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第三章 七月に揺れる蜃気楼(下)

『乃木 紀彦の片思い』前編


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Twitter:@kiriitishizuka



 

 今日の喫茶店は少しばかり込み合っていた。


 7月20日という夏休みを過ぎたタイミングもあるのだろうが、どうも年々熱くなる日照りから逃げるようにして、ここがかっこうの避暑地となっていた。


 古臭くなった冷房からは少しばかり不調の音がなり、もう替え時かなと、頭の中の電卓を叩いた。

 梅雨が明けてから数日、日照りは一向に温度を増すばかりで、ニュースでは毎年のように最高気温を更新している。


 温度が上がるほどに客が増すというのは、なんだか嬉しいのか悲しいのか、暇にかまけることなく、私は忙しさに身を投じていた。


 そんなある日の夜、俺は閉店の店じまいを済まし、ガチャリと喫茶店の鍵を閉めた。

 時間は11時を回っているというのに、夏夜の熱気が身体へと纏わりつき、仕事終わりの疲れにいっそうの拍車をかけた。


「紀彦さん」


 ふいに後ろから声を掛けられる。

 その馴染み深い声に、私はゆっくりと後ろを向く。


 そこには真由美が清楚な白いワンピース姿で立っていた。

 一瞬、それは夏の幻影かと思ったが、そんなのは思い違いで、そこにいたのは正真正銘の人間であった。


「真由美、どうしたんだこんな時間に」

「紀彦くんそろそろ仕事終わるのかなって少しだけ待ってみちゃった」


 真由美さんは無邪気に笑った。

 その無邪気さは幼き遠い記憶と遜色なく、眩しく可愛げに溢れていた。


「陽菜ちゃんは……」

「陽菜は今日実家のほうに泊ってて私一人なんだ」


 彼女は一歩二歩と私に近づき、私の前に顔を近づけた。

 私は冷静を保ったが急激な心拍数の上昇を抑えることは出来なかった。

 ふわりと香る香水と、私を誘う独特な女性の匂いが、私の鼻を掠めていく。


「時間……空いてる?」


 その一言が、私を胸の奥のほうをギュッと握った。


 こんな感覚は高校生以来だっただろうか。

 あまりにも懐かしいその感覚は、過去の淡さを再び蘇らせるかのように、私の心に忘れかけていた遠い日の幼き自分へと巻き戻していった。


「あぁ……明日休みだしな」

「じゃあ付き合ってよ」


 私はその言葉に惹かれるがまま、彼女とともに西ヶ原駅へ向かうと一件の居酒屋へ入店した。

 この夜の時間帯になると、個人経営の小料理屋は閉店しており、空いているのは全国チェーンの居酒屋ぐらいであった。


 日曜日の夜中ということもあり、客席は閑散としている。

 騒がしい喧騒が苦手な私にとって、それはとても幸運であり、入店への抵抗感を和らいでくれた。

 そのまま席へと案内され、個室型となった部屋に通された。


「初めてじゃない?こうやって二人きりになるの」

「そうだね。多分高校生以来だと思う」

「そうだっけ?」

「そうだよ。多分覚えてないだろうけど」


 真由美とは何かの腐れ縁なのか、小中高校と一緒の時間を過ごしていた。

 いつから知り合い、それから仲良くなっていたのかはいまいち覚えてはいないが、気づいたときには真由美と遊ぶ機会は増えていた。

 だが、あまり2人きりで遊ぶことは少なく、当時よくつるんでいた亮もここに加わっていた。


「あの時は亮くんと付き合ってたからね。紀彦くんになかなか気を向けることができなかったのよね」

「俺も2人の間に踏み入ることは出来なかったよ」


 私と真由美は当時のことを思い出していた。

 一杯目のお酒が運ばれると、乾杯をし、2人で昔話に花を咲かせた。


 亮は私の幼馴染で、ちょうど実家の隣に住んでいた男の子で、真由美の前夫である。


 先ほど話していた2人きりになったというのは、亮が高校2年生の時に、怪我で入院したお見舞いの帰りでの出来事であった。

 近くの食事処で食事を取ったというだけの思い出であったが、そんな小さな思い出も私は鮮明に覚えている。

 叶わぬ恋を必死に追いかけ、たまたま2人きりとなった空間での数時間は私にとって生涯忘れることのできない一時であった。


 そう、真由美は亮の恋人であった。


 それがいつからかなのかはわからないが、亮が私に対して真由美が好きだと打ち明けたのは中学3年生の頃で、あまり積極的になれなかった私は、親友の恋を影ながら苦しく応援することしか出来なかったのだ。

