一杯いかがですか(2)
「夕食は取りましたか?」「僕の家まではタクシーで行きましょう」「荷物を持ちましょうか?」「飴ちゃん食べますか?」
藤宮さんは穏やかな口調で何度か私にそう語りかけながら、駅を出てタクシーに乗り換えた。
言われるがままに隣に乗り込んだ私は、ドアに寄りそうようにして座りながら、慣れた様子で住所を告げる藤宮さんの横顔を見つめた。
投げやりな気分のままここまでついてきてしまったけど、こうしてタクシーにまで乗り込むと、何というか……、すごく、これが現実なのだという気がしてくる。
タクシー独特の、シートに被せられたビニールの匂い。エアコンの匂い。隣に座る男性の存在感。狭い車内で響く、男性の声。
隣の人の整った顔を見つめながら、私はすんと鼻を動かした。タクシーの匂いに混ざって、藤宮さんのいい匂いがする。香水の匂いじゃなくて、これは多分、清潔なひとの匂いだ。
静かに五感を刺激されて、意図的に何も考えないようにしていた頭がゆっくりと動き出すようだった。
「……大丈夫ですか?」
私の視線に気付いたらしい藤宮さんが、ふとこちらを見て、ほくろのある口元を微かに上げて微笑む。やっぱり素敵な人だと思う。緊張しつつ頷いた私は、そこで小さく首を傾げた。
――この人、さっき、飴ちゃんって言わなかった?
タクシーに乗り込むまえに、確かにそう勧められた気がする。
思い詰めていた時にさりげなく聞かれたから、私もよく考えずに「いえ」と言って流しちゃったけど、ここに来て頭がしゃっきりしてきたせいか、なんだか急に気になってきた。
飴ちゃん……、飴ちゃん……。飴にちゃん。
このパリッとしたイケメンに、これ以上似合わない単語ってある?
いや、もしかしたら単に聞き間違えたのかも?
それとも、夜のお誘い界隈では『飴ちゃん』何かの隠語なのかもしれない。
こういうの初めてだから、よく分からないな。
そんなことを考えてうちに、タクシーがゆっくりと動き始める。
すると藤宮さんが、長い指で軽く口元をかきながら、なにやら照れたように微笑んだ。
「すみません、僕もこういう風に女性を誘うのは初めてで、……少し照れくさいというか」
白皙の頬を淡く染めて藤宮さんがいう。
あれ? と私は首を傾げた。何だろう。ちょっと、可愛い気がする。
「……とても慣れているように見えましたけど?」
「そうですか? 良かった。それなら格好がついたというものです」
ゆったりと背もたれに背中を預けて、藤宮さんがふっと笑う。
同時に、打ったから響いたというぐらい自然に、私の胸がきゅんと音を立てた。
心なんかもうすり減りに減って、せいぜい砂粒ぐらいの大きさしか残っていないと思ったのに、我ながら現金というか、もはやイケメンの暴力というか……。
単純な私は、それだけの出来事で少し気分が軽くなって、膝の上で組んでいた手を解いた。
……こういう風に女性を誘うのが初めてって、本当かな?
