夏休みから始まる
一目惚れを信じますかという問いがあるなら、僕は迷わず「ノー」を選択させてもらう。
これといった特徴のない田舎町を、ただ呆然と、のんびりと、何かを目的とするわけでもなく、ただただ僕は歩く。
ふと、空気が変わったような気がして立ち止まり、あたりを見回すーー木は踊り、水たまりは眩しさが増していく。
よく耳を澄ましてみると、何やら足音が聞こえてくるようでーー振り返った先には、駆ける白いスカートがあった。
美しい、麗しい、そんな少女が駆けるーー目を奪われずにはいられない。僕はその姿を呆然と見つめて立ち尽くすほかなかった。
彼女の顔がはっきりと見えてきて、その瞳は僕を捉えているのだと気づいた。僕は彼女を知り合いではないと思ったーーそもそも今までに見たことすら記憶にない。
少なからず、地元の住民であればほとんど皆がお互いを知り合っているーーつまり、彼女は他の町から来た子なのだろう。
今は夏休みだ。誰かの親戚でも遊びに来たのではなかろうか。はたまた、夏バテで幻覚でも見ているだろうかーー後者は突拍子もない考えだとは我ながら思ったけれど、僕ならあり得そうだと考えると、なんだか悲しく思う。
きっとそのまますれ違う。そのまま背を向けて、元の道を歩めばいい。
けれど、僕は足を動かそうとしなかったーー否、朝は動かなかった。視線を外せば彼女は消えてしまうーーそんな気がした。
だから、僕は瞬きすらも憚った。彼女の瞳から目を離すことはなかった。
「美しい」
ただ一言そう思わず呟いた。
彼女は僕の目の前で足を止め、明るい笑顔を見せた。
どうすべきかわからず、反応に困る。けれど、このままという訳にはいかないこともわかっている。しかしまた、彼女も一切声を出さずこちらを見つめたままなのだ。
僕は覚悟を決めて口を開いた。
「僕に何か用があるのかな。」
すると、さっきまでの笑顔が少しずつ少しずつ萎んでいった。
何か悪いことをしてしまっただろうか。そう不安になりかけたとき、彼女がついに口を開いた。
「そっか、私のこと……覚えてないよね。颯斗くん」
これは驚いた。僕の名前を知っているーーつまり、過去に面識があるはずなのだ。けれど、全くわからない。自身の記憶力の乏しさを恨んだ。思い出すことよりも、今、言葉を詰まらせている自分をどうにかしてやりたいことが、思考の中枢を占めてくるーー何をしているんだ、僕は。
一つため息をついた。自分にそれを浴びせかけてやりたかった。
「ごめん。」
それしか言えなかった。他に言うこともない。
けれど、彼女はまた微笑んで、
「残念。だけど、特別に答えを教えてあげる。私は……咲良だよ」
それを聞いてはっとした。僕はその名前を知っている。忘れようもないはずの、忘れることのない名前をなぜ僕は忘却していたのか。
今一度彼女の顔を見つめる。
そうか、これは一目惚れではなかったのか。