だまされたと思って、キミも碁をやってみな
今回、碁打ち用に書いた乱文です。ご容赦ください。なにとぞ、なにとぞー。
11月12日のクローズアップ現代で、一力遼さんが特集されました。なんと、応氏杯っていう大きな国際大会で優勝したんですよ。囲碁に興味がない人にはさっぱりわかんないだろうけど。
日本人が大きな国際大会で優勝するのは19年ぶりということで、碁の世界ではかなり盛り上がりました。
けど、さすがに、碁に興味がない人を引き付けるまでには至りませんでしたね。しょうがない。
■日本と中韓の碁の比較のこと
で、その中で、日本と外国(といっても、中韓の2国ですけど)との差がどーたらという話があったんだけど、そこでちょっと「ん?」って思うところがあったので、今回エッセイを書いてみたというわけです。
番組中で、こういうお話がありました。
「日本の碁は、やあやあ我こそは、と名乗りを上げてから戦う」
「日本以外では、いきなりバッサリ切りあいに行く」
これが私の印象とだいぶ違った。私の印象は、
「日本の碁は、『全体>部分』。全局を見て打つ、という言葉を意識し過ぎている」
「中韓の碁は、『全体→部分』。主導権を握る機会を狙いながら打っている」
って感じですね。
日本の棋書で「相手よりも一目でも多ければ勝ち、必要以上に得をする必要はない」みたいな文章を目にしたことがあります。
確かにそれはそうなんだけど、結局戦局が一気に動くのって、部分的な戦いの主導権が握れるかどうかじゃないですか。(もっと言えば、石が殺せるかどうかもですね)
中韓が全体・全局を意識していないってことではなく、むしろかなり意識していると思います。ただしそれは、日本の棋士の言う『全局』とは少し違う。あくまでも部分的な戦いを見据えて、全局を整えている印象です。
この流れで例に日本の棋士を出すのも変な話だけど、わかりやすさ重視でいうと、武宮先生の三連星あたりがそんな印象を受けました。
ということで、「名乗りを上げて戦う」という表現はなんか少し違うなあと思いました。
※ちなみにこれは、少し前の日本の碁の話です。AIの登場は確かに大きな変換点の一つですが、それに限らず、日本全国の棋士さんたちは日々切磋琢磨してます。
今の日本の碁には、また違った印象を持っています。
■碁の普及について思うこと
番組内で「棋道」という言葉も出てきました。
この棋『道』というやつって、日本人の伝統的な良い部分も悪い部分も色々グツグツ煮詰められてますよね。
近年の碁に関しては、マイナスに作用してる部分が多いんでしょう。伝統とか格式とか、段位の箔みたいなものとか。そういうのも全部ひっくるめてのことです。
プレイヤー人口が多いなら、そこら辺のお兄さんお姉さんにうっすらでも碁の知識があるのなら、「○○ってすげえ!」となるでしょう。
けど、現在は新規参入の障壁にしかなっていません。たぶん。
個人的には、段位はプロのみにして、アマは単なる数字のレーティングのみにした方がいいと思います。
級位者が委縮する世界にはなって欲しくないというのが一つと、現状の段級位は数字が少なすぎて満足な区分けができないのとですね。
え、碁会所ごとに基準がぶれぶれ問題?
それについては日本棋院が棋力を固定したAIを複数用意すれば解決です。10級、5級、初段、3段、みたいにいくつも用意して、5回打って勝ち越せば合格ってことで。
今の囲碁界は、碁を知っている人やイベントに来てくれる人を囲い込むことは頑張っていると思います。ですが、知識ゼロの人たちを増やさないと囲碁プレイヤーは増えるわけないんだから、どんなことももっと気軽にやれないとだめだよ。
その気軽さを、日本棋院や伝統が阻害している気はします。
ついでに言うと、一般プレイヤーの人もですね。
碁ってあまりやる人がいないから、初心者の「教えて」にどんどん群がるんだよね。
あれもどうかなって思います。
いや、教えたいのはわかるんだけどさ、勢いは引くわ。
基本的に指導のテンションは「教えられるほう>教えるほう」がベストなのさ。
皆さん、へたっぴな人のゲームを横で見た経験ってあるでしょ。兄弟とか友達の弟とかさ。
ああ、そこジャンプ届かないのに! その武器強いのに! 裏に隠し宝箱があるのに! ってやつですね。
でもさ、ゲームって失敗している時が一番楽しいのよ。
失敗するから、またやりたくなるのよ。教え過ぎたらその時はうまくいっても、すぐやる気失っちゃうぜ。
ということで、最後脱線したけどおしまいです。
そういえば親戚の子がゲームしているときに「弟くんの失敗する機会を奪っちゃだめだぜ」みたいなことを言ったのを思い出しました。
色々書いたけど、このゲームがもっと流行ればいいのになーとは常に思ってますし、普及もしています。さらっとしたものだけどね。
ほんとーに、気軽に碁をする人が増えて欲しいもんだ。




