その夜のハゲに祝福を
半ひきこもりではあるが、ありがたいことに親の遺産がある。なので人の少ない頃合を選んで、自転車で買い物に出ることにした。
凍りつきそうな細い雨が降っている。雪に変わりそうだが、うちの地方ではめったにそうはならない。真冬の平日の午前中で、近所の公園には誰もいない。
フルアーマーな合羽を着ているので顔をさらすこともない。別に容姿が悪いってわけじゃないが、まっとうに生きてる人にまっすぐ目を見られたりするとなんだか死にたくなるし。近所の知り合いだったらもっとイヤだ。
だがこの、そこそこいい感じの新興住宅地では平日は勤めてる人が大半で、その上お年寄りも少ない。子育て中の奥さんが外に出ない日の歩行者はあまりいない。楽々と道を抜け大通りに向かい、国道沿いに走って本屋に向かった。
合羽を脱いでかごにつっこみ、最短時間で最大限の買い物をして自転車に戻った。
雨はどうにか、やんでいた。買ったものは背負ったリュックの中なので、合羽をかごに入れたまま走り出そうとした。すると近くにいたやつがもの凄く自然な感じでかごに手を入れ、合羽をつかむと走り出した。
ぎょっとしたが自転車だ。慌てて追いかけると小路に入った。もちろん入り込むと右に曲がる。グループ解散のせいで個人活動をしているわりと高年齢層の男性アイドルの如く呼び止めると、振り向いてにいっと笑って合羽を投げ捨てた。
「……拾えよ」
見れば俺よりだいぶ背の低い中年男だ。体つきも華奢だ。足は速いが大したことなかろうと自転車を降りたところ、いきなり自転車を蹴飛ばして倒した。
「なにするんだ!」
「……金出せよ」
かつあげか。俺は二十五歳だ。かつあげは二十歳までとか法律で決めてくれないだろうか。
「見知らぬ者に金を恵む趣味などない」
「言ったな。俺のメリケンサックが見えないのか?」
なんだそれは。男は右手を上にあげ、ふいに首をかしげた。
「あ? おい待っとけ、逃げるなよ!」
小柄な男は、背中にしょっていたリュックを下ろして中をかき回している。俺のよりお洒落だ。
ーーーーにしても、メリケンサックとはなんだろう
メリケン……確か、今は亡きおばあちゃんが小麦粉のことをメリケン粉呼んでいた。欧米風の、という意味だと教えてくれた気がする。メリーとかケンとか、あっちの人の名前からきてるんだろう。
サック……これは、えー、あのセイフティでコトを行う時のあれのことだ。
とするとあわせると『欧米風のゴム製品』? どういうことだ?
俺はしばし考え込み、愕然とした。
いや待て。確か白人系の人って日本人より大きいんだよな。ということはそれは『大きいサイズの性具』をさしているのではないだろうか。
どういうことだよ。金が目的じゃないのか。それは口実なのか。え、もしかして本屋で俺に一目ぼれした同性愛者なのか。にしたっていきなりそんなとんでもないものを見せようとするのはダイレクトすぎないか。
いや以前なんかで読んだことがある。その手の性指向の人は妊娠の心配がないので、気軽に楽しむ文化があると。そしてそれはある種の性病が流行ってからも廃れていないと。
つまりこの男は俺に好意を抱き、アピールの手段として自分のそれが白人並みであることを誇示し、なおかつセイフティにコトに及びましょうと誘ってるのか。
ぞわっと鳥肌が立った。たったが同時に、俺は差別的なんじゃないだろうかという不安感も生まれた。
LGBTが叫ばれる現代に生きている。性指向が違うだけでいきなり否定するのも失礼だ。
ーーーーだけど了承できない時は、お断りしてもいいんだよね?
いかんことはないだろう。たとえば俺が女の子に交際を申し込む。女の子はもちろん断るだろう。それを責めることができるだろうか。いやできまい。
ーーーーしかし、それは女の子にだけ与えられた特権では
絶対にないが、たとえば俺が可愛い男の子に交際を申し込んだとしても相手に断る権利はある。ということは同性同士でも断ってもいいはずだ。
それにしても、なんだってこんな直接的な申し込みなんだろう。もう少しやんわりと告ってくれればこちらもやんわりと断れるのに。
そう思ってそっち系の人に偏見を抱きかけた。だが待て。俺は同性にまったく興味がないから不愉快だけど、これが可愛い女子だったら。
淡い色合いの髪の大きな瞳の美少女が「ねえ、用意してあるの。私とどう?」とか言ってくれたら。
うわ、ずっきゅーーーーんときた。もちろんOKする。するとそこに黒髪ストレートクール系が「次は私とどうだ?」と声をかけてくる。もろ手を挙げて賛成する。
そうすると今度はピンク髪ツインテールがおずおずと「わたしも、ごいっしょして、いいですか」と聞いてくる。いやいい。大丈夫だ。全員まとめて抱いてやる!
