ある日突然小児リウマチになって
突然の小児リウマチ
僕は現在38歳
これは僕が小学生の時のお話です。
僕は小学校3年生の時に突然小児リウマチ(若年性関節リウマチ)を発症しました。
この病気は国の難病指定になっている病気です。
最初は風邪の様に熱が出て、喉の痛み、鼻水はなく、ひたすら高熱が出て、夜には少し下がりの毎日繰り返しでした。
町の病院では全く病気の原因が何か分からず、住んでいる町の大学病院への紹介状を書いてもらい、すぐに大学病院へ、
大学病院では即座に検査入院する事になりました。検査の内容は骨髄検査等でした。
これは両親から聞いた話ですが、白血病の可能性もあると医師に言われたそうです。
検査の結果は小児リウマチ、入院した頃には膝関節の炎症による腫れや、手の指関節の腫れなどの症状が出てきました。
薬は発熱、関節炎などを抑えるためアスピリンを使用しました。
約1ヶ月ほどで良くなり、退院できました。
その後は処方されたアスピリンを飲み、半年ほどは特に普通に生活もでき、当時部活でサッカー部に所属していた為、無理ないくらいでやっていました。
膝の関節はあまり激しく動き過ぎると晴れだし、その時は湿布を貼り腫れが引くのを待ちました。
その後小学4年生の中盤ごろに、また高熱や膝、手、など炎症による腫れが続き、町の大学病院に通院し、アスピリンを大人が飲む量よりもはるかに多い量を毎食後飲む事になり、病気の辛さよりも、薬のとてつもない副作用のせいで、嘔吐、耳鳴り、とにかく子供ながらに僕は死ぬのかなと思っていました。
この頃は毎日いつも不安で、明日が迎えられるのかとても怖く、辛く、今までの人生を振り返っても、この時程辛いのはありませんでした。
あまりの体調の悪さに両親が医師と話した結果、もうこの大学病院では対応できませんと言われたので、当時世田谷区にありました、国立小児病院への紹介状を書いてもらい転院する事になりました。
国立小児病院とはその名の通り、国が運営する小児専門の総合病院です。ちなみに今はもうなく、場所は現在の世田谷区太子堂3丁目にありました。現在は大型のマンションになっています。
住んでいたのは千葉県で両親の車で国立小児病院まで行き、今でも覚えていますが家にはたぶん帰れない気が子供ながらに覚悟をしていました。
到着し、診察を受け予想通り即入院でした。
何となく子供ながらに覚悟はしていたので、大学病院の入院よりは気持ちは落ち着いていました。
初めに医師に言われた事は、この病院は日本全国から様々な重度な病気にかかった子が集まる病院で、君はその中ではまだ軽い方だから大丈夫だよって言われ、少し安心し気持ちが元気づけられました。
子供の頃でしたので単純だったのでしょう。
入院した病棟には本当に様々な病気で下の子は赤ちゃんから、上は19歳くらいまで、子供だけの集団生活でした。
僕がいた病棟は、感染科。血液科、アレルギー科の3種類の科が入っておりました。
小児病院って事もあり、同じ病棟ですぐに友達も沢山できました。病棟内は基本的に自由に移動しても大丈夫なので、入院していた割には比較的楽しかった事も多々ありました。
入院中は定期的に心電図、レントゲン、採血この三点は定期的にあり、ナースセンターには患者の名前とその日の状態がホワイトボードに記載されていて、子供の病院て事もあり比較的自由に見る事ができました。
担当医師に僕はいつ退院できるのって聞いたらこのCRPっていう数値が下がって一定になれば退院は近いよと言われ、僕の日課がそれを確認する事でした。
最初の方は発熱も38度とかも多々ありましたが風とは違い、体のダルさとかは特にありませんでした。
ただ関節の炎症だけは中々引かず、特に酷かったの手の指関節の腫れでした。
腫れのせいで指が曲げづらく、分かりやすく言うと、関節部分を締め付けが強いゴムの様なもので締め付けられた感じです。
痛みは無理に曲げなければ時にありませんでした。
治療方法アスピリンと湿布でした。
特に点滴なども僕の場合はありませんでした。
気がついた点は最初の大学病院の時と国立小児病院の時では薬の副作用が全く違い、かなり楽でした。
薬は同じアスピリンだった事などから、専門の病院の為、処方の量が適正な量だったのかと思います。
入院生活も大分なれ半年程過ぎた時でした、夜中トイレに行く際に看護士が白い布を被せたストレッチャーを押して行くのが見え、子供ながらに誰かが亡くなったんだと直ぐに気がつきました。
昨日までいた人が次の日には居なくってる事などは多々ありました。
子供の僕にはかなりショックでした。
