ブルームーンの行方を追って
痛てててて…
俺は苦悶の表情に変わろうとする瞬間をギリギリで堪え、むしろ妙な苦笑いを湛えてしまっていた…
傷には強い俺だったが…痛みへの耐性は凡庸らしい…
「痛むのか…?」
痛いに決まっているだろう…
冷や汗が流れている…
俺はムキになりすました顔で努めようとしているのだった。
「後悔はないのか?」
何を言いやがる?後悔だって?そんなものする筈ないじゃないか!俺が汚い倉庫の清掃員として、何年この日を夢見ながら悪辣な野郎どもの非道な行いの数々に虐げられ続けてきたというのか…
まあいい…過去はもう俺の人生を照らすほの暗い灯台でしかないのだ、未来…俺はやっと……
綺麗に縫合されていた、傷跡が生々しい…
汚ねえ部屋、だが手術の腕は確かにピカイチらしいな…
噂は本当だった。
「傷口が塞がるまで三週間はかかるよ、消毒を怠ったらなおさらかかるから気をつけな!」
何を言いやがる、こんな傷くらい三日…近頃は以上に回復力が上がっているからな…ひょっとするならばそれより早いかもしれない…
目立たないように右肩のあたりに入れてもらった、最近の流行じゃわざとらしく傷跡を二の腕や手のひらにつける若者も多いという、そう、敢えてこの証を見せびらかそうって魂胆だ。
俺はこの医者に勧められたが、それは辞退した、そんな流行いつ時代遅れになるかもわからないし、これはひっそりと自分自身だけで胸にしまっておくもんだろう、俺はそう思っている。
俺はタンクトップのような肩を見せびらかす服装は絶対に着ないから、この傷口を他人に見せることはほぼないだろう…
『ブルームーン』
この場末の病院で一等高いマイクロチップをお願いした、ブルームーン…そう呼ばれている。
何故こんなに高いチップを頼んだのか、それには理由があった。
「世話になったな」
脂ぎった見てくれはただのおやっさんてところだ、俺は彼に札束を渡して店を跡にした。
「毎度、ありがとよ…あ、兄ちゃん…」
俺はもう階段を上がりきろうとしていたが、呼び止められて舞い戻る。
「反映されるまでタイムラグがある、そこんとこだけはよろしくな…」
ちっ…クレーム対策、ただの決まり文句じゃねえか、そんなことのために戻ってきたとはな…
俺は生まれ変わったんだ!
もう、過去には進まねえ!
夜だった。
街は埃っぽいし匂いがする。これは人の匂いだ…まるで獣のような匂いがしている…
ここは多民族の巣窟だ、慣れない匂いが混じり合ってそこらじゅうを満たしている、俺の鼻腔を突く、厭な気分だ。
長いこと居続けたもんだな…ようやくおさらばって奴だぜ。
俺は一度だけ人ごみの中でシャツの袖を捲って肩口を露出してみた…これが最後の一度だ!
でも…露出するのもそんなに悪い気分じゃねえ…
俺は新しい気分に包まれていた。
30分…ありえないくらいにもう傷口はびっしりと近づいていた…
糸を取らなきゃ…治癒能力がまたしても高まっている。
糸が癒着してしまう前にちぎってしまおう…
俺は強引に糸を引き抜いた。
一般的な治癒力ならばわざわざ縫い糸何かに気を遣う必要はないだろうが、俺の治癒力は尋常じゃないからな…
俺は傷口を眺めていた…傷口がまるでグロテスクな生物みたいに、俺の意思とは関係なしに蠢いているのだ…我ながら悍ましい光景だ。
しかし俺はその内部にあるチップのことを考えてみた。
とても清々しい心地になる…
俺はこの『ブルームーン』の謎を解くんだ。
このチップがどうしてそんな名称になったのか、とおいう謎を。
それが理由でほかより三倍は高価な料金を貯めるために、他の連中よりも三倍は長く奴らの牢獄に居続けたんだからな、でも、俺にとって、それほどの価値が、ブルームーンにはあったんだ。
青白く光沢する金属の板を始めて見たとき、俺は惚れ惚れ眺め続けたことを覚えている。
少し歩いた場所に柵が巡らせてあった。
その手前…
本当はその境界線の奥へと行きたかったのだが、それは明日以降にとっておけばいいことだ。
第七地区はこの汚ねえスラム街に隣接している、それだけが珠にキズだ。
だが、中へ入ったら、尚の事、綺麗な花によりたかる蠅どものウルサイ羽音も、きっと癒しの音楽になるに違いない…
ああ、なんとも倒錯した、気分のいい悪趣味だ。
第八地区、つまり俺が三年以上も暮らし続けた塵芥捨て場みたいな場所の、最後の宿泊だ。
認証システムに右肩を透かしてみる…
…ん?うまくいかねえ…何度も…何度も…んん、ならば
「d-425ブルームーン…」
「貴方のそんな声は知らない、認証失敗」
…そうか!タイムラグ。ああ…花向けの一夜に、どうしてこうも縁起が悪いことが起きるんだ。
くそっ、これなら、第七地区住民専用ホテルなんざに予約を入れなきゃ良かったぜ…
まあいいや、たった一夜の宿代なんてくれてやる、俺は明日から第七地区の住民さ!
深夜。
第七地区は夜行生物の管理区でもあった。
月が青く光っている。
ああ、こんな美しい光は見たことねえ…スラム街の汚れた空気、いつまでもギラギラ光る下品で安っぽい街灯…
あんな場所では絶対に眺めることは出来なかっただろうな…
青く光っている…
そうか、月とはこんなに美しく輝くものだったのか。
思えばあの汚い街で夜眺めるちっぽけでおもちゃみたいな月は、偽物の月みたいなもんだったな。
今眺めているこの高貴な街から見上げる月は…まるで、高級な音楽のように美しい光を注いでくれている。
「!そうか…」
きっとそうだ。
…『ブルームーン』。
この言葉はきっと、この美しい街の象徴なのかもしれない…
その真意はまだ知り合いもいないこの新しい街で、確かめようもなかったが、もしそうであるなら、俺は、この肩に入れた一等高級なチップに、より誇りを持てるし…まあ、それに反して、探そうと思っていたブルームーンの永遠の謎がすぐに見つかってしまったわけだから、ちょっとロマンが拍子抜けしてしまうんだが、まあそれも愛嬌があって結構だろう…
ああ…最高の気分だぜ。高級な、夜行生物の街の、やや抑えた街灯に照らされて、俺は、渋い酒でも飲みたい気分だった。
でも急がなきゃいけない。
この街の役所でもある御城は、深夜の間しか開かない。
今日を逃せばまた一日を待たなくてはならなくなる。
早いところ住民票を移しちまって、その後にでもゆっくり大人びたバーで、勝利の美酒でも味わうことにしてみよう……