「やめる」ことをやめちまえ
小説を書き始める人がいれば、逆に書くのをやめようという人もいます。
実際に私もこのサイトで、悩んでいる人を見ました。更新されずに放置されている小説を見たこともあります。
もう止めるよ、という活動報告が書き残されているなら幸運なほうで、何も言わずに去られた方のほうがずっと多いのでしょう。
湿っぽい感じの導入ですけど、止める人がいるなんて当たり前のことですので、さくさく話を進めましょう。
小説=紙の本という認識だったかつての私は、作者さんの『作品以外の部分』に触れることはめったにありませんでした。お気に入りの作者さんはもちろんいましたけど、その人の人間的な部分に触れる機会といえば、あとがきくらいのものです。
活動報告にしたって、自分で情報を調べに行くことも、ろくにありませんでした。たまに本屋で新刊を見つけ、「おお、これ続きが出てたのか」。その程度。
現在はネットで小説を読むようになりまして(といってもまだ一年ちょっとなのですが)、アマチュア作者さんたちのプライベートなこと、心情など、『作品以外の部分』に触れることが増えました。
非常に新鮮で、意外なこともたくさんありました。驚くことも。
作者さんにとって一番ドラマチックな瞬間というのは、どういう時でしょう。
デビューした瞬間、書籍化が決まった瞬間は、やはりお祝いコメントなどで盛り上がりますね。
でも、もう一つ。 そう、それが、筆を折るときです。
「もう小説書くのをやめるよ」的なコメントを残し、そのあとには色々な励ましのコメントが書き残されていきます。
悲しい。頑張って。何かあったの。無理しないで。
でも、ちょっと待ってほしい。みんな、そんな今生の別れみたいに悲観的におさらばしなくてもいいんじゃないのでは?
私には「小説を書くのを止めること」が、そこまでおおごととは思えないのです。
書くのを止める→サイトを止める→もう会えない と考えちゃうんでしょうか?
「ごめん、話の続き思い浮かばんし、ちょっと休載ね。ちょくちょく顔は出すから、何か面白い小説見つけたら教えて。モチベ上がったらまた書くわ」 とかでいいやん? ダメなの?
私は小説家になろうの、しかもほんの一部分のユーザーしか知らないので、例えば音楽を辞める人とかネトゲを引退する人とかはどうなのかわかりません。
唯一知っているのは某ネット囲碁ですが、こんな悲観的な別れはなかったように思います。
仕事が忙しくなった、就職した。子供生まれた。飽きた。 チャットでそんな理由を話していた友人が、いつのまにかログインしなくなる。検索したら、もう○ヵ月も来ていなかった。
ああいうやついたねー、昔は活気があったねー。
そして数か月後や、長い時は数年後。ひょっこり見覚えがある名前が。
「戻ってきたよー」「おかえりー、久々に打とうぜ―」「えー、最近打ってないから弱くなったよー(でも打つ)」
そんな感じです。
情熱や夢を引き合いに出される方がいるかもしれません。そこまで本気だったのだ、と。
でも私からすると、がーっと100の情熱で1年間がんばるのと、30の情熱で5年間がんばるのと。どっちの情熱が上かというと、後者ではないかと思います。
別にずっとやり続けなくてもいいので、戻ってきたりなんだりしながら長く続ける人の方が、その趣味に対してうまく付き合っているともいえるし、「好き」の気持ちも多いんじゃないかなと思うんです。
誤解を恐れず言いますけれど、皆さん小説だけを特別扱いし過ぎじゃないでしょうか。
小説を書いているなら、作家デビューを目標にするのは理解できます。憧れるのもわかります。
しかし、小説家も結局は、数ある職業のうちの一つです。そして小説も、数ある趣味のうちの一つです。そのことを、皆さん忘れていないでしょうか。
と、もう一つ。夢に設定して目標を立てて頑張るのはいいとして、才能がないからといってやめてしまうのは、手段と目的が逆になっていないかなーとも思います。
例えば、普通は碁が好きだから碁を打ちます。勝てないから打つのをやめたという人の「碁好きレベル」は、おそらく低いでしょう。
同じように、プロになれなかったから筆を折るという人の「小説好きレベル」は、低いんじゃないだろうか。
別に強制されているわけではありません。小説じゃなくても、碁じゃなくても、趣味何ていくらでもあります。
碁で勝てないなら勝てるゲームを探せばいいし、小説に飽きたらレスポールでも買って来ればいいんじゃないかな。
今回私が言いたいのは、やめることに対していちいち悲観的にならなくてもいいのではないかということ。
別にやめるからって出入り禁止になるわけでもない。たまに覗いてみるなり戻ってくるなりしてもいいんじゃないかということ。
その二つでした。
上手く伝わればいいな。