その病棟には死神がいると言われていた病室があり、そこだけには移動したくないと思っていたら、ある日突然その部屋に移動になり、本当に嫌でしたが、もう決まった事なので仕方ありませんでした。
その病室は2人部屋で当時小学1年生の子が入院していました。その子の病名はわかりませんが、寝たきりの状態で病状はかなり悪く、そのせいか性格も気性がとても荒区なる時があり、正直なんでこんな奴と一緒の部屋なんだよって思っていましたが、次第になれ普通に話す様になったり、当時持っていたゲームギアという、今で言う任天堂スイッチの様なゲーム機を貸してあげ、打ち解けていきました。
ただやはりそこは子供の病院で当時18歳のお兄さんが威張っていて、良い時もあるのですが、看護士に見えない様に軽く髪な毛を引っ張ってきたり、バカにしたり、陰険で姑息なイジメもありました。
その時同じ病棟に入院していた当時17歳お姉さんがその事に気付いてくれて、庇ってくれたり、勇気付けてくれ、反抗しちゃいなよって言われ小学5年生に上がったばかりの僕には正直ハードルが高かったです。
ある日いつもの様に髪を引っ張ってきたので、手を振りほどいてやめろよって勇気を振り絞り言ったらそれからその様な事はありませんでした。
ある日突然この病院にアメリカの世界陸上選手が子供達にお見舞いに来ると聞き、楽しみにしていました。
そしてその日になり来たのはアメリカ代表の400mリレー大地走者、アンドレケーソン選手でした。
体格は割と小柄で黒人の方でした。
テレビに出るような凄い人に会える機会などそうそうない事でしたので、僕を含め子供達は喜んで、写真やサインなどもらっていました。その当時の写真やサインは今でも実家にあります。
夏には看護師さん達と病院内駐車場で花火大会をやりました。花火大会と言っても手持ち花火をみんなでやる程度でしたが、そんな事でも凄い楽しかった思い出です。
7月は七夕、冬にはクリスマス会、などなど、入院しているからと言って楽しい事が全くなかったわけではありません。
両親や祖母、は週3回面会時間が2時間程あるので、遠い中いつも来てくれていたので、寂しさは特にありませんでした。叔母、兄、その他親戚の方々も来てくれていました。
ただ兄だけは病棟内には18際以上の人しかお見舞いに入れない決まりでしたので、病棟の廊下でソファに座り、僕のゲームギアを貸していつも両親が僕の見舞いが終わるのを待っていました。
病棟の出口のドアの所で兄とは一瞬会話する程度でしたが本当に嬉しかったです。
8ヶ月程すると僕の病状はだいぶ良くなり、1日の外泊許可が始めてでて、8ヶ月ぶりに病院の外に出て、家に帰って来た時はとても懐かしく、当時飼っていた猫が僕に威嚇してきました。8ヶ月会っていなかっただけで忘れられていて、薄情な奴でした。笑
そして1日なんてすぐに終わりまた病院に戻り、また入院生活、一度家に帰るとやはり病院に着いて両親が帰る時は凄く悲しくて、やはり小学生でしたね。
その後も外泊日数が増えて、順調に良くなりある日から、今までにやった事のない検査や、採血の頻度が増え、退院に近づいているのかなと思っていましたら、ある日突然担当医師より、1週間後退院だからって言われ嬉しい反面、周りの入院している友達が羨ましそうになるので、あまり嬉しそうに出来なく複雑な心境でした。
僕も他の子が退院して行くのを見て羨ましくてしょうがなかったからです。
でも最後の日は皆んなが笑顔で送り出してくれて、最高の気分でシャバの空気だ!
って実感した。普通の生活が出来る事が最高にハッピーな事に感じました。
それから月日が経ち中学生になると通院回数も2ヶ月に1回程になり、中学生くらいからグレだし、中1でタバコを吸い、夜遊びをし、病気の事など嘘のように、すこぶる元気になり、いじめられた事もあった為、弱いのは嫌で筋トレを始め、中2では周りの奴らより強くなり、気に食わない奴はとりあえず殴って、荒れ果てていました。
母は病気の時があったから、元気でいてくれればそれで良いと、人に危害を加える事じゃなければ、優しく見守ってくれていました。
ただ喧嘩や、タバコ、中学校内の物を破損などで幾度も呼出をされていて、今考えるとなんて親不孝な奴だと自分で思います。
そして中学を卒業し、高校に行き普通の生活が出来、今で結婚し子供にも恵まれ、今はあの時の両親の気持ちが少し分かる様な気がします。
今は家族の為にも一緒懸命に働き、背一杯生き続けて行きたいと思います。
病気で今闘っている子達へ
必ず治ると信じて!
神様は乗り越えられない試練は与えないよ。
絶対に元気になってやる!って強く思う事が病気には一番の薬だから!
最後まで読んで頂きありがとうございます。