第三章 七月に揺れる蜃気楼(上)
『乃木 紀彦の片思い』前編
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梅雨が終わったというのに、今日は生憎の雨であった。
雨はどうも感傷的な魔力を持っているようで、私には魔力への免疫はなく、私の僅かばかり残る快活さは、あの窓に張り付く雨粒へと吸い取られ、代わりに嫌に湿った空気がその感傷的なものと一緒に体へと纏わりついた。
私は昔から雨に濡れるということが、本当に嫌いであった。
まだ何も知らない子供のころは、雨が澄んだ雫のように見え、よく人差し指に垂れた一滴を第一関節まで甘噛みするように口に咥えていた。
母親からはそんな汚いもの口にするんじゃありませんと怒られたが、その当時はこんなにも澄んだ雫が汚いものだとは到底思えず、反抗するかのように傘から垂れた雫を手の甲にわざと乗せ、それを舐めるという、今となれば奇怪と思えるような行動をとっていた。
初めて雨が汚いものだと知ったのは、小学生の理科の授業の時であった。
地球には循環作用というものがあり、雨もその循環作用の一つであり、海水の蒸発により雲が作られ、その雲が土地に雨をもたらすと聞いたとき、私は背筋にムカデがせせりあがったような全身を身震いさせるほどの悪寒が走ったことを今でも思い出す。
あの広くどこまでも青い空が生んだ水と本気で信じて止まなかった少年の私に突き付けられた現実は、私の高貴な対象を一瞬にして下賤なものへと裏返るのはそう難しいものでもなかった。
そうやって私は大人になるにつれ、無駄に増殖する知識と社会の淀んだ現実を知っていくたびに、私の心の中は嫌いなものばかりが堆い山となり、時折、高山病のような心身の不調を起こすことが度々あった。
そんな私にも数少ない、寛ぎというものは残っている。
私は事務所からすこし錆びれたパイプ椅子をカウンターへと持ってきて、読み切れていない古典小説の世界に耽っていた。
文学という文字の芸術に心が洗われるという感覚は、現代の情報社会において、とても稀有な感覚だと私は思っている。
私自身は読書家だとは一度も思ったことはないが、人よりも文学を読んでいると自負している。
なんせ親父が大の本好きで、結局死んでもなお実家には古本が捨てきれずに書斎で眠っているのだ。
母が父が好きだった書斎だからと、毎日のように掃除をしているおかげか、古本は埃もたまらずきれいな状態を保っていた。
若い頃はどうも文学というものを古臭く感じていたせいか、大してその良さを感じることは出来なかったが、長年この喫茶店に絆されてしまったせいか、今では文学の古臭さも身に染みるようになってしまった。
私は手に持った三島由紀夫『潮騒』の80ページ目を指で捲る。
とある孤島の男女の純愛を語る小説に、今になって大いに共感してしまうのは、年齢のせいもあるのかもしれないが、自分の淡い初恋のせいもあるのかもしれない。
大人になってもそんな淡い初恋だけは汚れずに、ゴミのように積まれた私の嫌悪の中で、未だに輝きを放っていた。
カランカラン。
時計が午後6時を回った頃、喫茶店の扉についた鈴の音が響き、来客の合図をもたらした。
「いらっしゃいませ、真由美さん」
「今日はお客さん少ないみたいね、紀彦くん」
「雨だから仕方ないですよ。今日は雨宿りですか?」
「半分正解。たまにはテイクアウトじゃなくて、気分転換にここでケーキを食べたいと思ってね」
「ありがたいです。こちらにどうぞ」
そういうと私は真由美さんと、その後をしがみつく陽菜ちゃんを奥のソファーの席へと案内をした。
今日は人がいないために、普段は3人掛けの席を特別に通してあげた。
「夕食は食べられているんですか?」
「食べてないわよ。今日は陽菜のお祝いも兼ねてるから、ケーキと一緒に夕食もここで食べようと思ってね」
「お祝いですか」
「えぇ、陽菜のね。吹奏楽部で地区大会で金賞を貰えたから、それのお祝いよ」
「それはすごいじゃないですか。よかったね陽菜ちゃん」
私は陽菜ちゃんにお祝いの言葉を送ったが、それに対し喜ぶ顔を見せることはなく、プイっと顔を横に向けた。
相変わらずな態度に、ああやっぱり好かれてはないよなと少し落胆するが、小さいながらに大人のしがらみの中で生きる陽菜ちゃんは少し逞しくも見えた。
「それではメニューが決まったらお呼びください」
私はテーブルの立てラックからメニュー表を二つ取り、それを真由美さんと陽菜ちゃんへと渡した。
