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慈悲深き聖女は、今日も人を殺す

掲載日:2026/10/15

石造りの細い路地には、いつも腐った藁と排泄物、そして貧困の冷たい饐(す)えた匂いが澱んでいた。


王都の下町。光の届かぬ裏長屋の奥で、カテリーナは純白の修道服の裾を泥で汚しながら、狭い木戸を押し開けた。


「……誰だ」


暗がりの奥から、嗄れた男の声が響く。

炭を焼く仕事で肺を病み、腰を痛めて働けなくなった三十代の息子だった。その足元には、すっかり肉の落ちた襤褸(ぼろ)布のような老女が横たわっている。自力で寝返りを打つことすら叶わず、垂れ流された汚物の処理も追いついていない。皮膚が擦り切れ、骨が浮いた腰には、赤黒い床ずれが膿んでいた。


「教会より参りました。傷の手当てをいたしましょう」


カテリーナが静かに微笑むと、息子の張り詰めていた肩が、不意に崩れ落ちた。


「聖女様……。すまねえ、すまねえ……。俺が、俺がもっと働けりゃあ、母ちゃんにこんな惨い思いをさせずに済むのに……」


男は床に両手をつき、嗚咽した。

王国の施策に、貧民のための手厚い救済などない。老いて働けなくなった者は家族が養うのが「神の掟」であり、子の義務だと教皇庁は説く。だが、金も薬もなく、日々の糧すら事欠く底辺の民にとって、その教えは首を絞める縄でしかなかった。


親を生かすために子が飢え、子が倒れれば親も道連れに朽ち果てる。

介護という名の、出口のない底なし沼。


カテリーナは祈るように手を胸の前で組み、柔らかな光を掌に宿した。

彼女が持つ『治癒の奇跡』。

どんな傷も塞ぎ、痛みを麻痺させることができる力。人々は彼女を慈悲深き「聖女」と呼び、教皇庁は神の恩寵の象徴として彼女を下町の慰問に遣わしていた。


光が老女の腰を撫でると、爛れた傷口がみるみるうちに塞がっていく。

老女の歪んでいた眉間が弛み、穏やかな吐息が漏れた。


「ああ……神様、聖女様……」


息子が涙を流してカテリーナの足元に額を擦り付ける。


「ありがとうございます……! これで母ちゃんも、もう痛がらない……」


カテリーナは優しく男の背を撫でた。


「ええ。もう痛みはありませんよ。……お疲れでしょう。薬草を煎じてまいりました。体を温めて、少しお休みなさい」


差し出された革袋の湯を、息子は疑うことなく飲み干した。

強い鎮静の作用を持つ草の煎じ薬。やがて男の瞼が重くなり、床に突っ伏して深い眠りへと落ちていく。


部屋には、静かな寝息だけが残された。


カテリーナは立ち上がり、老女の枕元に膝をついた。

治癒の奇跡で傷は塞がった。けれど、老いて痩せ細り、意識の混濁したこの肉体が、再び立ち上がり自らパンを食む日は永遠に来ない。


明日になれば、また新しい排泄物に塗れる。

明後日になれば、また新しい傷が開き、膿む。

息子は日雇いの仕事を休んで母の世話をし、やがて仕事を失い、親子もろとも飢えて死ぬだろう。誰も助けてはくれない。国も、貴族も、教皇も、彼らに向かって「親を敬え」と美辞麗句を吐くだけだ。


「……お母さん」


カテリーナは老女の冷たく節くれだった手を握った。

老女がかすかに目を開け、濁った瞳でカテリーナを見つめ返す。


「よく、耐えられましたね」


カテリーナの掌から、再び淡い光が溢れ出した。

だがそれは、傷を塞ぐ治癒の光ではない。


心臓の鼓動を、一拍、また一拍と、綿で包むように緩めていく力。

肺の動きを、深い眠りの底へと静かに沈めていく力。


苦痛は一片もない。まるで春の木漏れ日の中で微睡むような、完全なる安らぎ。


「もう、痛いことも、惨めなこともありません。息子さんを苦しめているという罪悪感に、胸を痛めることもありませんよ」


老女の瞳から、すっと一筋の涙が零れた。

その唇が、声にはならぬ形で、微かに「ありがとう」と動いたように見えた。


やがて、小さな呼吸が完全に止まる。

安らかな、まるで眠っているだけの死顔だった。


カテリーナは老女の手を胸元で組ませ、静かに立ち上がった。

床で眠りこける息子の顔を見下ろす。彼が目覚めたとき、母が安らかに息を引き取ったことを知り、悲しみとともに——決して口には出せない、深い安堵の息を吐くはずだ。重荷から解き放たれ、彼は自分の足で生きていくことができる。


愛と、呪いと、祈りは似ている。


「親を捨ててはならぬ」という愛の教えは、この持たざる者たちにとっては逃げ場のない呪いでしかなかった。

ならば、その呪いを断ち切るのが、自らの祈りだ。


神がこの国に救いの手を差し伸べないのなら、自らがその手を汚すしかない。

たとえ死後、どれほど深い地獄の業火に焼かれようとも。


「主よ、憐れみたまえ」


カテリーナは胸の十字架に口づけをし、暗い部屋を後にした。


路地に出ると、冷たい雨が降り始めていた。

修道服のフードを深く被り、彼女は次の「救い」を求めて、泥にまみれた細い道を歩き出す。


彼女は今日も、聖女として称えられながら、静かに人を殺し続ける。



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