なるほど、直球すぎる文化だと思ったが、自分の好みを当てはめてみるとそのよさはわかった。残念ながら女の子たちはシャイすぎてそのような行動に走らないが、ゲイの人にとっては俺自身がそのような可愛い女の子みたいなもんで、なおかつ自分もそんなつもりなんだろう。
しかし文化的には理解できたが、やはり了承はできない。できないがもう、差別しようとも傷つけようとも思えない。ここはていねいにお断りさせていただこう。
どういう断り方をするべきか。俺が女の子に断られる場合、受け入れてもらえるのが一番だがどうしてもだめな場合は、優しく誠実に断られたい。
俺は「ええくそっ」とか言いながら、まだリュックをあさっている男の肩を優しく叩いた。ぎょっとして振り返る男に、慈愛のまなざしを注いだ。
「あなたの気持ちはわかった」
「は?」
「よくは知らないが、あなたは正直で素敵な人だと思う。アプローチの仕方は少々無茶だが、勇気を持って声をかけてくれたのはわかる。だが、受け入れられない俺を許してほしい」
「…………」
男は困惑しているようだった。今までこの方法で外したことがなかったのかもしれない。もしかしたら同種の人間を見分けるアンテナが優れているのかもしれないが、今度ばかりは失敗だ。
俺はなるべく彼の心の傷を癒そうと、優しく続けた。
「きっとあなたのことを分かってくれる人がいる。あきらめないでがんばってほしい」
そういって男の手を優しくとって握手した。どんなに差別心が薄くとも、俺にはこれが限界だ。
彼はしばらく呆然としていた。だが俺の手のぬくもりにはっと気づいた顔をして、急に後ろに跳び退った。
「おまえはホモか!」
いや残念ながら違う。それにその言い方はあまりよくないと思う。自虐的にならなくてもいい。ちゃんとゲイだと名のればいい。
「うわああああっ」
男はリュックをつかむと、すごい勢いで走り出した。あっという間に見えなくなった。俺に拒否されたことがよほどショックだったらしい。普段はあまり断られなかったのだろう。申し訳ない。だが観察眼はもっと磨いたほうがいいと思う。
温かな視線を彼の消えていった方向に向けて、人生に幸あれと祈る。受け入れることはできないが、人の好みは様々だ。きっといつか自分に合うハニーを見つけ出すことができるだろう。女の子だってたくさんいるが、男だって数多くいる。むしろこっちの数のほうが多いので、同性に走ってくれる人が多ければ俺割り当ての女の子の数が増える。winwinだ。
ーーーー女の子の数といえば、そういやキャバクラみたいな百人一首があったな
確か中納言の歌だ。しばし考え思い出した。
『みかの原 わきてながるるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ』
みかちゃん、るるちゃん、いづみちゃん、みきちゃん、かこちゃん、らむちゃん。この少ない字数の中に六人も女の子がいる。るを二度使いすればるいちゃんで七人、かのちゃんも入れれば八人だ。俺は穏やかな気持ちになって帰宅した。
自室にこもって戦利品を読みふけってる時に、弟が帰ってきた。部屋の戸を半分あけて、夕方作ったカレーが残っていることを告げる。食事作りは義務ではないが、多めに作る癖があるので分け与えることが多い。弟も外出先でなにかテイクアウトする時は買ってきてくれるから、別に文句はない。
カレーのにおいが強くなってきた。換気扇を回せ、と今度はスマートスピーカーで告げた。さっきよりだいぶ寒くなってきた。
自室にはエアコンと灯油ストーブの両方がある。空気のためならエアコンのほうがいいが、ストーブはお湯も沸かせるし食べ物を温めることもできる。それになんだかこっちの方があったかく感じる。
カップにティーバッグを放り込み、エアコンとストーブをどちらも点けた。
電話の声に気づいたのはだいぶたった後だ。トイレに立って廊下に出たので、弟がリビングでひそひそ話しているのが聞こえた。部屋に戻って時計を見ると一時半だ。こんな夜更けになにごとだろう、職業柄必要なのだろうが大変だなと考えていたら、巻き込まれた。
「すぐ出るから着替えてくれ」
部屋着兼パジャマのスェットだった俺は首をかしげた。
「何でおまえが出かけるのに俺が着替えるんだよ」
「おまえも出かけるからだ」
思わず眉をひそめた。よくわからんが俺は関係ない。
「すまないが手伝ってくれ。お得意さまなんだ」
俺は目をしばたかせた。
「ラーメン屋とか花屋とか和食処とかレストランならそれもわかる。だがおまえの職業はなんだ」
「探偵だが」