メニュー表が渡ると、二人とも笑顔になりながらどうしよっかと笑いあって夕食を決めていた。
私はその姿をカウンターからちらりと覗いたが、それが微笑ましくも見えて、それと同時に物悲しくも見えた。
あそこに私が居たのなら、あの空間はもっと温かくなるのだろうか。
一人欠けたあの空席に、どうも自分の姿を重ねてしまう私がそこにはいたのだった。
◆
真由美さんと私は昔なじみの同級生であった。
まだ私が小学生のころ、思い返せば約34年前まで遡る。
ここら辺はまだ都市開発のされていない、少し田舎っぽい地域で、小学校も中学校もこの地域には一つしかなかった。
そのためにこの地域に住んでいる人は皆同級生となったのだが、真由美もその例外ではなかった。
私は一時はこの土地を離れたものの、やはりこうやって戻ってきてはこの喫茶店に居座っている。
もし真由美さんが別の地域で暮らして、この喫茶店の常連客でなかったら、私は今頃このお店を畳んで潰してしまっていただろう。
私にとって、それほどまでに真由美は私をここに縛り付ける大きな理由となっていた。
その理由は至極単純で、それは私の忘れられぬ初恋の相手だったからだ。
この年齢になってまで、初恋を追いかけているのはあまりにも恥ずかしい。
周りにこの想いを相談できるわけでもなく、寂しさを紛らわすため、時折、卒業文集を眺めたりしていた。
正直、私はこの地元にあまりいい思い出はない。
正確に言えば、この喫茶店と自分の親父が好きではなかった。
親父がこの喫茶店を始めたのは、私が幼稚園の年長、来年は小学生となる年であった。
親父は急に脱サラしたかと思うと、喫茶店のマスターになりたいと言い出し、多額の借り入れをしてまで、ここに喫茶店『Gatsby』を開店させた。
喫茶店は確かに居心地がよく、地域の憩いの場になっていったかもしれないが、私たち家族はそんな地域の憩いの場のために、親父のわがままと借金に振り回され、いい思いをしたことなど一度もなかった。
子供のころの貧乏の思い出というのは、大人になっても消えるものではなく、今でも心の蟠りとして残留している。
親父が脳梗塞で倒れたと聞いたとき、ひどく心配もしたが、葬式となったとき、なぜだか感謝の念というものが浮かんでくることはなかった。
私は大学進学をきっかけに、この地元を離れたくて上京したが、貧乏で苦しめた親父に金を借りるなどという愚行は私には許せるはずもなく、多額の奨学金を借りて授業料を賄っていた。
大学卒業後は、貧乏の記憶が生んだ金への執着というものが私の就職先を決め、すぐに稼げると外資の保険会社へと就職した。
皮肉なことに、貧乏の根源となった喫茶店の帳簿をよく目にしていた私は、経営という面に他とは優れた経験を持っていたおかげか、若いうちから頭角を現し、気づけば30代で管理職にまで出世していた。
だが、人生の転換とは思いがけないタイミングでやってきた。
そんなビジネスの大波に乗っていた頃、親父が倒れたと突然私の耳に飛び込んできたのだ。
私は急いで地元に戻ったが、私が病院に到着したと同時に、親父は息を引き取った。
あまりにもあっけない最後に、私は心の整理がつかないでいた。
顔も見たくないと思っていた親父が死んでしまったことで、私は親父への反骨心というか復讐心というかそんなものが灰となって飛んでいき、心の中にぼっかりと空洞が出来てしまったような感覚に陥った。
今まで仕事の燃料としていたものが消えると、人間は不思議と何もかものやる気が起きなくなるようで、私も同様に燃え尽き症候群に罹患した。
あの金銭欲を燃料とした仕事場に戻ることはなく、私はなんの考えも浮かばないまま、実家で居候のように入り浸っていた。
親父が死んでから2週間が過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻した頃、母とともにあの喫茶店をどうするかという話をした。
母は親父が死んでからというもの生気をなくしたように、日に日に快活さというものがなくなっていき、その姿を見て喫茶店は任せられないと判断し、必然的に私があの喫茶店の進退を決めることとなった。
臨時休業と張られた紙に、ドアノブにはクローズという看板がぶら下げられている。
その光景はなんというか、墓地に赴く空気にとても酷似しているようにも思えた。
扉の鍵穴に鍵を差し込み、扉をゆっくりと開けるとカランカランという音がなった。
薄暗い店内の明かりをつけると、そこには私が地元から離れたあの日から何一つ変わっていない喫茶店の姿があった。
