表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

そうだ、京都へ行こう(2)




 私が全てを知ったのは、会社を正式に退社したその日のこと。

 付き合って三年、同棲して一年になる恋人の立花海斗が、憔悴して帰ってきた私に「全部お前の自業自得だろう」と言い放ったのが切っ掛けだった。


「自業自得って……」


 自分が何を言われたのかを、すぐに理解するのは無理だった。

 一瞬ヒューズが飛んだように思考が停止をして、それからじわじわと、怒りような、悲しみような感情が胸のなかに広がった。


「それ……、本気で言ってるの?」


 それなりに広いリビングに、私の声が空しく響く。空っぽのグラスにぽつんと残された氷が立てる音ようだと思った。よく響くけれど、気に留められることはない。

 私はぼんやりと、テーブルの上においてある鏡を見つめた。朝、出勤前に化粧をするのに出して、片付ける気力もなくそのままになっていたものだ。

 そこには、疲れ果てた女の顔が映っている。肩に掛かる長さの髪は、ストレスからかすっかり艶をなくして、一つにまとめてあってもそれが分かるぐらいだし、目の下なんてクマで真っ黒だ。

 顔だって、平凡の域をでないとはいえ、それなりに男性から声をかけられることもあったのに、いまではげっそりとしてまるで骸骨のようだと自分で思った。


「私は、本当に何も悪いことなんてしてない。海斗だけは……、分かってくれると思ってたのに」


 嘘だ。

 本当はずっと、もしかしたら海斗は私のことを信じていないんじゃないかって思ってた。

 年明けに事件が発覚した時から、海斗の反応はずっと冷たかった。打ちひしがれる私に優しい言葉ひとつかけてくれることは無かったし、謹慎中も「仕事が忙しい」と言ってろくに家に寄りつかず、会話らしい会話も無かった。

 ただ私もプロジェクトが開始してからのこの一年はずっと忙しくしていたし、家に帰れない日もあったから、文句は言えないと自分に言い聞かせていたんだけど……。それにしたって、会社で濡れ衣を着せられて憔悴している恋人に対して、あまりに冷たい態度なんじゃないかって思いはずっと胸にあった。

 私の心がこんなにも疲れてきってしまった要因の半分ぐらいは、一緒に暮らす海斗の態度にもあったと思う。

 ただここまで直接的な言葉をかけられたのは初めてで、流石にショックだったし、動揺を抑えることはできなかった。

 

「わ、私が……、この仕事にどれだけ真剣に取り組んでいたか、海斗だって知ってるはずでしょう?」

「糸谷さんに聞いたんだ」

 

 殴られた反対側から巨大な鉄球が飛んできたような気分だった。


「糸谷さん……?」

 

 どうして、ここで糸谷さんの名前がでてくるわけ?

 海斗は別の会社に勤めているし、私もこれまで彼女の名前を出したことはなかったから、糸谷さんのことなど知るはずもないのに。

 すると海斗はそこで初めて、少しだけバツの悪そうな表情を浮かべた。


「……前に、お前の会社に迎えに行った時に、相談したいことがあるって言われて連絡先を渡されたんだ。それで、お前が会社の情報をライバル会社に売り渡そうとしていると聞いて……、正直、驚いたよ」


 驚いたのはこっちだと言いたい。

 唖然とする私に、海斗は少し早口になって続けた。


「もちろん最初はオレだって何かの間違いだと思っていたけど……、泣きながら、お前を信じたいけど、社外秘の情報を持ち出すところを見てしまったと訴える糸谷さんを見ていたら、とても彼女が嘘を言っているようには見えなくて……」

「……それで?」

「お前が、糸谷さんに罪をかぶせようとしてると聞いて、オレは……」


 そこまで聞いた時、まるで欠けていたピースが見つかった時のように、頭のなかで全てが繋がった。

 同時に、ドンッと、まるでお笑いの一幕のように勢いよく、私とこの男との間に見えない緞帳が落ちたのが分かった。混乱していた頭がすっと冷えて、指先の震えが止まる。私は自分でも理由の分からない笑みを口元に浮かべて、首を傾げた。


