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一杯いかがですか(1)



「……失礼。京都に着きましたよ」


 頭上からやけに良い男性の声が聞こえて、私はうっすらと目を開いた。

 新幹線に乗り込んだ時には、とても眠れないと思うぐらい頭が冴えていたのに、結局はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。


「あ、すみません……、ありがとうございます」


 乗り過ごしそうになっている私に気付いた誰かが、わざわざ声をかけてくれたんだろう。

 ぼんやりとしたまま頭を下げると、座席の肘掛けにゆったりと手をつく男性の手が目に入った。思わず視線が釘付けになるぐらい、すらりと長い、美しい指先だった。

 軽く血管の浮き出た男性らしい手の甲から伸びる、しなやかな指。それだけでなく爪の形も綺麗で、短く整えられて清潔感もある。

 自分を手フェチだと思ったことはなかったけど、そんな私でも思わず息を飲むぐらい、綺麗な指だった。


「いえ。乗車の時に、京都に行こうと呟いているのを聞いてしまったものですから気になって……。余計なことをしていなければいいのですが」


 指に見蕩れる私の反応をどうとったのか、男性が少し気まずそうにそう言った。

 乗車の時までそんなことを呟いていたのか……、と自分の情緒不安定さに衝撃を受けつつ、その声がまたすごく良い声で、私は思わず瞬きをした。どこか甘い響きの、低めのテノール。声優好きの友人が、よく”耳が喜ぶ”なんて言葉を使っていたけれど、まさしくそれだと思った。

 この指と、声の持ち主は一体どんな人なんだろう。

 そんな興味がふと胸に湧いて、軽い野次馬気分で顔を上げた私は、改めて息を飲むことになった。

 そこに立っていたのが、目の眩むような極上の男性だったからだ。


「いえ……。京都で降りようと思っていたので、助かりました」


 上擦った声でなんとかそれだけ言葉を返しながら、ぱちぱちと瞬きをする。すると男性は僅かに唇の端をあげて、「よかった」と言った。その全てが、まるで映画のワンシーンの様だった。


 年は二十代後半といった所だろうか。

 身に纏うのは、いかにも上質そうな三揃のスーツ。スーツは男の戦闘服――、なんて言葉を何かで聞いたことがあるけれど、もしも戦闘するような敵がいるなら、彼の姿を見ただけではじけ飛んでしまうんじゃないかっていうぐらい、そのスーツを見事に着こなしていた。

 何しろ背が高くて、モデルかと思うほど手足が長い。そして顔がいい。とてもいい。

 すっと高い鼻筋も、薄い唇もとても形がよいのだけれど主張はせず、涼しげな目元が品の良さを感じさせる。人目を引く容貌でありながら、落ち着いた印象を与える男性だと思った。

 ただ、口元にはささやかで小さなほくろが一つあって、それがなんというか、もうずるい。

 耳にかかる長さの髪はきっちりとビジネススタイルに纏めていて、全体的に一分の隙もないという感じがした。

 住む世界の違うひと。

 通りですれ違っても、袖のすり合うこともないようなひとだ。

 そういえばチケットを買うとき、ゆっくりと座りたくて、奮発してグリーン車を買ったんだった。

 いや、おかげで良い物見たな。落ち込んでいる日にも、良いことというのはあるもんだ。


 と、わりと頭のなかは花畑のつもりだったんだけど、男性はなぜか心配そうに私の顔をのぞき込んできた。


「大丈夫ですか? 体調が優れないなら、駅員の方を呼んできますが」


 突発的に京都に来てしまうぐらいの精神状態だったわりには元気だなと思っていた所にそう声をかけられて、私は慌てて首を横に振った。

 それから、新幹線が発車しそうなのに気付いて、急いで立ち上がる。このままでは、この人まで乗り過ごさせてしまう。お礼とお詫びを言ってから新幹線を降りると、男性はもう一度だけ「本当に大丈夫ですか?」と私に聞いてから、ホームを去って行った。


 いい人だったな。

 あと凄く格好よかった。

 それと歩いてる時の姿勢がすごく良かった。

 あんなに姿勢のいい人をみたのも初めて。


 イケメンさんの背中の消えた先をしばらく見つめてから、私はぼんやりと、ホームから空を見上げた。すっかり日が暮れて、空も真っ暗。そして特に京都に来たなって気もしない、普通の空だった。

 

 まあそうだよね。都会から都会に来ただけで、空に変わりがあるわけがない。

 

 だというのに、勝手にがっかりした気分になって、私はまたも溜息をついた。

 浮世離れした素敵な人に話かけられて、別世界にでも来た気になっていたのかも。

 現実はこんなもんで、京都に来たからって何かが劇的に変わるはずもない。

 やることだって結局は同じだ。こんな時間から観光もないし、夜を明かす場所を探さないといけない。

 