「探偵にお得意さまがあるのかっ」
憤慨したが彼はまるで動じなかった。
「そりゃある」
もう一回吼えようとして考え直した。こいつは大手の下請けもやっている。そのことなんだろう。
「いや、そこじゃなくて個人のお得意さまだ」
「どういうことだよ!」
「話すから着替えてくれ」
好奇心でつられて着替えさせられた。さっき廊下がえらく寒かったので、上にダウンも着る。そのまま部屋の前に出て、話してくれるのを待っていたら、いきなり部屋に入ってきてストーブとエアコンを消され、ぐいと腕をつかまれて車に乗せられた。
「なんなんだよ、いったい!」
「人が死んだ」
「は?」
インパクトがあった。思わず黙り込んだが、やはり俺は関係ないと思う。それでも目を白黒させていると、弟はかまわず車を発進させた。
「俺の師匠に当たるじいさんのことを話したことあったよな」
「ああ。菓子屋の隠居じいさんだろ」
うちの県ではけっこう有名なお菓子屋さんで、商品の中でも『そんな最中』と『なにゆうて饅頭』はコマーシャルのせいか子どもでも知っている。そこの前社長は妙な趣味で、かなり早いうちに家督を息子夫婦に譲って自社ビルの三階で探偵をやっていた。弟は最初そこを譲られる予定で修行したのだが、じいさんはやっぱりもう少し続けたくなったので、弟はいったん辞めて大手の事務所の片隅に席をこしらえてもらった。
ところが去年の暮れ、じいさんが骨折をし単独で探偵を続けることが困難になった。それで彼は事務所の看板を引き継いだ。が、じいさんも手伝い程度はしてくれているそうだ。
「あの人から受け継いだ案件なんだが」
全国区ではないが、うちの県ではかなり上位の医療法人グループの一端に、とある総合病院がある。院長夫人はもともと法人グループの令嬢で、院長はそこに勤めていた腕のいい医師だそうだ。
純然たる政略結婚ではあるが、男女一人ずつのお子さんにも恵まれ、結婚生活は上手く機能しているそうだ、社会的には。
「だが実際のところ、だんなは愛人を作りまくりだ」
「ハーレムものか」
「同時期に複数は持たず、一人と切れてから次を作る形式だ」
「律儀か」
「さあな。で、うちではそいつが新しい愛人を作るたびに相手の素性を調べ上げることになっている」
なるほどお得意さまだ。
「で、別れさせるのか」
「いや。経歴、家族構成、そのほか調べまくってから奥様のあいさつに付き合う」
「あいさつ?」
「そうだ。菓子折りとともに女の家に乗り込んで行く。『主人がお世話になっております。なにかとご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします』と」
「昭和か……いや大正、明治かもしれん。貞淑なんだな」
「まさか。婉曲な脅しだ」
恐っ。自主的に別れるように仕向けるのか。
「それはどうでもいいらしい。病院の経営に口を出したり、財産を狙ったり、子どもに近づいたりを防ぐためだ。敵対的な行動を少しでも取ったら、すでにそろえてある証拠を添えてしかるべき場所に訴えることをやんわりと伝える」
そんなやんわりは、好感を持ってない相手に告られるよりイヤだ。
「それでも屈服しない場合は、弁護士の出番になる。必要なら俺も更に動くが、大抵の場合は先に調べ上げてる分だけで大丈夫だ」
ハイソな方の生活というのはけっこうぶっそうだな。そういや死体は誰なんだ。
「その奥さんが殺されたのか」
「いや。愛人だ。だんなに刺された」
「殺人じゃないか。すぐ通報しろ」
「確認してからだ」
「救急車ぐらい呼べよ」
「いやもう死んでるそうだ」
「犯人かその配偶者が言ってるんだろ。信用できるか」
弟は肩をすくめた。
「だとしても相手は医者だ。他が来るまでに息の根は止めるだろう」
「おい、子どもがいるんだろ。教育に悪い。あきらめてちゃんと自首するべきだ」
「お子さんはどちらも大学生で、うちの県にはいない」
「そんな問題じゃないっ」
憤慨しつつも俺は、お嬢さまな感じの若奥さんの映像を消して品のいい中年夫人を想像する。それほど大きい子のいる奥さんは年齢的にも対象外だ。
「で、おまえはどうして呼ばれたんだ」
「できれば事故という形に持っていきたいそうで、それが可能かどうか検討してほしいらしい」
「そんなの勝手に工作して勝手に警察呼びゃいいじゃん」
「医者だから死体には慣れてるだろうが、殺人には慣れてないんだろ」
「誰だって慣れんわっ」
俺も行きがかり上関わったことがあるが、一生慣れない。
「第一なんで俺が連れて行かれるんだ。隠したいなら向こうも迷惑だ。一人で行け」
