第一章番外『バレンタインデー』
二月十三日十五時 石川紗良
「よし、上手く焼けた! 」
綺麗に焼けたクッキーをオーブンから出しながらそんな事を呟いていた。クッキーをケーキクーラーと言う格子状の網の上に乗せ、冷ます。
グー、と腹の音がなり、恥ずかしくなるがキッチンには私一人しかいないのを思い出す。
母は仕事で家におらず、兄は自室にこもっている。
兄の部屋からはギターの音が時折僅かに聞こえてくる。私はそれに合わせて歌ったりしてみる。
明日は俗に言う「バレンタインデー」。
私はそのためにクッキーを作っていた。愛する彼氏のためにだ。
私の彼氏はクッキーが大好きだ。特に好きなのは「ムーンライト」という青い箱に入っているクッキーだ。私も貰って食べてみた事があるが、美味しかった。
「ムーンライト」より美味しく作れる気はしないが、その分愛を込めて作った。
形もそこまで歪ではない。美味しいって言ってくれるかな。
*
二月十四日九時 佐藤陸
「はー、はー」と白い息を吐きながら僕は寒い中立ち止まっている。信号が変わるのを待っている。
今日は「バレンタインデー」だ。チョコ貰えるかな? と少し浮かれた気持ちで紗良の家へと向かった。
*
同日同時刻 石川流星
朝、意識が覚醒した。陽が眩しい。「んー」と体を伸ばし、起き上がる。腹減ったな。飯食おう。
階段をひとつひとつ確かに下る。キシキシと音を立てる廊下を歩く。
リビングのドアを開け、とりあえずソファーに座り「母さん、飯食いたい」と伝える。リビングの奥の方に目をやると、紗良が円を描くように歩いていた。
「なんで、そんなにそわそわしてるの、紗良」
「!? なんでもないよ、お兄ちゃん」
紗良の様子が明らかにおかしい。何かあるのか? 今日は「バレンタインデー」だよな。よく見たら、部屋着にしてはオシャレな服を着ている。髪も、家ではいつも下ろしてるのに、今は「ハーフアップ」という方法で結んでる。
俺はキッチンの方へ向かい母さんに「今日なんかあるの? 」と聞く。母さんはガスコンロの前で料理をしていた。いい匂いがする。
「今日、紗良の彼氏が来るのよ」
「え? 」思いがけない返答だったので面食らった。紗良の彼氏? え? いつの間に出来てたん?
「はい、ご飯」
母さんは食卓に料理を並べた。食欲を刺激する、美味しそうな匂いがする。
突然の出来事で驚いたが、紗良が彼氏を作る歳になったと思うと感慨深いものがある。天国の父さんが知ったらどうなるだろうな。と妄想しながらご飯を食べる。
*
二月十四日十時 石川 紗良
「ピンポーン」
インターホンが鳴る。陸かな?
私は早足で玄関に向かう。後ろから笑い声が聞こえた気がするがそんな事は、今の私にとっては些細なことだ。
玄関の覗き穴から外を見る。そこにはほっぺを真っ赤にした陸が立っていた。
私は急いでドアを開け、「寒いしょ、早く入って」と声をかけると、陸は「うん」といい中に入ってくる。
そのままリビングへと向かう。リビングに入ると兄がこっちを見る。陸の事を値踏みするような目で見る。
陸は「お邪魔します」と少し強ばった表情で言う。……緊張してる顔もいいなと思ったのは内緒だ。
「いらっしゃい、陸くん。ごめんね、うちの子がお世話になって」
とお母さんは言う。
「お世話になってなんかないですよ。僕の方が紗良に世話をかけてます」
「あら、そう。あのおてんば娘がね……。女子力とか全然ないし、彼氏はいつできるのかしら? といつも考えてたわ。ところで付き合ってからどれくらいかしら? 」
「まだ1年も経ってないですよ。半年くらいかな? 紗良? 」
「記念日も覚えてないの? 最低」
少し顔をむくれさせて、いかにも怒ってます感を出して言った。陸は少し困った顔をして、「ごめん」と謝ってきた。
あまりにも困った顔が可愛いもんだから、もう少し困らせてみたい。そう思った。
「ハグしなきゃ許さない」
*
同日同時刻 石川流星
目の前で紗良と紗良の彼氏がいちゃいちゃしているのを見せつけられている。紗良が彼氏を困らせているようだ。彼氏は顔を真っ赤にしながら紗良にハグをしている。
母は苦笑いをしていた。俺も便乗して苦笑いしておくことにする。今は冷やかす気にはなれない。
紗良。幸せになれよ。と心の中で願った。
*
同日11時 佐藤陸
女子の部屋に始めて入った。紗良の部屋は、シンプルな作りだった。ベッドの上には可愛らしいぬいぐるみがあり、鏡がついている机の上には髪の毛をセットしたりする「何か」があり、少し隙間の空いたクローゼットからはお洒落な服が見える。漫画などでよく見る、そんな普通の女子の部屋。
そんな普通の部屋にいるだけなのに僕はものすごくドキドキしていた。
僕も年頃の男だ。性欲だって人並みにはある。異性の部屋で2人きりだとドキドキしてしまう。普通の反応だろ? それに相手は彼女だ。場合によっては……って事もある。
僕はそんな不純な事を考えていた。最低な奴だ。
紗良は僕に抱きついている。何かを堪能して満足した顔をしている。可愛い。
急に圧迫感が無くなる。紗良が満足してハグをやめたらしい。
「少し、待ってて」と紗良は言い、部屋から出ていく。
部屋に一人ぼっち。何をしよう。
今日は「バレンタインデー」だから少し期待してたけど、何も貰えない。少し悲しいな。
ガチャ、とドアが開く。
そこには紗良が立っていた。手にはクッキーが入った袋を持っていた。
「はい、陸。――バレンタインだから、手作りクッキー、あげる」
「え?」驚いた。貰えないと思ってたのだから。
「嬉しい! ありがとう! 美味しそう、今食べてもいい? 」
「うん、いいよ」
サクサク、と音を立てながら噛む。
とても美味しい。最初に思ったことはそれだった。今まで食べたクッキーの中で一番美味しかった。
紗良がさっきから浮かない表情で俯きながらチラチラとこっちを見てる。どうしたんだろう? クッキーが口に合うか心配なのだろうか?
「紗良、クッキー美味しい! 今まで食べた中で1番!」
今の思いを直接伝えた。
紗良は顔をバッと上げ満面の笑みを浮かべた。とても可愛い。そう思った。
「やった! 頑張って作った甲斐があった! 陸大好き! 」
「僕も、紗良の事大好きだよ。これからもずっと隣にいてね」
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少年と少女のある一日の出来事。
甘い「バレンタインデー」の出来事