 そんなことを、どのくらい同じ場所に突っ立って考えていたんだろう。


「あの……」


 ぼーっと空を見上げていたところにそう声をかけられて振り返ると、そこには先ほどの男性が立っていた。


「何度も申し訳ありません。……駅を出たものの、あなたの様子がどうしても気になって戻ってきたら、まだここにいたものだから」


 私は、思わずぱちっと大きく瞬きをした。

 何の変哲も無い駅のホームが、チャンネルが切り替わったかのように煌めいて見えた。この人には、そういう力があると思った。そこに立っているだけで、周りの世界を特別にする力が。

 そして、瞬きと同時に涙が出そうになった。

 誰かが、自分のことを気に留めてくれてたというその優しさが、こう……、胸に染みこんで、何というか……、もう、ぐわっと感情が込み上げてきた。

 思えば、誰かの善意に触れること自体がとても久しぶりだと気づいた。

 あと、自分がそんなに心配しなくちゃいけない感じのひとになっているのかっていう恥ずかしさと、目の前のひとの迫力に、胸の中がぐちゃぐちゃになってしまった。


「あー……」


 ありがとうございます、本当に大丈夫です。

 そう言いたかったのに、思ったように言葉にならなかった。

 一言でも喋るとボロボロに泣いてしまいそうだった。だけど、流石に初対面のひとにそこまでご迷惑をおかけするわけにもいかないしと、その一心でぐっと耐える。

 だけど、結果的にその態度が、この男性を余計に心配をさせることになってしまったらしい。


「……差し支えなければ、宿泊先を聞いても? フロントまで送っていきます。私が信じられないなら、タクシーの乗り場までお連れします」 


 私は首を横に振った。ただ、やっぱり言葉は出てこない。

 そもそも、何か答えようにも、まだ宿泊先も決めていないし……。

 なにも答えない私に、彼は僅かに眉を寄せて、それから私の手元にある大きなトランクケースを見た。


「……京都へは、どうして?」


 落ち着いた、心地の良い声で訊ねられて、私は首を捻った。

 どうして? どうしてだっけ。

 たまたま見たCMに京都が映っていたから。

 それで見た景色も綺麗だったし、どこにも行くところが無かったし、どこへ行っても良かったから、衝動的に。

 旅に出れば、気分が変わるんじゃないかと思って。何かが変わるんじゃないかと思って。

 そんな散らかり切った理由をどう整理して伝えればいいのかと少し考えてから、私は小さく口を開いた。

 

「ちょっと、疲れちゃって……」


 他にどういう表情で言えば良いか分からず、へらっと笑う。


「疲れて……?」

「はい……、ちょっと、色々あって」

「そうでしたか」


 笑い飛ばされても仕方が無い理由だと思ったのに、男性は、深刻な病名でも聞いたような顔で頷いた。

 それから右腕の立派そうな時計を見て、私を見て、少し考え込んだあと、困った様に眉を寄せて笑った。


「……もし今夜の宿がまだ無いなら、うちへ来ませんか?」

「は?」

「うちで、一杯飲みませんか?」


 ”うちで一杯飲みませんか”

 その意味が分からないほど初心な女でも無い。


 私は、何度か瞬きをしてから、目の前の男性を改めて見つめた。


 全身フルアーマーみたいな隙のない格好をしているくせに、初対面の、いかにも訳ありそうな女を家に誘うとは、見かけとは裏腹に隙だらけの男だと思った。


 それから、少しだけがっかりした。


 先ほど与えられたと思った掛け値のない優しさが、急に色褪せてしまったようで悲しかった。

 情緒不安定なうえ、宿も無さそうだと知って、手軽に誘えそうだと思われてしまったんだろう。まあしょうがないな。その通りだから。


「いいですよ」


 さっきまでの、込み上げてくるような感情は波が引くように消え去っていて、私はまたへらりと笑って頷いた。


 うんうん。いいよ。……いいよね?

 思ったより”いい人”では無かったようだけど、最高に格好いい男性であることには違いないんだし。

 こんな人と一晩過ごすチャンスなんて、きっと二度とない。


 例えばこの人が、実はとんでもなく悪い人で、これから私はとても酷い目にあうのだとしても、それはそれでいい気がした。

 もっと悪いことで、これまでの悪いことを上書き出来るなら、それもいい。

 海斗との、あの馬鹿みたいな三年間を上書きできるなら、本当に、何だって良いと思った。


「藤宮伊吹といいます、よろしく」


 彼が――、藤宮さんが私に手を伸ばして、律儀そうに名乗る。

 一夜の関係に名前が必要なのか、疑問に思いながらも、私はその手を取った。


「市木和紗です、よろしくお願いします」


 名乗りながら、私は初めに見た、彼の綺麗な手に触れていることに少しドキドキした。

 この手が、指が、これから私の体に触れるのかもしれない。

 それはやっぱり、そう悪いことではないように思えた。

  


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