「別視点からも考慮させたい、絶対に安全な相手だと伝えてある。以前にあんたのことを話したことがあったから、了承された」
「何話したんだよ」
「まあいろいろと」
弟はにやりと笑った。すげえ腹立つ。
「俺はモラルがないわけじゃないっ」
「だが、かってに通報しない程度にはコミュ症だよな」
事実なのでいらっと来る。こんな真夜中、「殺人がありました。いえ、見たわけじゃありません。そう聞いただけです」としどろもどろになって伝えても、きっと相手にしてもらえない。人あたりのいい弟が電話を奪って「すみません、からかったら本気にされてしまって」とか言ったらそのまま切られる。
「だいたい、どんな理由で刺したんだ」
「理由はまだ聞いてない」
聞けよ。人間関係に疎い俺には想像もつかない。奥さんが刺したならまだわかるが、普通自分の愛人は刺さんだろう。
バレてないなら別だが。立場は嫁のほうが強そうだし、バラすと脅されたとか想像がつく。だが愛人は一人目ではなくすでに本人も奥方も慣れているようだ。今さら殺さなくてもいいと思う。
それとも相手が純情な子で、どうしても奥さんと別れてくれと騒いだとか。
「いや。愛人はいつも風俗系だ」
「派手な子が好みなのかな」
「さあ」
たくさんの人と接する医療従事者は、できればそういった関係は避けていただきたいと思うが、ストレスも多そうなので完全否定もできかねる。
「なんか匂わせを始めたとか」
「その程度じゃ刺さんだろう」
弟は軽く流して、小高い丘をそのまま使った住宅地に車を向けた。自転車で上りたくないほど傾斜がきつい。東西に通ったメインの道路を進みかなり上の方で左折すると、自然が豊富に残っている地区にたどり着いた。小ぶりな山と民家が混在している。
「開発しきってないのか」
「いや、古墳だから保存してある」
うちの地域ではよくある話だ。田んぼや畑の真ん中に残っている地区もある。その辺の人は普通な感じで古墳の周りで農作業をしている。
きょろきょろしているうちに茂みの一つに入り込んだ。と、思ったら小高い木の生垣で、重厚な金属製の門が開かれていた。俺たちが入り込むと自動で閉まった。
そこから進むとエントランスだが、弟は脇にそれてレンガを敷き詰めた駐車場にとめた。中に入るのかと思ったが建物の横を通って奥に入り、館の裏に回った。
すっきりとした平屋の建物がある。西側は古墳なので生垣は低めで、そこを借景として自然の中に溶け込む感じの和風住宅だ。一般的な茶室よりかはずっと大きい。
それでも本邸らしい壮麗な館と比べるとめっちゃ小さい。しかし使用人の住居にしては、なんだか上等そうだ。
「前のは飾りでこっちに住んでる?」
「これは夏用の寝室だ」
「は? 別荘とか行くんじゃないのか」
「病院からそうは離れられんのだよ」
聞き覚えのない声にとびあがりそうになった。ふりかえると男が立っている。
「やあ佐々木さんたち。寒いからとりあえず中に入ってくれ」
しゃれた外灯が一つだけ点いている。その光を受ける男の頭はハレーションを起こしそうなほど見事なハゲ頭だった。
入る前に弟は、密着するタイプのゴム手袋を取り出して手にはめ、俺にも一つ渡した。無言で着用する。医師は手袋をつけていない。
わりと新しい建物なのにバリアフリーは取り入れてなく、玄関はかなりの高さがある。
「夏用だからね、空気が良く流れるようにしてある。隙間もわざわざ作ってね」
篠山無限医師は、気軽な口調で説明してくれる。まるでちょっと遊びに来た友人をもてなすみたいに。
「だから恐ろしく寒いよ。夏でも過剰に涼しすぎる時があるくらいだ。私は寒がりなんで今も震えてる」
そのためか長めのダウンコートを、しっかりと着込んでいる。この地域では珍しいほどの寒さで、俺も震えそうだ。
「暖房はつけないのですか」
つい尋ねると、医師はプルプルと首を横に振った。
「死亡時刻がごまかせなくなるからね。方向性が決まるまではつけられないよ」
やっぱ冗談じゃないのか。
困って弟の方を振り返ると、彼は俺には見向きもせずに医師を見つめ「コトが終わるまではついていたのですか」と尋ねた。
「いや。だって浮気だよ。こっそりここに連れ込んで遊んでいたわけだから、室外機回ってるとマズいでしょ」
また軽く答えられる。俺もつい、軽く聞いてしまった。
「寒がりなのに?」
「寒い中で温かい女の子を抱くのは最高じゃないか」
そうにこやかに答える彼はサイコパス感満載で、俺は寒さじゃなくこいつに震えた。
「さ、入って」
いきなり死体とご対面かとびびったが、玄関の次の間は十畳ほどの和室だった。この奥がフローリングの寝室になっていて、そこに死体があるそうだ。
