投了をしたことが無い人へ、伝えたいこと
みなさん、ハチワンダイバーというマンガを読んだことはあるだろうか? おっぱいのために将棋を指していくという、斬新なストーリーの将棋マンガだ。将棋をろくに指さない弱っちい私だが、それでも深く共感できることがある。
それは、負けた時の悔しさだ。
あの作品ほどリアルに将棋指しの(碁打ちの)「負け」を描いた作品を、私は知らない。
負けた時に崩れ落ちたり、吐いたり、(物理的に)殴られた時に「将棋で負けた時の方が痛い」と言い切ったり。将棋を「本気で」指した経験のない人たちには特に知っておいて欲しいのだが、あれはマンガ的表現ではなく、マジでああなるのだ。
あれに比べれば、なろう系小説の負けた時の描写のなんと薄っぺらいことか。なろう系をディスるとか煽りとかではなく、本当にそう思う。
けだし、なろう系ファンタジーの戦闘は、命のやり取りだ。負けたら殺される。それはそれで一大事なのだが、逆に言えばそこまでなのだ。死んだら終わり。
ハチワンの場合、多くのキャラクターにとって、命は二番目なのだ。もちろん命はとても大切だ。しかし、それよりももっと大事なもの――それは人によって違って、プライドだったり好きな人だったりするのだけど――をやり取りしているのだ。
実際私も、碁を打っているときは全身全霊をこめて打っている。私はプロでもないし弱っちいのだけど、それでも私なりの全力だ。
そういえば受験のテストを思い出してみても、そこまで真剣ではなかったな。あっちは数年に一度の勝負だというのに。
では、なぜこんなに、囲碁将棋で負けると悔しいのだろうか。
悔しいと感じる理由の一つに、将棋・囲碁・チェスなどはゲーム結果に運が一切入らないということがある。確定完全情報ゲームってやつだ。
……と、いわれているけど、やらない人のイメージよりかは、運要素はある。”指運”と言われているんだけど、要するに「あー、こっちとこっち、どっちしよう。あー、時間ない、いいやこっち!」みたいなやつだ。
それ以外にも、序盤の戦法を気分で変えるというのもある。
とはいえ、麻雀の運とは少し質の違うもののような気もするし、他のゲームに比べると、確かに運用素が非常に少ないことは間違いない。
私の考える一番の胃痛要素は、言い訳が利かないということだろう。
負けると悔しいけど、別に負けてもいいやってシチュエーションはある。
例えば10秒の早碁。「私は反射神経ゲームをしてるんじゃないし」とか言い訳をしている。心の中で。
もしくは、時計の無い対局。あれだな、碁会所とかで普通に打つとき。
どうでもいいけど碁会所にいくとよく大学生くらいに間違えられた。あそこは50代でも若いくらいだから、きっと30代くらいまでの人間の年齢がわかんないのだよたぶん。若く見られたい君は、碁会所に行こう。
……脱線した。
碁会所で打つときは、時計、つまり制限時間があいまいだ。公平性に欠ける。そこに言い訳の余地が生まれてしまう。
真剣だし負けると悔しいんだけど、一本なにか芯が通っていないのだ。普段なら読み切って打つところでも、たぶん行けるだろとかなんとなくで打ってしまう。
じゃあ逆に「負けて当たり前」な勝負ならどうか?
私はプロと打ったことはないけれど、そんな負けて当たり前の相手だったとしても、勝負の条件が公平だったなら、やはり死ぬほど悔しがる。
まあそんな感じで、言い訳がすべてつぶされた対局でないと、打ってる気がしない。
胃も痛くならない指先もぴりぴりしない碁なんて、どうでもいいのだ。
とか言いつつ、お遊びで軽く打つことももちろんあるんですけどね。
で、まあ”投了”という行為についてである。
負けたら「負けました」と言うんですが、この一言がのどの奥から出てこない。
PCだと、キーボードに手を伸ばし、戻しを繰り返すんです。
目数を数える。盤面を眺めて、足りない目数がどうやったって捻出できないのを自覚する。巻き返せない。
投了するまでは負けではないんですが、自分の中では負けなのがわかっているんですよ。
打ちながら、「あ、ここはやばい。負けに進む分岐点だ」って局面があるんですよね。
どこに打てばいいかわからん。でもここで選択を誤って負けるんだろうなー、みたいな予感があるんです。
もちろんめちゃくちゃ考えるのですが、手が止まる。時計が動いている限りどこかに打つしかないのですが、徐々に徐々に形勢が悪くなっているのがわかるのです。自覚しながら、ふんばるんです。そこが一番苦しい。
そこで我慢しきることができれば、勝ちが見えるんですが。皮肉なことにこの長いマラソンの途中で、勝とうとすると逆に悪くなるんです。
チャンスを待ちきれずに自分から相手を攻めようとしたら、そこでつぶれる。じゃあどうするか。
ひたすら待つんです、相手が足を踏み外す時を。
私のレベルなら、最後まで打っても相手が失敗しなかったなんてことはまずありえません。どこかで必ず、隙があるはずなんです。
しかし、それをじりじりと待ちつつ打つのが、とてもきつい。
それでもうまくいけばいいのですが、そんなことはめったになく、結局つぶれてしまい、
投了です。
そして、終わったあとも、負けに進んだ分岐点の場面は覚えているんですよね。布団の中で悶々としながら、その局面を並べ直す。
だらだら語りましたが、そこまで「投了」という行為にはエネルギーを使うのです。
さて、ちょっと気になることがあるんですが
スポーツに関してですね。体を動かすやつ。私あんまり詳しくないんで、間違ったこと言ってたらごめんなさい。
例えば野球とかサッカーで大差がついた時、「すみません、もう勝てないんで降参します」てシステムが、なぜ無いのでしょう。
私も碁を打つまではこんな発想なかったので、偉そうに語るつもりはありません。でも、たまに高校野球で大差がついてーとかいうニュースってありますよね。
テニスとかバレーボールは、将棋型。
サッカーとか野球は、碁型。
どういうことかというと、勝利条件を満たせばそこで終わるのが将棋型。差がついても、決められた時間やターン数が過ぎるまでは終わらないのが、碁型です。
主に時間制のやつですかね。
もう勝てない、無理だろう、ってあきらめる。
これって別に恥ずかしいことではないし、実力が離れすぎているのに勝てない試合を続けるのは、意味がないんじゃないかと。
という話をしたら、「経験を積むとか、やることに意義がある」みたいなことを言われたんですよね。
それは弱いほうにしたらそうかもしれませんけど、強いほうからすると失礼なんじゃないのと思うわけです。
サッカーで前半で10-0だったら、降参して相手と感想戦をするのです。
例えばここが悪かったからこうしたら? 俺らはこんな練習しているよ、みたいな。
野球で、「大差で勝ってるほうは盗塁しない」みたいなマナーがあると聞いたことがあります。そんなことするなら、それこそ続ける意味がないんじゃないのと。
まあ、あくまでも実力が離れ”過ぎて”いる場合のことですね。
プロなんかは興行的な意味合いがあるので、なおさら頑張らないといけませんし。
と、今調べたら、カーリングには投了システムがあるそうですね。そういえば「そだねー」とかの時に聞いた覚えがありますよ。思い出した。
ここらへん、ゲームのシステムによるところなんでしょうか?
体を使うスポーツって、最後まで何が起こるかわからないなんて言われますし。
例えば逆境ナインのように、明らかに無理だけど理論上逆転可能なら、投了は認められない~みたいな?




