慈悲深き聖女は、今日も人を殺す
石造りの細い路地には、いつも腐った藁と排泄物、そして貧困の冷たい饐えた匂いが澱んでいた。
王都の下町。光の届かぬ裏長屋の奥で、カテリーナは純白の修道服の裾を泥で汚しながら、狭い木戸を押し開けた。
「……誰だ」
暗がりの奥から、嗄れた男の声が響く。
炭を焼く仕事で肺を病み、腰を痛めて働けなくなった三十代の息子だった。その足元には、すっかり肉の落ちた襤褸布のような老女が横たわっている。自力で寝返りを打つことすら叶わず、垂れ流された汚物の処理も追いついていない。皮膚が擦り切れ、骨が浮いた腰には、赤黒い床ずれが膿んでいた。
「教会より参りました。傷の手当てをいたしましょう」
カテリーナが静かに微笑むと、息子の張り詰めていた肩が、不意に崩れ落ちた。
「聖女様……。すまねえ、すまねえ……。俺が、俺がもっと働けりゃあ、母ちゃんにこんな惨い思いをさせずに済むのに……」
男は床に両手をつき、嗚咽した。
王国の施策に、貧民のための手厚い救済などない。老いて働けなくなった者は家族が養うのが「神の掟」であり、子の義務だと教皇庁は説く。だが、金も薬もなく、日々の糧すら事欠く底辺の民にとって、その教えは首を絞める縄でしかなかった。
親を生かすために子が飢え、子が倒れれば親も道連れに朽ち果てる。
介護という名の、出口のない底なし沼。
カテリーナは祈るように手を胸の前で組み、柔らかな光を掌に宿した。
彼女が持つ『治癒の奇跡』。
どんな傷も塞ぎ、痛みを麻痺させることができる力。人々は彼女を慈悲深き「聖女」と呼び、教皇庁は神の恩寵の象徴として彼女を下町の慰問に遣わしていた。
光が老女の腰を撫でると、爛れた傷口がみるみるうちに塞がっていく。
老女の歪んでいた眉間が弛み、穏やかな吐息が漏れた。
「ああ……神様、聖女様……」
息子が涙を流してカテリーナの足元に額を擦り付ける。
「ありがとうございます……! これで母ちゃんも、もう痛がらない……」
カテリーナは優しく男の背を撫でた。
「ええ。もう痛みはありませんよ。……お疲れでしょう。薬草を煎じてまいりました。体を温めて、少しお休みなさい」
差し出された革袋の湯を、息子は疑うことなく飲み干した。
強い鎮静の作用を持つ草の煎じ薬。やがて男の瞼が重くなり、床に突っ伏して深い眠りへと落ちていく。
部屋には、静かな寝息だけが残された。
カテリーナは立ち上がり、老女の枕元に膝をついた。
治癒の奇跡で傷は塞がった。けれど、老いて痩せ細り、意識の混濁したこの肉体が、再び立ち上がり自らパンを食む日は永遠に来ない。
明日になれば、また新しい排泄物に塗れる。
明後日になれば、また新しい傷が開き、膿む。
息子は日雇いの仕事を休んで母の世話をし、やがて仕事を失い、親子もろとも飢えて死ぬだろう。誰も助けてはくれない。国も、貴族も、教皇も、彼らに向かって「親を敬え」と美辞麗句を吐くだけだ。
「……お母さん」
カテリーナは老女の冷たく節くれだった手を握った。
老女がかすかに目を開け、濁った瞳でカテリーナを見つめ返す。
「よく、耐えられましたね」
カテリーナの掌から、再び淡い光が溢れ出した。
だがそれは、傷を塞ぐ治癒の光ではない。
心臓の鼓動を、一拍、また一拍と、綿で包むように緩めていく力。
肺の動きを、深い眠りの底へと静かに沈めていく力。
苦痛は一片もない。まるで春の木漏れ日の中で微睡むような、完全なる安らぎ。
「もう、痛いことも、惨めなこともありません。息子さんを苦しめているという罪悪感に、胸を痛めることもありませんよ」
老女の瞳から、すっと一筋の涙が零れた。
その唇が、声にはならぬ形で、微かに「ありがとう」と動いたように見えた。
やがて、小さな呼吸が完全に止まる。
安らかな、まるで眠っているだけの死顔だった。
カテリーナは老女の手を胸元で組ませ、静かに立ち上がった。
床で眠りこける息子の顔を見下ろす。彼が目覚めたとき、母が安らかに息を引き取ったことを知り、悲しみとともに——決して口には出せない、深い安堵の息を吐くはずだ。重荷から解き放たれ、彼は自分の足で生きていくことができる。
愛と、呪いと、祈りは似ている。
「親を捨ててはならぬ」という愛の教えは、この持たざる者たちにとっては逃げ場のない呪いでしかなかった。
ならば、その呪いを断ち切るのが、自らの祈りだ。
神がこの国に救いの手を差し伸べないのなら、自らがその手を汚すしかない。
たとえ死後、どれほど深い地獄の業火に焼かれようとも。
「主よ、憐れみたまえ」
カテリーナは胸の十字架に口づけをし、暗い部屋を後にした。
路地に出ると、冷たい雨が降り始めていた。
修道服のフードを深く被り、彼女は次の「救い」を求めて、泥にまみれた細い道を歩き出す。
彼女は今日も、聖女として称えられながら、静かに人を殺し続ける。