「それで、私のカバンにあのファイルを入れたんだ?」


 自分でも嘘のように乾いた声だった。

 海斗は、是とも否とも言わない。だけどそれが答えだった。

 馬鹿みたいだな、と思った。

 出会ったばかりの若い女の子にあっさり騙される恋人のことも、そんな恋人を信じていた自分のことも。

 考えてみれば、あの日、私のカバンに細工を出来た人間なんて海斗しかいなかったというのに、どうして疑いもしなかったんだろう。


「……そっか、分かった」


 はあ――、と深い溜息をついたあと、絞り出た言葉はそれだけだった。

 本当はもっと言うべきことも、聞くべきことも、ぶつけるべき言葉もあったと分かっていたけれど……、とても声になって出てはこなかった。声も出ないぐらい、とても疲れていた。


 ただぼんやりと、部屋の中を見渡す。

 社会人四年目の恋人が同棲するには、少し分不相応な広い部屋だ。その内に籍を入れて結婚するつもりだったから、もしも子供が出来てもしばらく住み続けられる場所を選んだのだ。二人でしっかり頭金を貯めて、次に引っ越すときには家を買おうなんて、馬鹿みたいに夢を語って張り切っていた。


 そんなことを考えた所で、ふと、弾かれたように我に返って、ここを出て行かなくてはと思った。

 荷物を纏めて、一秒でも早くここを出て行きたい。この家の家賃は折半だったけど、名義は海斗だし、何より私がもうこの家にはいたくない。海斗と暮らしたこの場所には。だから、私がここを出て行くのが一番いい。


「どこに行くつもりだよ」


 背中にかけられた声に、なんと返したのかも覚えていない。

 大学の卒業旅行で一度だけ行った海外旅行のために買った大きめのトランクに、衣服や身の回りのものを詰めるだけ詰めて、通帳と印鑑は手持ちのカバンにしっかりしまって、私は家を飛び出した。もちろん海斗は引き留めることをしなかったし、私も振り返らなかった。


 外に出ると、空はすでに茜色だった。この時間帯を逢魔が時だなんて最初に言った人は凄いなと思う。世界は暗くなっていくばかりで、希望なんて一つもない気がした。

 不安で、寂しくて、一歩進む先に地面があるのかすら分からないような、そんな気持ちだった。


 どこに行こうなんて考えもせずに三十分ぐらい歩いた所で、大通りの交差点に行き当たって途方に暮れた。行き交う人が、みんな目的を持って歩いている様に見えて目が眩んだ。


 迷子の子供のように、行き交う人を視線で追って、ふらりと右を見る。

 先ずは今夜の宿を探さないとと思った。事情を話せば一晩、二晩泊めてくれそうな友人はいるけれど、出来れば今はひとりになりたかった。それならビジネスホテルでも探さないと……。


 そこまで考えてから、今度は左を見る。

 その前に、母に一度電話をするべきだろうか。だけど母は早くに父を亡くしていて、すでに兄夫婦と同居して暮らしている。私が戻った所で困らせるだけだし、それならいま現状を話すのは心配をかけるだけだ。戻る実家がないなら、家は早晩必ず必要になる。まだ日も明るいし、不動産屋に行くのも良いかもしれない。

 というか、ここは一旦警察とか、弁護士とかに駆け込んでみたら、元の会社に無実を証明できたりするんだろうか。いや、海斗や糸谷さんが、改めて正直に話してくれるとは思えないし、何にしても無駄足に決まってる。無駄足じゃなくても、今はそんな気にはなれなかっただろうけど。


 はあ――、と。今日だけでも何度目かの溜息を吐いて、足元を見つめる。

 いっそ、足元の小石を蹴飛ばしてその先を歩いてみようかなんて思うけど、こんな都会じゃ、その小石ひとつ簡単にはみつかりそうもない。

 

 そんな時、ふと頭上の、少し向こうでチカッと光の色が変わる気配がした。

 顔を上げると、ビルの電光掲示板のCMが切り替わった所だった。


 家で見る液晶テレビより少しだけ淡い色合いの画面に、満開の桜が映し出される。川沿いの華やかな光景から、画面は寺社仏閣へ。それから最後に青空の下を新幹線が駆け抜ける映像が流れて、あのお決まりのフレーズが流れる。そうだ、京都へいこう。


「そうだ、京都へ行こう……」


 口ずさんだ言葉は、落ち込んだ気分が嘘みたいに軽やかなリズムだった。




 そういった理由で――。

 いや……、自分でも、本当に? と思わないでもなかったのだけど。

 ふと気がついた時には、私は京都行きのチケットを手に新幹線の座席に座っていたのだった。

 




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