「このたびは、多大なご迷惑をおかけして申し訳ありません」
和室に入ると、彼は一転して土下座体勢で頭を床にこすり付けた。擦り切れるといけないので、すぐに上げてもらう。見下ろす形になるのも妙なので、ちゃっちゃっとすませたいのを我慢して座る。座布団を勧められたが断った。
「お電話くださったのは奥様の方ですが」
弟が横から指摘する。医師はうなずいた。
「佐紀は今、着替えに本邸の方に戻っています」
仰天した。ということは奥さんのほうが犯人じゃないのか。ついもごもごと尋ねてしまう。すると医師は「だったらよ……」と、口走りかけて危ういところで言葉を吞み込んだ。
「いえ、私です。彼女は人前に夜着のまま出る性質ではないので」
「あなたも着替えましたか」
弟の問いに彼は素直に答えた。
「はい。浴室に血のついた服を置いて、その隣の洗面室で顔と手を洗って着替えました」
「後で確認させていただきます」
「了解いたしました」
軽く頭を下げる無限医師の態度は落ち着いていているが、その外観のためもあって俺は冷静じゃいられない。
「職業柄、毛はないほうが衛生的なんだよ」
視線に気づいた医師は、口調を元に戻した。俺は自分の失礼さに気づいて、あたふたした。
「……すみません」
「かまわないよ。初めて会った人はみな、目が動く」
明るい光の下で見ると、彼にないのは髪だけではなかった。眉もまつげも一切なかった。
「剃られたのですか?」
尋ねたとたんに医師は爆笑した。俺は飛び上がりそうになった。
「眉とか体はレーザーで脱毛だ。頭はハゲた」と答えられて、今度は入るための穴を探したくなった。
「いやあ、彼、面白いね」
「あなたの感情の起伏が、激しくなっているのだと思います」
弟は冷静に言葉を返した。
「そうかもね。初めての経験の後だし」
「事情を話していただけますか」
「その前に見た方がいいだろう。ちょっと覚悟してくれたまえ」
境の戸は四面のふすまだ。と言っても、壁と同じ上質な素材なので圧迫感はない。そこが開かれた。
十二畳ぐらいのフローリングの寝室だ。見るからに上等そうな木製のベッドが二つあり、その間には同じ種類の木のサイドボードが置かれている。
右のベッドはきちんとメイクして合って乱れがない。分厚いヘッドボードには、薄い水色かごく淡い緑のバスタオルが掛けてある。
左のベッドにはふくらみがある。そしてそれは赤く染まり、まだ乾いていない。
「拝見させていただきます」
弟が血染めの掛布をはいだ。その下には若い全裸の女性の死体があった。心臓に刺さっていたらしいナイフは抜かれて、死体の横に置いてある。
心臓の位置には分厚いタオル地の布があてられていた。ヒモがあるので、バスローブだと思う。もとは白だったようだがぐっしょりと赤い。
「このナイフは?」
弟が尋ねると彼は「隣の簡易キッチンのやつ。メスみたいによく切れるよ」と答えた。ブランド品らしい。
弟は了承を得てキッチンの方に向かった。俺も、殺人者と二人きりで残されたくはなかったので、後を追った。
きっと本邸のと較べると小さいんだろうけど、アパートなんかにあるのよりはずっと上等だ。床はここもフローリングで、壁とかはたぶんホウロウだ。
「なぜそう思う」
口に出したら弟が尋ねるので、壁にくっついたお玉かけをずらしてみせた。
「以前買ってみたがうちの壁にくっつかなかったやつと同じだ」
ムダにはしていない。今は冷蔵庫に貼ってはさみとか掛けている。
件のナイフは、木製の包丁入れが流しの隅にあるので、それに入っていたのだと思う。三つ穴があるが、一つ空いている。
「隣にも行ってみよう」
キッチンの端にドアがある。そこを開けると棚しかない簡素な空間だった。だが床においてあるのは珪藻土マットなので、ここは脱衣室だと思う。キッチンと逆側のドアを開けると、フロだった。床は乾いている。
「あれだな」
血に染まった布が丸めてある。バスローブらしい。弟は広げてみたが、けっこう広範囲に赤い。
「外科医だったら、もっと上手に刺せるんじゃないのか」
「そんな理性があったら、そもそも刺さないよ」
また飛び上がりそうになる。
いつの間にか医者がついてきていた。俺は焦ったが、弟は冷静に「そうですね」と相づちを打った。
フロは充分な広さの浴槽もあり、普通っぽかった。だがつくりはちょと変わっていて、キッチンと逆側のほうにもドアがあり、そちらの方が洗面所になっている。
つまり、二つドアがある。ためしにそちらの方に出てみたが、玄関から入るようになっている。和室や寝室から直接は行けない。