 そんな応援のかいもあったのか、2人は付き合いだしたが、変わらず私とは仲良くしてくれて遊ぶことを止めはしなかった。


 だが高校3年生となり、私は大学進学を考えた頃、ちょうど親父との距離を置きたいという気持ちと、真由美と亮の幸せを壊してはいけないという自責に苛まれ、私は逃げるようにして上京してしまった。


 それから数年。

 大学も無事卒業し、社会人として忙しない日々を送っていたころ、一通の手紙が届いた。

 封を開け、中身を読むと、それは亮と真由美が結婚したというお知らせであった。


 私はそれを知った瞬間、嬉しさが込み上げてきたが、大粒の涙が何滴も目からこぼれ出し、手紙の文字が滲むほどにそれを濡らしてしまい、ぐちゃりとその手紙を握ってしまっていた。

 それからまた数年がたち、ちょうど私が地元に帰り、喫茶店に出向いたときに真由美と再会したのであった。


「亮くんは昔からやんちゃだったからね。なんだか今でもどこかで生きてそうな感じがするのよ」


 真由美は4杯目のハイボールに口をつけ、酔っぱらいながら呟いた。

 亮は真由美との間に娘が生まれてすぐに、交通事故で亡くなっている。


 ちょうど仕事の帰り、夜遅くの出来事であり、信号無視の車に跳ねられたとのことであった。

 私は仕事の都合で葬式に参列することは出来なかったために、未だに実感がつかめないままでいる。

 真由美のその呟きにどうも返すことは出来ず、ただただ黙って私は自分のハイボールに口をつけた。


「陽菜ちゃんは……お父さんがいないことどう思ってるの?」

 話を切り替えるように、私の口から無意識に言葉が出る。


「陽菜は……あまり気にはしてないよ。あの子は亮くんの性格に似たせいか、すごく自分の芯が強くってね。私も早く自立しなきゃって、必死になって勉強とかしてるわよ。だけど母からすると凄く心配なのよ。頑張ることはいいことよ?だけど、頑張るっていうのはあくまでも自分の無理をしない程度が一番いいわけで、陽菜は今にも倒れそうなぐらい頑張っているの」


「それは……大丈夫なのか?」


「大丈夫じゃないわよ。何度も少し休んだ方がいいわよって声をかけてるんだけど、その度に「今はまだ頑張れるからいいの」って躱されちゃうのよ。意固地っていうかなんていうか、やっぱりお父さんがいないことをどっかで悔やんでるのかもしれないのかなってさ」