少しばかり店を空けてしまっていたせいかうっすらとテーブルやカウンターに埃がたまっていたが、店内からはまだ親父の生気を感じた。
私は一通り、店内の掃除をし、事務所からパイプ椅子を持ち出しカウンター越しに腰を下ろした。
カウンター越しの景色は、まるで別世界のようであった。
ここからは店内を一度に見ることができ、まるで上から俯瞰しているような感覚に陥ってしまう。
それに、細々とした置物や、整列する窓ガラス、色の配色やテーブルの配置に至るまで、計算されたかのような集合美がそこにはあり、一枚の絵画のような美しさが飾られていた。
親父が愛した景色に、少しだけ共感できた気がする。
私は胸ポケットにしまっていた煙草を一本取り出すと、それを口に咥え、白い煙を蒸かした。
煙草の刻が灰となっていき、ちょうど半分にそれが差し掛かった頃、カランカランと客が扉を開けた鈴の音がなった。
私は突然の来客に動転し、煙草を急いでポケット灰皿へと押し込んだ。
「電気がついていたものですから……」
その客は赤子連れで母親は私の顔を見るなり、言いかけた言葉を詰まらせていた。
私もその顔を見た瞬間、硬直してしまった。
「紀彦くん……?」
その声は少し低く、しわがれていたものの、私が昔恋焦がれた声であった。
「真由美さん……?」
私の手が小刻みに震えだす。
初恋というものが忘れられずにいた私にとって、それはあまりにも唐突な邂逅であった。
「な、何年振りかしらね……。いつもどってきたの?」
「2~3週間前だよ。親父が死んじまってさ」
「そっか……マスター亡くなっちゃったのね」
「そういえば真由美さんはなんでここに?」
「この喫茶店の常連なのよ。前来た時は臨時休業って書いてあったから少し気がかりになっててさ。それで、今日ここの前を通ったら明かりがついてからね、中に入ってみたの」
「常連ねぇ……」
私にはあまり常連という言葉に馴染みはなかった。
私自身があまりこの喫茶店に近づこうと思ったことはなく、大してこの喫茶店の常連と呼ばれる人たちの
顔など誰一人として知らない。
知らないからこそ、まさか自分自身の初恋の相手が未だこの地元にいて、この喫茶店の常連だと知らされると、少しばかりの驚きと、運命的な巡り合わせを感じた。
真由美さんの左手を見ると、薬指にはちらりと結婚指輪が銀色に輝いていた。
赤子を連れていることから、もう結婚はしているのだなと確信はしていたが、どうもその指輪をみると、心の奥に痛みのようなものが走る感覚に陥る。
「この喫茶店どうするの?」
真由美さんは確信めいた質問を投げかけた。
私はこの喫茶店に入る前は、ここは取り潰そうと考えていた。
ここを取り潰せば、私の中の根源となった貧困の記憶やら、親父への憎しみやらが少しは和むかと考えていた。
だがそれはあまりにも自己都合な解釈というか、幼稚で浅はかな理由であって、この喫茶店の作ってきた歴史を全て否定するものであった。
初恋の人がこの喫茶店の常連である以上、私の自分勝手な都合でここを潰し、紡がれた歴史を更地にしてしまうような愚行は、自分の色褪せずに輝きを放つ初恋までもを否定することに繋がる行為であることに、今更ながら躊躇いを覚えた。
「再開はまだ先にはなるけど、自分が店主になるよ」
考えてもいなかった言葉がポロリと私の口から落ちる。
私は何かを期待していたわけではない。
誰もが『初恋』というものを持ち、大人になるにつれそれは鮮明な記憶となって、思い出となっていくはずが、私は未だそれが鮮明な記憶にまでたどり着くことができず、その想いの灯は小さく揺らめきながら明かりを灯っていた。
いい大人がこんな歳になってまで、『初恋』を引きずるなど誰しもに笑われてしまうかもしれないが、私が貧困に喘ぎ、親父を憎しみながらも唯一の私の光であったそれを、心の中にあった宝箱の中にしまいこんでいた私にとっては、堪えがたいほどの求愛となっていた。
「ふふ、それは楽しみね」
真由美さんはその一言を残し、この喫茶店を立ち去った。
今さっきまで取り潰そうと思っていた喫茶店に、私が居続ける明確な理由ができてしまった。
私は後悔と歓喜の入り混じるため息を吐きながら、煙草を一本取り出し、椅子にもたれ掛かりながら、火のついた煙草を口に咥えた。
煙草の白煙が揺らめきながら天井へと昇っていく様を、私はじっと見つめた。
「あぁ、言っちまったな」
私はこの喫茶店など継ぐ気は毛頭なかった。
初恋を引きずった哀れな大人の不甲斐なさに、私は溜息をつきながら少しばかり微笑んだ。
大人というのは複雑ですね。