「妻は潔癖なのでね、玄関から風呂に直行することがほとんどだ」
「え、お湯がたまるまでヒマじゃないですか」
「夏場は24時間風呂なんだよ。いつでも入れる」
冬の間は止めてあるそうだ。
一通り眺めたので、そのまま玄関の方に出て和室に戻った。死体なんかなるべく見たくない。医者も弟もぞろぞろとついてきた。
「……話していただけますか」
弟が穏やかにうながす。無限医師は落ち着いた声で話し始めた。
「いつもと同じ浮気だったんだよ。だがこのお嬢ちゃんは気が強くてね、うちの奥様のごあいさつを受けてイキっちゃってね。でも訴えられるのも恐いし、親に知られるのもイヤだったらしく、地味な報復を選んだ。それがこの、敷地内の別宅での行為の強要だった」
「拒否しなかったんですか」
つい尋ねると医師は首を横に振った。
「だって興奮するでしょ」
俺よりクズだな、この人。
「それでどうして……」
と言いかけた時、玄関が静かに開くのを感じた。俺は話をやめ、ふすまが開くのを待った。
「……遅れてすみません」
着物姿の美熟女が頭を下げる。声が出なかった。
俺は基本年下が好きで、年上はプラス五歳までと決めている。ただし女優さんなんかはプラス十歳でも対象に入る人はいる。それでも四十歳以上の人はどれほどの美女でも範囲外だ。
そう思っていた。しかし目の前の雪女みたいな人は、考慮に入れることもやぶさかではない。
呆然としているうちに彼女はゆっくりとひざを着き、部屋の隅に座った。旦那には目もくれず弟にあいさつをしている。その後ゆっくりと俺の方に顔を向けた。
「はじめまして!」
普段コミュ症気味の俺とは思えないほど甲高い声が出た。同時に右手を差し出す。
「佑二の兄の明裕といいます」
美女は困ったようにその手を見つめ、深くおじぎをした。俺も手を引っ込めておじぎした。
時間がかかったのも無理はない。髪はきっちりと結い上げられているし、着物もきっちりと着付けてある。
うっすらと化粧はしているようだが抜けるような白い膚で、眉の形も美しい。唇は花びらのようで鼻の形もつつましく、うなじも綺麗だ。
着物は白だ。立っている時に見たが、裾の方に薄墨色の観音様が描かれていた。片手に花瓶らしいもの、もう片手に派手な杖を持っている。色は他にない……いや、衿元がわずかに緑っぽいごく薄い水色をしている。そういや思い出した。うちのおばあちゃんが昔、秘色っていってた色だ。
俺は美女に見とれ、弟の咳払いでようやくさっきの問いかけに戻った。
「どうして殺したんですか」
美熟女は眉一つ動かさず、冷たい目で医師を見た。国ごと凍らせることができそうだった。
医師はちょっと咳き込み、ちらと彼女を見てから答えた。
「……うちの奥さんを殺せと言い出した」
「はあ」
「彼女とは遊びだよ。だから気がとがめないように、少々悪い子を選んでたのは確かなんだが、だからってあまりに酷いし無茶だ。奥さんは私の子を生んでくれたし、うちの医療グループの令嬢だ。たとえ私が従ったとしても、彼女の兄弟が必ず真相を突き止める。絶対無理な話だよ」
しつこく言いつのられているうちに、殺意が芽生えたらしい。
「そりゃ私が悪いよ。悪いんだけどさあ、ぎゃんぎゃん言ってくるのをなだめたりすかしたりしているうちに、何で金払ってこんなバカみたいなことやってるのかな、とどんどん気持ちが冷えてきて、その上責めたててきた彼女が横でがあがあ眠り込んだのを見て、なんか魔が刺したというか、いつも人の命を助けるために必死になってるけど、逆やったらどんな気分かなあ、とか考えちゃってさ」
医師は言葉を切り、さすがにうつむいた。
「なんだかふらふらとキッチンに行って、包丁を握り締め、半分夢みたいな気分でぐさっと」
返り血を浴びてるうちにだんだん正気に戻ってきたそうだ。
「とりあえずバスローブで顔を吹いて、内線で奥さんを呼んだ」
奥さんも医療関係の家で育った人だ。驚いたが気絶はせず、事情を聞き、落ち着いてから懇意の弟に電話したそうだ。
ちなみに医者が話す間、奥さんは凄い目で彼をにらんでいた。恐い。でもなんだか少し興奮する。だが弟は、正式な顧客である彼女より医師の方を見て発言した。
「当方は、この責任を追求する立場にありません。そしてクライアントの立場を、可能な限り守りたいと思っています。ですが、自首することが最善の策だと考えます」
「却下」
弟の意見は考慮さえしてもらえなかった。それでも彼は不愉快そうな表情はせず「ではどのように致しましょうか」と尋ねた。
「んー、そうだね」