 真由美さんは静かにグラスを置いた。

 子供にとってのお父さんという存在がどれほど大きいものなのかというのは私も知っている。


 私の場合は、親父を嫌っていたが、それでも亡くなった後にできたどうも埋めがたい心の穴は、親父の偉大さを感じざる得ない出来事でもあった。


 その「父」というものが今まさに私の大きな障壁となっている。

 私が、もし、真由美と一緒になれるのなら、昔の私は「はい!」と即答しただろう。

 2人で甘い時間を過ごして、2人だけの思い出を作って、色んなことをしようと妄想していたかもしれない。


 だが、現実はそんなに甘くはない。


 私がもし、真由美と一緒になれば、それもう彼氏ではなく、父親という役目を担う責任を負うことと同義となる。

 父親というのが、子供にとってどれだけ偉大で、今後の人生に大きな影響を与えることは間違いない。

 私は、その現実と直面するのを避け、遠目で眺めるだけで、一歩近づくことはしていなかった。


 要は、私が弱いのだ。


 私が嫌った父親のようになりたくないと考えていた私が、いざそれを迫られるとその責任を持つことに怖気づいてしまい、足が動かなくなる。

 この年齢にもなって、我ながら恥ずかしさと情けなさが込み上げてくる。


「お父さん……か。俺にはまだ考えられないよ」

 私はぼそりと呟いた。


「そんなことないわよ。紀彦くん、昔からしっかりしてたじゃない!」

「いや、そんなことないさ。いつか化けの皮が剥がれて、嫌われるんじゃないかって隠すことで必死だっただけだよ」

「そんな意地張らなくたってカッコよかったよ昔から。男の子って、よくわかんないや」

 そういうと、私と真由美は薄く残ったハイボールを一気に飲み干した。


 私と真由美は昔からこうだ。


 近づいたと思ったら遠ざかって、遠ざかったと思ったら近づいてきて。

 私にはその距離感が掴めずに、ずっとモヤモヤとしていて、学生の頃はあまり本心を見せることはなかった。


 私は昔から知っていたのだ。

 真由美が私のことが好きであったことを。


 好きであった気持ちを知っていたにも関わらず、確証がないために、自分が一歩踏み出す勇気を持つもことが出来ず、告白する勇気なんて持つこともできないで、ずっと黙りこくっていた。

 亮が先んじて真由美に告白し、勢いのまま付き合い続け、私はその光景が嫌で大学進学を言い訳に上京してしまった。


 嫌いな親父の顔も、幸せそうな真由美と亮の顔も見ずに過ごしていける。

 多分、真由美は私が上京したことに諦めがついたのか、そのまま亮と付き合い続け、結婚した。

 亮が不慮の事故にあって死んだと聞いたとき、悲しさが溢れてきたことを覚えている。


 真由美は本当に亮を愛していた。

 だけど、付き合いだした当初は、真由美は亮のことなど好きではなく、私への当てつけをするかのように付き合っただけなのだ。


 そんな真実も知らぬまま、死んでしまったのはある意味で幸運だったのかもしれないが、結婚式にも行かず、子供の誕生も祝えず、最後に出会ったのは棺の中の顔であった。


 運命というのは、どうも悪戯好きのようで、ついに私の番が回ってきてしまったと少し慄いたのを覚えている。


 2時間ほどいた居酒屋を出て、私と真由美は帰り道をトボトボと歩いて行った。

 そんな2人は肩が左右に揺れながらも、近づいては遠ざかってを繰り返している。


「紀彦くん。今日はありがとう。なんだか昔の思い出に浸れて嬉しかったわ」

「それはこっちもだよ。俺昔の楽しかった時間を思い出せたのは幸運だったよ。ありがとう」


「そんな!ありがとうだなんて、こっちが言い足りないぐらいだよ」

「そうか?それは俺も同感だな。言い足りないよ」


「ねぇ、紀彦くん」

「なんだ?」


「もしさ―――」


 真由美の言葉が詰まった。


 私はその言葉の先を知っている。

 だけど、無理やりその言葉の先を聞こうとはしない。


 数秒間の無言が続く。

 2歩、3歩と歩みを続け、赤信号の横断歩道で2人は立ち止まった。


 大型のトラックが何台か通り過ぎる様子を見送っていたが、真由美は小さな声で何かを呟いていた。

 だが、トラックの大きな音にかき消され、それを上手く聞き取ることは出来なかった。


「ごめん、なんでもないや。忘れて」

 真由美はそっけなく答えた。


 横断歩道の信号が青へと変わり、メロディーが流れ始める。

 1歩先を歩く真由美に手を伸ばそうとしたが、止めた。


 今ここで私が彼女の手に触れたのなら、今まで積み上げてきた思い出が、砂の城のようにぽろぽろと崩れていくような気がしてならなかった。

 どうもこのむず痒い距離感に、悔しさが堪えきれず、親指を食い込ませるように拳を握った。


 あと数センチの距離が、これほどまでに遠いことに心が痛む。


 自分がほんの少しの勇気を持っていれば、彼女の手を握れたのかもしれない。

 夏の汗ばむ夜に、不甲斐ない私と若き日の自分の蜃気楼をぼんやりと重ね、『相変わらず弱虫だな』と彼女の背中越しにぼそりと呟いた。



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