねっても、逆立ちしても——これは比喩だ——思い出せない。
だからわたしはこうしてしばらく、この壁の前に座り込んで、あれこれ思い出したり考えたり、想像したりしている。
それが思い出せないと、なんとなく、よくないような気がしているのだ。
理由はわからないけれど。
◇◇◇
記憶を取り戻すための唯一にして最大の手がかりは、何と言っても壁だった。
そう、わたしの直接の死因となったであろう、この壁だ。
見上げると、青い空に高々と突き刺さるように、白い壁が聳えている。
高い壁だ。
壁といえば越えるべきものかもしれないが、とても上からは越えられそうにない。
左右を見渡す。どちらにも、壁は遥か彼方まで続いている、ように見える。というのも、わたしはもともと視力が悪く、遠くの方は白っぽく霞んでよく見えないのだ。
壁にぶち当たったとき、眼鏡をかけていなかったことが悔やまれる。まあ、かけていたとしても、死後の世界には持って来られなかったかもしれないが。
ずっと座っていたせいで、お尻が痛くなってきた。
たまたまそのあたりにあった大きめの石に、適当に腰掛けていたせいだろう。
一度立ち上がって、伸びをする。
ふう、と息をついて、それからなんだかおかしくなって笑ってしまった。
死んだはずなのに、変なところは生きている時と同じだ。
そういえば、今のわたしは死ぬ直前の姿をしている。怪我もないし、服も元のまま、汚れもない。さすがに、持っていた鞄などはなくなっているが。
そう、確か、中には携帯電話と財布、カードケースに、あれが——、
何かが、引っかかった。
足元を見る。
黒く細長い毛のかたまりが、足首にごっそりと引っかかっていた。
——えっ。
◇◇◇
情けない悲鳴が喉から勝手に漏れる。とにかく無茶苦茶に足を振り回して、わたしはその毛のかたまりから逃れようとした。
全身の毛穴が全開になって、ぬるぬるした汗が一気に噴き出してくる。毛という毛が激しく逆立ち、痛いくらいだ。
わたしの必死の努力虚しく、毛は靴下にしっかりと引っかかっていてなかなか取れない。
ついにわたしは観念して、素手で毛のかたまりを引っ掴み、放り投げた。
ようやく足から外れたそのかたまりは、しかしその軽さゆえに遠くまでは飛ばず、ごく近く、わたしと壁の間にほわほわと着地した。
そのどこかのんびりした様子にどっと力が抜けて、わたしはその場にへたりこんだ。
目の前にほわほわ転がっているのは、黒く、長く、細い毛でできたかたまりだ。さっき触ってみてわかったが、すこしごわごわしている。多分、人間の毛ではない。
それで、わたしの恐怖はいくぶんましになった。
てっきり人毛かと思っていたのだ。そして実際にそうだったなら、今頃確実に発狂していただろう。
ふらふらと立ち上がり、よろめきつつ辺りを見回す。
見えるのは、やはりどこまでも続く白い壁と、荒れ果てた大地、そしてわたしの心とは裏腹に青く澄みきった空ばかりだ。
動物か何かの毛が、風に乗って荒れ地の方から飛んできたのだろうか、とわたしは考えた。それか、飛んでいる鳥が捕まえた動物の毛を落とした、などの可能性もなくはない。
ほぼ平らな地平線の向こうまで、動物の影など全く見当たらず、風も感じず、鳥の影どころか雲の一片すらない青空がひろがっていることを、この際全て無視するならの話だが。
——たとえ人毛でなくとも、ホラー案件であることに変わりはないらしい。
涙目になりながらわたしは震えた。無性に喉が渇く。そう、恐怖は不思議と人の喉を渇かし、多種多様な液体で衣服を湿らせるものなのだ——何とは言わないけど。
話がそれた。
つまり何が言いたいかというと、わたしはホラーが死ぬほど苦手なのだ。
口から勝手に出て行こうとする魂を懸命に押し戻しながら、わたしはふらふらと壁に寄りかかった。
皮肉なことだが、今一番素性がはっきりしていて安心できるのは、わたしの死因となったこの巨大な壁だった。
ずるずると背を壁につけてしゃがみこむ。いつでも逃げられるよう、一応おしりは浮かせておく。
——無駄な足掻き感、半端ない。
けれどいいのだ。それで少しでも気分が落ち着くなら、それが正解なのだ。
前方180度に怪しい影がないか警戒しながら、わたしは深く、深く、溜め息をついた。
ふと、コーヒーが飲みたいな、と思った。甘くて、熱いやつだ。例えばたっぷりのミルクとチョコレート・シロップの入った、濃厚なカフェ・モカなんか、最高だ。
そうすれば、この最悪な気分も少しはましになるだろう。
「なるほど、そんなものか。」
うん、そんなものだ。少なくとも今のわたしにとっては。
多分ほかにも色々あるし、やるべきこともあるのだとは思うが、今はうまく考えられない。
「それじゃ、そ〜れ、っと。」
——えっ。
おかしいと思った時には、もう遅かった。
わたしの顔面に、あのほわほわした毛のかたまりが、網のように絡みついてきた。
ちょっと! やっぱりホラー案件か!
毛のかたまりはほわほわと、しかし有無を言わせぬ力強さでわたしの口に、鼻に、入りこもうとしてくる。息が、苦しい。
あっ、これ絶対やばいやつだ。死ぬ。死んでるけどまた死ぬ。
わたしは必死に毛のかたまりを掴み、のけぞった——そして当然のように、後頭部を壁に強打した。
目の前が赤く染まり、そしてまた暗くなる。
口の中は、もじゃもじゃしている。
死んだかな——死んだんだろうな、きっと。
次回更新は、23日の予定です。(目標:隔日更新)
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