医師は一瞬考え「男三人もいたらちゃっちゃっと片付くと思うから、カノジョを浴室で解体しない?」と明るく提案してきた。
呆然と口を開ける俺たちに「大丈夫、教えてあげるから。骨だってコツをつかめば割りとカンタンに外せる」とにこやかに告げた。反論するためか口を開こうとした弟に「うちの包丁よく切れるんだよ。刺したのはナイフだけど、肉切り包丁はもっと凄い」とダウンを開いて、腰元に挿した包丁をちらりと見せた。さっきキッチンから取ってきたに違いない。
「……おケガをするといけませんから、預からせてください」
青い顔をした弟が、必死に穏やかな声を出す。医師は明るく「ご親切にありがとう。でも、刃物には慣れてるから大丈夫だよ」と答えた。実に物騒だ。
俺は視線を外そうとして気づいてしまった。開いたダウンの中、シャツでほぼ隠れたうなじの一部に赤黒いしみが一つあることに。
……血液の飛沫が残っているんだ
興奮した状態で洗顔したので、あまり気を配れなかったに違いない。俺はなおいっそう恐怖したが、普段は冷静な弟の顔色を見ているうちに、ほっておくわけにもいかなくなった。
「あまり得策とは思えませんね」
可能な限り淡々とつぶやいた俺の方に、医者の視線が動く。むちゃくちゃ恐い。
「どうしてそう思うのかな?」
ハゲ医者は楽しそうに尋ねる。俺は空気の塊を吞み込み、それに答えた。
「確かに死体が出なかったら逃げ切れるかもしれません。ですが、隣の部屋のお嬢さんは風俗店にお勤めだったそうですね。店の誰かが届けを出せば、いずれあなたの名は捜査線上にあがってくると思います」
奥さんの眉がピクリと動いた。そら、浮気性の夫でも、子どもの父親を罪人にしたくはないだろう。
「そうだろうね。でも派手な子だったから、付き合っていたのは私だけではないと思うよ」
彼女は、もっと露骨に嫌そうな顔をした。だが医師の表情は変わらない。
「なんにせよ細かく刻んでしまおう。じっとしていると寒いし」
医師はダウンを閉じながら誘いかける。奥さんはまた完全に無表情だ。俺はどもらないように気をつけてしゃべった。
「それでも一応捜査はされると思います。俺は警察だったことはありませんが、もし調べるなら水道料金は絶対調べます。いつもより使いすぎていないか、例年と較べてどうか。そして異常があったら、排水溝を徹底的に調べます。だから隠しきれると思えません」
全員黙って俺を見ている。やがて医者が長いため息をついた。
「やっぱダメかあ。いけると思ったんだがな」
あきらめてくれたらしい。ほっとしていると、医師はまた顔を輝かせた。
「これから、みんないっしょにドライブしよう!」
弟の顔色は冴えないままだ。俺も脈が速いような気がする。でも医師は楽しげだ。
「海がいい? それとも山にする? うちの県はどちらもたっぷりあるから、行き先には困らないね」
俺が困る。弟も困る。奥さんは……わからない。医療グループの一端の院長であることを考えると、隠し切ったほうがいいのか。
「旅行用の大きいトランクを取ってくるから、ちょっと待っててくれる?」
ノリノリで立ち上がったから、慌てて引き止めた。
「それより、冷静な視点でもう一度死体を見に行きましょう、みんなで!」
……他に思いつかなかった
何で俺のような陰キャが、ここまで気をつかわなきゃならんのだ。しかし言ってしまったから仕方なく立ち上がり、ふすまを開けた。
死体なんてもう見たくなかった。だが死体を埋めに山中に行ったり、海に沈めに行ったりするよりかましだ。何とか引き伸ばしてタイムアップに持ち込みたい。
俺は平然と死体に近寄った。全裸なのでまたガン見してしまったが、うわああな気分が強い。
あたりまえだが、死体はさっきと何も変わらない。間が持たないのでさっさと視線を動かして、部屋中を見回した。物の少ない部屋だ。シーズンオフ以外使用していないせいか、わずかにほこりっぽい。
サイドボードには人の触れた跡が残っている。死体のある方のヘッドボードも指のあとが少し残ってる。タオルのかかってる方は均等に薄くほこりがある。床は足元がざらつくほどではないけれど、わずかに感じなくはない。
ドアだとか、窓だとかこっちが必死に眺めているのに、探偵である弟は部屋の入り口に立った奥さんとなにか話している。医者はもの凄く冷徹な視線で死体を見ている。
「……初瀬の観音様ですね」
教養のある弟が、奥さんの着物の柄について言及した。
「左手に水瓶、右手に大錫杖を持っている」
「お若いのによくご存知ですのね」