いや、サービストークに決まってるよね。
こんなことを考えちゃうこと自体、チョロい女なんだろうな。
車の振動に合わせるように気分を浮き沈みさせながら、窓の向こうを眺める。
外はすっかり暗く、明かりの付いた建物にも得に目新しいものはなくて、やっぱり京都らしさはあまり感じられない。けれど大きな川を渡った辺りで、少し気分が変わった。まっすぐに流れる川沿い続く大通り。その川向こうに明かりのついた建物が並ぶ様子は、とても美しい。
「……京都ですね」
ぽつりと呟くと、藤宮さんが「そうですね」と頷いた。
「京都ですよ」
柔らかに肯定されると、また少し、気分が上を向いた。
あの時に見たCMのなかに、私はちゃんと逃げてこられたんだと思った。
タクシーは三十分ほど走った後、狭い通りのなかで止まった。
暗いのでよく分からないけど、静かな住宅街――、に見える。
正直、「家で」なんて言いつつ、どこかのホテルに連れ込まれるんじゃないかなと思っていたので、これはちょっと意外だった。しかも周囲には高そうなマンションは勿論のこと、あまり新しい建物もないように思う。
「どうぞ、こちらです」
タクシーの支払いを終えた藤宮さんがそう言って案内してくれたのは、そこからさらに一本細い通りに入った所に建つ、古い建物だった。近くには小さな外灯が一つしかないのでよく分からないけど、いま流行の古民家? 町屋? というようなものに見える。
藤宮さんはその建物の裏口らしき扉を開けると、親切そうな顔で「どうぞ」と私を中に招いた。
「おじゃまします……」
思っていたのとあまりにも違う感じに腰が引けつつ、そっとなかにお邪魔する。
それから、大きく息を吸い込んだ。
木の匂いがする。
古い建物特有の、どこかほっとするような濃い木の匂い。
それから、もう一つ。それに混ざって何かの香りがする。
何だろう、よく知っている匂いだ。青葉のような、自然の匂い。
「どうぞ、こちらです」
パチッと明かりを付けて、藤宮さんが近くの階段を上りながら案内してくれる。
それに続いて行くと、一つの部屋に通された。いかにも張り替えて間も無さそうな畳が敷かれた、十畳ほどの広さ部屋だ。埃っぽさの欠片もなく、きちんと掃除がされているのだろうということが一目で分かるぐらい、綺麗な部屋だった。
「ここがゲストルームです。今晩はどうぞこちらを使って下さい」
「ゲストルーム?」
「ここに内鍵があって、外からは開かないようになっているので使って下さい」
「内鍵……」
アバンチュールに内鍵っている?
「疲れていますよね? 先にお風呂に入りますか?」
何だかよく分からないまま頷くと、藤宮さんはにっこりと頷いた。
「すぐに湯を張ります。その間に僕も準備をしておきますから」
「はあ……」
何の準備だろう? と思ってから、まあ、色々いたすなら準備も有るかと思って、私はぽやっと頷いた。
いや。もちろん、この辺りでちょっとおかしいな? とは思っていた。
何か思ってるのと違うな? とも感じていた。
だけどいざお風呂に入ると、やっぱりそうなのかなという気もして、取りあえず念入りに体を洗ったりして……。
お風呂からあがり、自前のパジャマに着替えて髪を乾かし、ひとまずゲストルームとやらに戻ろうとすると、奥のほうで水を使うような音が聞こえた。
この家には藤宮さんしか住んでいないようだし、当然、彼が何かしてるんだろう。
台所で夜食の準備でもしてるのかな? なんて軽く考えながら、「お風呂を頂きました」と声をかけようと音のするほうへ向かう。
すると磨りガラスの嵌められた引き戸に行き当たって、私はコンコンと曲げた指の節でそこを叩いた。「どうぞ」と中から声がする。ゆっくりと戸を開くと、その隙間から白い光が溢れた。溢れかえるような、青葉の香りと共に。
「これは……」
そこは、明らかに何かの店だった。
もっというなら、よくテレビでみるような、とてもお洒落な町屋のカフェだった。
大きさは、それほど広くはない。四人がけのテーブル席が二つに、二人がけのテーブル席が二つ。それと、椅子が五つ並んだカウンター。それらの椅子やテーブルは全てシックな木製のデザインで揃えられていて、店内全体にレトロな雰囲気が漂っている。
「良かった。そろそろ上がられた頃かと、声をかけにいこうを思っていた所だったんです」
まるで異世界にでも迷いこんだような気持ちでいた私は、そう声をかけられて、ハッとカウンターのほうを振り返った。そこには、ジャケットを脱いだ藤宮さんが、軽く袖を捲った格好で立っていた。
「どうぞ、座って」
そう微笑む藤宮さんの前に並ぶのは、急須や湯飲みといった、日本茶を淹れるためと思われる道具だった。