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Invisible rhapsody

作者: 瀬川 秀子

 Aは競馬になんぞ関心はなかったのだが、友人との付き合いで買った馬券が、なんと50万の大当たりをした。

 暮れてきた帰り道を足取りも軽く帰途につく。と、小ぎれいなバーを見つけた。なんとなく入ってみると、時間が早すぎるせいだろう、カウンターに白いスーツ姿の青年がいるだけだった。

 気分が良かったので、Aは彼にも好きな酒をどうぞといって、一杯奢ることにした。


「お、これはこれはありがとう」


青年は飲んでいたグラスをママに差し出し、同じものを、と言った。


「せっかくですし、ボクのほうもあなたにいいものをあげましょう」


青年が取り出したのは、すばらしく綺麗な青い液体の入った小さな香水のビンだった。


「なんです?これ?」

「透明薬。一定時間透明になれる薬ですよ」

「ええ? 冗談でしょ?」


Aは青年をまじまじと見た。なんか怪しい人だったか? この人? まずかったかな……という思いがよぎる。


「ほんとよ。マジモンのマジ」


そんなAのに向かって青年は身を乗り出す。Aは少し身を引いた。


(関わったらいけない人だったかもしれない……)


もはやうきうきした気分は吹っ飛んで、警戒モード全開である。


「ん~、まあ、証拠見ないと納得しないよね」


 青年は言うと、ポケットから無造作に何かをつかみ出し、反対の手ですばやく引っ込めようとしたAの手を掴むと、ポケットから出した物をAの手に乗せた。

 手の上には何もあるようには見えない。なのに、なにやら小さくて暖かい感触のものが手のひらの上でうごめくのが感じられる。


「ぎょあ!!!!!!!」


奇声を上げてAは手を振った。


 青年は素早くAの手から吹っ飛んだと思われるものを空中キャッチした。どうやら彼には見えているらしい。


「ダメだよ乱暴にしたら。可哀想だろう」


青年は反対の手のひらに『何か』を載せるとAのほうを向いた。と、青年の手の上に、にじみのような物が現れ、次いでそれはジャンガリアンハムスターになった。


「ほら、びっくりしたから見えるようになっちゃったよ」


青年は言って手のひらごとハムスターを突き出した。


「この薬……アドレナリンに反応しちゃって、見えるようになっちゃうんだよね。そこが欠点」

「ど……どっど、どういう仕組みなんです??」

「……知りたい?」


青年がぐっと目を細め、お代わりのグラスを手に、身を乗り出してきた。


「……本当に……知りたい……?」

「い、や、やっぱいいです」


AAは止まり木の上で、青年から上体をそらすようにして身を引く。


「ん~、そっか~」


 青年は元の姿勢に戻り、グラスの中身を一口飲む。Aはおずおずと元の位置に戻った。


「で、ボクの言ってることが本当なのはわかったよね?」


にっこりして青年が言った。Aは黙ってこくこくと頷く。


「で、どうする?これ、貰っておくかい?

 もちろん人体に害は無いよ。まあ、そこはボクの言葉を信じてもらうしかないわけなんだけどね」


青年は言って、ビンをポンポンと手の上で弾ませた。


「……頂いて、いいでしょうか?」


 しばし沈黙が流れた後、Aはボソッと言った。今のショックでまだ口の中がからからだ。自分の酒の残りを一気に飲み干す。


「じゃ、あげる」


青年は軽く言って、Aの前にビンをことんと置いた。


「好きに使ってくれたまえ。ただし……」


青年は指を突き立てて、Aの目の前で振りながら言った。


「すごく驚いたり、強い興奮状態になると、さっきのハムスターと同じく、即座に効果は消えるからね」


Aは黙って頷いた。


「使い方だけど~。全身に満遍なく振り掛ければいい。

 アトマイザーになっているから、ミストをくまなくかけるんだ。それで不可視の状態になる」

「そ、それだけ?」

「そう、それだけ」


青年はにこやかに言った。


「さっき言ったことにさえ注意すれば、30分効果があるからね」


Aはビンを掴むと、よろよろと立ち上がった。


「お釣りはいいから……」

「あら、ありがとうございます。……あの、お客さん、大丈夫ですか?」


 カウンターに1万置くと、Aは少しふらふらした足取りで、バーのママの心配げな声を背に、店を出て行った。片手はビンの入ったポケットの上をしっかりと押さえて。


 その夜。バーでの奇妙な出来事を思い出しながら、Aはぼんやりとどうしようかと考えていた。その薬の効果も、危険が無いという青年の言葉も、何故か不思議と疑う気持ちが起きなかった。吸い込まれそうな美しいブルーのアトマイザーを手の中でもてあそびつつ、Aは検討を始めた。


(女湯か女子更衣室……う~~ん。夢だよなぁ、やっぱり。

 ……けど、もしドキドキしてしまったら……やばいよなぁ。犯罪だよなぁ……却下だな。

 ……泥棒とかも同じくらいまずいよなあ。やっぱり犯罪はなあ……)


 こうして考えると、案外選択肢が無いことに気がついた。見つかったらやばい事はやはり却下だ。Aの性格からしてできそうにはない。


しばし後。……そうだ!!! これならいける!! Aの表情がぱっと明るくなった。


 翌日の夕方。通勤ラッシュにかかる少し前に、Aは品川駅のホームに居た。居るとは言っても、他人の目には見えない。5分前に、人気のない隅っこで全身の透明アトマイザー処理済みである。待つこと一分ほどで、目的の列車は到着した。

 Aの目の前に、2階建てのグリーン車両が止まった。気をつけないと、ここでドキドキしたら終わりである。Aは深呼吸してグリーン車へ乗り込んだ。もちろん2階だ。

 グリーン車に人気はほとんどなかったが、Aは隅のほうにひっそりと座った。もう一度深呼吸する。ちょっとだけ広めの座席、硝子が大きくて明るい車両。でも、それだけだった。なんだかちょっと拍子抜けがしたけれど、まあいいだろう。グリーン券なしで、グリーン車に乗ったのだから。


 21分で横浜駅に到着した。


 乗り降りする人とぶつからないようにドア脇のスペースに張り付いて避け、それからホームに下りた。Aはほっとため息をついたが、時計を見やってあわててホームの人気の無い列車後方に向かって走った。制限時間まで5分も無い。戻るときに見られるとまずい。


 可視に戻ったと確信してから、Aはホームから改札へ向かった。改札に普通切符を通して、ちょっとドキドキしながら横浜駅の雑踏に混じった。


 さて、次のターゲットは……。有名なトンカツ屋である。


 店は夕食時間帯にそろそろ入るとあって、だいぶ賑やかになってきている。Aはこそこそと客席の合間を縫って、厨房へ向かう。

 数人の店員が忙しく立ち働く中、揚げたての トンカツがざくざくと切られ、皿に盛られてゆく。調理担当がちょっと横を向いた隙に、Aは真ん中の切れをすばやく取って口に入れ、トンカツを抜き取ったのがばれないよう、左右を寄せた。


 が、揚げたてのトンカツは猛烈に熱い。Aは目を白黒させた。あまりの熱さ涙目になっている。が、声も出せない。何とかトンカツを飲み込んだが、味もわからないまま口の中を火傷してしまった。


(いい手だと思ったんだけどな……なんだか、考えていたのと違う……)


こっそりと誰にもぶつからないよう店を出る。


 そんなAを、客席から例の青年が眺めて肩を震わせて笑っていたのを、Aは知らない。

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