おい自分の仕事なのにいい気なもんだな。それにあれは花瓶と杖じゃないのか。なんか俺、すげーバカみたいじゃないか。不満を述べようとしたが、脳内にかちり、と音が響いた。
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読者への挑戦
さて、すべての条件が出揃った。ただし犯人については重要視していません。真の犯行理由についてあててみて下さい。
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「充分見て満足したかな? それじゃドライブに行こう。君たちの車でね」
ハゲ医者は死体から目を離して話しかけてきた。俺は彼の目をじっと見返した。
「なに?」
明るく尋ねられたが「時間のムダなんでよしましょう」と告げた。
「どういうことかな」
彼はまたダウンに手をやったが、俺は「脅しは不要です」と言葉を重ねた。
「あなたは殺していない。だからサイコパスぶるのもやめましょう」
「何を勘違いしているのかな」
「はっきり言ってほしいんですか。このお嬢さんを殺したのはあなたの奥さんです」
無限医師は少し青ざめた。奥さんの方は無表情だが、わずかに満足げに見える。
「…………どうしてそう思うのかね」
「奥さんの襟元と同じ色のタオルのかかっている右のベッドは、実は彼女のベッドではない。死体がある方が彼女のベッドだ」
逆だ。だから彼女は激昂した。
「奥さんは夜、この家に人の気配があることに気づいた。音を立てずにそっと覗きに行った。和室からの戸はふすまだ。彼女は細くそこを開け、見てはならぬものを見てしまった。浮気には耐えられるのかもしれない。でも潔癖症な彼女は、自分のベッドに他の女が寝ているのを我慢できなかった。怒りを抑えられなくなった彼女は、和室を出て玄関から洗面所、フロ、脱衣所を通ってキッチンにたどり着き、ナイフを取って眠っているあなた方のところに行き、女をナイフで刺したんです」
みんな黙って俺を見ている。だが医者はふいに「そんなことがなぜわかる!」と叫んだ。
「わかります。だってあなたは寒がりのハゲです。そしてここは夏でも寒いほどの家で、ベッドはとても上等そうな分厚い板でできている。それでヘッドボードにタオルをかけて頭の冷えを守っていたんです。だからこちらのベッドが本当のあなたのベッドだ」
医者は金魚のように口をパクパクさせたが、声は出てこなかった。
「夫婦間のことは俺にはわかりません。彼女のベッドを使用したのは、奥さんに対する悪意かもしれません。だけど同時に、あなたは奥さんを愛していた。だから罪を引き取ることにしたんです」
たぶん奥さんは嫌がった。それをなだめすかして自分の言葉に従わせた。そして自分は、目立たないところに血を塗り、包丁を装備したり異常なふりをした。
「そんなわけがない! 私が犯人だ!」
「あなたがどんなに言い張っても、奥さんは警察で本当のことを言うつもりでしたよ」
え、と医師は妻の顔をうかがった。彼女はまた無表情だ。だが俺は確信していた。
「彼女の着物は初瀬の観音様だそうですね。初瀬といえば、百人一首に源俊頼朝臣の歌があります。『うかりける 人を初瀬の山おろし 激しかれとは祈らぬものを』奥さまはこれを思いつつその着物を着用した」
弟と医師が首をかしげている。だが、奥さんの口元にはわずかな微笑が浮かんだ。
「彼女は『ハゲ叱れ』とは祈らなかったんです」
「…………おっしゃるとおりですわ」
今度ははっきりと微笑んだ。
「私は自分の犯罪は自分で償うつもりです」
「しかし君! 子どもたちには……」
「父親のあなたが配慮してあげて」
そして彼女は「警察を呼んでください」とつぶやいた。だが弟が「その前に弁護士を呼びますよ」と口を挟んだ。彼女は静かにうなずいた。
やがて弁護士が慌ててやってきた。俺たちは明日出頭することを約束していったん眠りに帰ることにした。
「そういやあの札、あんたの得意札だったな」
車の中で弟が言う。俺はうなずいた。
「うちで百人一首やる時は、作者名を読みあげてから始めるルールだったからな」
「?」
「としよりーはげだから覚えやすかった」
彼はハンドルを握ったまま少しため息をついた。
「それはいいとして、何で強引に俺を連れてきたんだ」
実に迷惑だった。
「そりゃあ……」
彼は何か言いかけてやめ、にやりと笑った。
「殺人が本当なら一人で行ったら危ないじゃないか」
納得した。俺はあくびをし「二度と巻き込むな」と釘を刺した。
弟は答えない。東の空はわずかに色を薄くし始めた。
メリケンサック=ナックルダスター